真の心と許す心
「……私は」
姿が完全に見えたジュリアの口から言葉が紡がれる。
「私は……本当はあなたに対する気持ちなんて持っていないの」
彼女の気持ちは落ち着いているのか呪魔は攻撃する体勢には入っていないように見える。もしかすると、「呪い」の核がジュリアの中で揺らいでいるのかもしれない。
「ただ、流されるまま、生きてきて……。自分の感情さえもどういうものか分からない。でも……。今までの自分を否定された気がして……それだけが嫌だったの」
「……うん」
ジュリアの瞳から一筋の涙が頬を伝っては落ちていく。それは醜い形をしている呪魔とは違って、宝石のように美しい雫だった。
その光景をアリノアは驚きの瞳で見続けた。斬るだけの方法とは違う、呪魔の祓い方があるのだと思い知らされた瞬間をそっと見守った。
涙を流しながらジュリアは顏を上げた。
「それでも、はっきりと分かることがあるわ。私、別にあなたのことが好きなわけじゃないの。言われるがまま、色々と身に着けてきたけれど……私はあなたを好きにはなれなかった」
薄く笑みを浮かべるジュリアの表情は自嘲しているように見えていた。それをエリティオスはどんな思いで見ているのだろうか。
「父にも言われたわ。……せっかく、王子が学友なのだから、心をものにして来いって。でも、自分の心はあなたを求めたりなんて出来なかった」
ジュリアは制服のスカートのポケットへと手を入れた。
何か武器でも取り出す気なのかとアリノアが気付かれないように構えていると、ジュリアが取り出したのは女学生達の間で流行っているリボン結びにされた赤いリボンだった。
よく見るとそこには金髪が一本と黒髪が一本、束ねるように結ばれていた。
「こんなことしても、あなたの気持ちが私に向くわけが無いし、私の気持ちがあなたに傾くなんてなかったのにね」
するとジュリアはふっとアリノアの方へと振り返る。
「嘘をついてごめんなさいね。……自分でも何と愚かなことをしているのだろうと思っていたから。……おまじないで人の心が傾くなら、誰だって成功するのにね」
自嘲じみた笑みを浮かべたままのジュリアにアリノアは首を横に振る。
「こんなことを言ったら、怒られるかもしれないけれど……。おまじないというものは、ある意味、勇気が具現化したものだと思うの」
「……」
「自分の叶えたい願いのために、縋るものだから……。だから、愚かなことじゃないわ。人を呪うのは駄目だけれど……」
「……呪い。ふふ……。そうね、確かにそうだわ。だって私、このおまじないにエリティオス王子が振り向いてくれますようになんて、願っていないもの」
「え?」
「リメール家と王家の縁が結ばれますように。……結局、このおまじないに願ったのは家の事だったわ。私の感情は一つも入っていないの」
ジュリアはエリティオスから握られていた手を自ら離し、そしてリボン結びにしていたリボンをゆっくりと解いていった。
赤いリボンは一本へと戻り、束ねていた二本の髪はその場に落ちていく。
「あ……」
アリノアは思わず呟いてしまっていた。ジュリアが生み出した呪魔が「呪い」の核を完全に失ったことで、形を崩し始めたからである。
それはジュリアが目の前にいるエリティオスをもう呪ってはいないことを意味していた。
「変な態度を取って悪かったわ。……会ったこともないのに、よく知らないあなたの事を恨んでしまった。結局は自分の心の持ち様なのにね」
「……君はこれからどうするつもりなんだ。王子妃という立場が手に入らないと君はまた……」
エリティオスの気遣うような言葉に、ジュリアは苦笑した。
「ええ、分かっているわ。でも正直、王子妃なんてどうでもいいのよ。だって、あなた自身は私のことを否定していないと分かったんだもの。だから……私は私らしく生きるわ」
真面目な印象があるジュリアとは思えないほどに彼女は穏やかで爽やかな笑みを浮かべていた。これから先は彼女自身の人生に関わることだ。他人である自分が色々言えることではない。
アリノアがじっと黙って言葉を聞いていると、ジュリアが再びこちらへと振り向いた。
「アリノア・ローレンス、だったかしら」
「え? ええ、そうだけれど」
「話の場を設けてくれて、ありがとう。おかげ様で少しだけすっきりしたわ」
「……そう」
別にエリティオスとの話の場を設けたくて、ジュリアを屋上へと呼び出したわけではないが、詳しく説明する方が面倒なのでそういうことにしておいた。
「でも、どうして私がエリティオス王子におまじないをかけていると分かったのかしら? あのおまじないは誰にも知られないように、ずっと私の手に持っていたのに」
不思議がるようにジュリアは小さく首を傾ける。
