決意するもの
ジュリアが屋上の出入り口の扉の向こう側へと行って、扉が閉められた瞬間、アリノアは隠し持っていた短剣を素早く取り出した。
「……さて、仕事をしましょうか、ノティル」
「了解っ」
アリノアの影から瞬時に出て来たノティルは中型犬の姿へと変える。あとは目の前の核を失った呪魔を叩き斬って、ノティルに回収してもらうだけだ。
「エル、あなたは私達の後ろに。ここからは私達の出番よ」
「うん。気を付けてね」
素直にエリティオスは従い、アリノアの後方へと下がった。
「さぁ、やるわよ……」
アリノアは短剣を顔の前へと構えて、呪文の詠唱を始める。その間にも目の前の呪魔はゆらりと不気味に動いていた。その姿はもはや先程の蛇のような形を保ってはいなかった。
「――我、その意志を断ち切るもの。邪なる心を塞ぐもの。この刃は神の雷となり、今ここに、汝を滅する力よ……宿れ!」
魔法によって帯電した短剣が淡く光りつつ、放電するように細く白い線が弾いては消えていく。
地を蹴ったアリノアは呪魔の脳天目掛けて短剣を振り下ろした。アリノアの手には呪魔を切り裂いていく確かな感触が残る。
それまで形成されていたものが真っ二つに分かれ、帯電した短剣の力によって、その身は一度跳ねたように浮かんでから固まった。その隙を見逃さずにアリノアは叫ぶ。
「回収!」
「はいよっ!」
獲物を狩る野獣のようにノティルは飛び出し、食べやすいように半分に刻まれた呪魔へと襲い掛かった。欠片に噛み付いては吸い込むように体内へと入れていく。
そして、その場にいたジュリアの呪魔はあっという間にノティルによって一片も残らず片付けられる。
「ぷっはー……。恨み、だけれど……最後は何だかしょっぱいなぁ。うん、でも後味は良い感じ」
中型犬から猫の姿へと戻ったノティルは自らの口周りを舌で舐めとって、その場に座り込む。ここ最近の呪魔の味にしては彼の満足するものだったらしい。
「よし、任務完了ね」
アリノアは短剣を服の下に隠していた鞘へと収め直してからエリティオスの方へと振り返る。
「……手際が良いね」
「専門だもの。……でも、褒めたいのはあなたの方よ」
「え? 僕かい?」
意外だと言うようにエリティオスの瞳が丸くなっている。
「私は……いつも呪魔がいれば、問答無用で斬るばかりだったの。でも、あなたは違った。素人で、呪魔に対抗する術もないのに言葉だけでジュリアを説得したもの」
正直に言えば、呪魔を狩る専門である自分に出来なかったことをエリティオスがやってのけた事が悔しくもあり、褒め称えたいと思った。
「それは……。多分、呪魔を食べたからだよ。ジュリア・リメールの心を知ったからこそ、彼女の目の前に立つことが出来たんだ」
微かにエリティオスが笑った。その瞳は空を羽ばたく黒い鳥を映していた。
「僕はいかに、自分のことだけしか考えていなかったのかを思い知った。だから、無責任かもしれないけれど、自分の言葉で伝えなければいけないと思ったんだ」
「……」
王子という立場、彼は様々なことを考えながら荒波を立てないように生きて来たのだろう。
だからこそ、それが裏目に出てしまう時もあるのかもしれない。誰かを拒絶しない言葉が、他の誰かを拒絶してしまう。両方を保ちながら均衡を描くのは難しいことなのだ。
「……でも、あなたのおかげで助かったわ。ありがとう」
「お役に立てたなら、良かったよ。まぁ、足を色々と引っ張った気はするけれど。……あ、そういえば、怪我は大丈夫なのかい? さっき、横腹に……」
途端にエリティオスは心配するような表情でアリノアのすぐ傍まで駆け寄って来る。
集中していたため、すっかり横腹を攻撃されたことを忘れていたアリノアはすぐさま手で傷を隠した。
「平気よ。あとで医務室の人に治してもらうから」
「けれど……」
「あなたは怪我一つに大げさに気にし過ぎなのよ。任務をやっていれば、怪我することの方が多いんだから」
「だって、女の子なのに傷が残ったら大変だろう?」
「あのねぇ……。私達の仕事は一々、そんな小さなことに構っていられないの」
「でも、僕はアリノアが傷付くのはあまり見たくないな」
突然、真面目な表情へと変えてそう言うのでアリノアは一歩後ろへと下がってたじろいでしまう。
「魔法で怪我が治せるからと言って、自分の身体を大事にしないのは駄目だよ?」
「……わ、分かっているわよ……」
エリティオスの碧い瞳がどこか探るように見えて、アリノアは急いで視線を逸らした。彼の言葉と瞳には妙な力があるため、つい引き込まれてしまいそうになるのだ。
これ以上、その話をされたくないアリノアはわざと話を変えることにした。
「ほら、もう帰るわよ。あなた、学生寮に住んでいるなら夕食の時間や門限があるでしょう?」
「あぁ、もうそんな時間か」
エリティオスは自らが腕にしている時計へと目をやった。
どうにか気を逸らせたことに安堵しつつ、アリノアは張っていた結界を解くべく、指を鳴らす。見た目は何も変わっていないが、これで不可視の結界は解除されたはずだ。
帰ろうと思い、屋上の出入り口である扉へと足を向けた時、後ろから呼び止められる。
「アリノア」
エリティオスの呼び声にアリノアは顏だけ振り返ると彼は小さく笑っていた。
「……ありがとう」
そのお礼が何に対するものなのかは分からない。だが、それをわざわざ訊ねるのは野暮だろうと思い、アリノアは苦笑した。
「帰るわよ、エル」
「うん」
足元に居たはずのノティルはいつの間にか影の中へと戻ってしまっている。帰宅を促したエリティオスはやっと歩み始めた。
……自分の知らないうちに呪われているなんてことが、彼にはあるのかもしれないわね。
出来るなら、その呪い達を全て跳ね返してやりたいと思う。
だが、きっとエリティオスのことだ。向けられた呪いを受け止めてしまいそうで、アリノアはそれが恐ろしくも感じられた。
向けられる呪いを全て受け取るなど、自分の心の器が保てなくなってしまう。それが分かっているから、エリティオスには無茶をさせたくないと思うのだ。
……たった、数日で感化されている気分だわ。
エリティオスのことをよく知っているわけではないというのに、胸辺りにぽつりと浮かぶこの気持ちは何だろうか。
心配か保護か、それとも世話好きの自分の性格がうずいているだけなのか。
「アリノア?」
立ち止まっていたアリノアを心配するように、前へと進んでいたエリティオスが振り返る。
……考えても仕方ないわ。私は自分のやるべきことをやるだけだもの。
アリノアは顏を上げて、前へと進んだ。
「何でもないわ」
穏やかに答えつつ、エリティオスの隣へ並ぶように早足で追いついた。エリティオスは特に気にすることなく、歩幅を同じくらいに合わせながら再び歩き始める。
「今日の夕飯は何かな……。学生寮の食事って毎日、献立が違うから楽しみなんだよね」
「……自分で料理はしないの?」
「一応、部屋には簡易調理台は付いているよ。でも、紅茶を淹れる以外で使ったことがないんだ」
普通の学生のような生活を送っているエリティオスは毎日が冒険だと言っていた。
どんなことでもそれは彼にとっての経験になっているのだろう。毎日を楽しく生きている彼の笑顔は自分にとって眩しいものだ。
「……」
エリティオスの隣でアリノアは静かに決意する。彼がこの先、誰かからの呪いを受けるならば、自分がそれに立ち向かう剣と盾になろうと密かに誓っていた。