「……私、お節介焼きなのよ。あなたがエリティオス王子を前にした時、無意識だと思うけれど、あなたの表情が無になっていたの。だから、きっと二人の間には何かあるんじゃないかと思って」
「物好きな人ね。……他人の人間関係に自ら突っ込むなんて、面倒でしょうに」
「だけれど、負の感情を持ったまま生きるのは誰でも辛いでしょう? 余計なお世話かもしれないけれど、私は……。他人と言え、誰かが心に苦しみを抱えたまま生きていく姿を見たくないのよ」
「あなたにそれが分かると言うの?」
意外だというように、ジュリアは目を丸くしていた。
「……表情を見ていれば、ね」
嘘ではないが、そう答えるしかなかったアリノアの返答にジュリアは小さく笑った。
「やっぱり、物好きだわ。でも、あなたのそういうところ、少しだけ尊敬するわ。……私も誰かのことを気にかけられる程に心が広かったら良かったのにね」
その時、強い風が吹いた。結界は不可視と魔防の結界であるため、対象となっていないものは自然に行き来できるのだが、それにしてはかなり強い風だった。
「……」
アリノアが目を開けた瞬間、ジュリアの手からするりと赤いリボンが抜けて、宙へと舞って行く。まるで、風が赤いリボンを攫うようにも見える光景を三人は顏を上げて眺めていた。
おまじないの呪具として使われたリボンは、ジュリアの手によって解呪された。今、目の前を蝶のように美しく舞っている赤いものは普通のリボンとなったのだ。
それを興味なさげにジュリアは目を逸らす。
「……それじゃあ、帰らせてもらうわ。父にも報告しないといけないし」
「報告?」
「私、家を出ようと思うの。……留学したいのよ、ピアノの勉強をするために」
それが彼女の本当の願いらしい。親の言うままに従うのではなく、彼女は自分らしく生きるために、一歩を踏み出そうとしているのだ。
「多分、反対されると思うけれど、粘り強く説得してみせるわ。……私の人生は私のものだもの。邪魔なんてさせないし、生きるなら後悔しない選択をしたいわ」
「……思っていたよりも、根性があるのね」
自分が知らない道へと一歩踏み出すのには勇気も努力も必要だと思う。だが、ジュリアからは鬱々とした様子は感じられず、未来に期待しているような明るい表情をしていた。
その眩しい気に当てられたのか、核を失った呪魔はその身を少しずつ擦切らせているように見える。このままジュリアが負の感情を持たないなら、呪魔は薄れて消えていくかもしれない。
「ええ。今まで散々、父親にしごかれて来たもの。……この根性を作り上げたことを父には後悔してもらうことになるけれどね」
言っている言葉は何となく不穏だが、ジュリアは薄っすらと穏やかな笑みを浮かべているので負の感情ではなさそうだ。
……本当にエリティオスの言葉だけで、呪いの核を消失出来るなんて……。
あとで報告書を仕上げる時に、サリチェに今回のような前例があるのか話を聞いてみよう。もしかすると、今後、呪魔を狩っていく上でいい情報が得られるかもしれない。
そんな事を思っているうちに、ジュリアがこちらへと背を向けた。
「……もし、私の進む道がはっきりと決まったら、あなた達に話をしに来てもいいかしら」
「え? うん、いいけれど……」
だが、何故自分達だろうとアリノアが首を小さく傾げると彼女はアリノアの言いたい事が分かっているのか、少しだけこちらを振りむいて答えてくれた。
「あなた達なら……何となく、私の夢を馬鹿にしたり、笑ったりしないで、聞いてくれると思ったの」
「……馬鹿になんかしないわ。人が抱いているものを嘲るのは愚かなことよ」
「ふっ……。本当に真っすぐね、アリノア・ローレンス。……エリティオス王子、私のことを不敬罪で訴えることも出来るけれど、どうする?」
どこか挑戦的な瞳でジュリアはエリティオスへと振り返る。
「そんなことはしないよ。今の君と僕は学友同士だ。人間関係で揉めるのはよくある事だし、僕としては恨みをぶつけたくなる君の気持ちが分からないでもないからね」
「……」
エリティオスも人間関係で悩んでいるのだろうか。そう思わせる言葉にジュリアも少しだけ眉を寄せて、瞳を閉じた。
「……気分の悪い思いをさせて悪かったわ」
「大丈夫だよ。……本来、謝るなら僕の方だからね」
「でも、私があなたに抱いていた感情は逆恨みだもの」
「それなら、お互いに許し合おう。…‥それでこの感情には決着をつけよう」
エリティオスの提案にジュリアは少し目を見張り、そして噴き出すようにして笑った。まさか彼女がそのような笑い方が出来るとは思っていなかったアリノアは少しだけ意外だなと驚いていた。
「……本当に心が広くて物好きな人達ばかりね。でも……ありがとう」
ジュリアはそう呟いて、再びこちらに背を向けて、屋上の出入り口に向けて歩き出した。
彼女はもうエリティオスに対して、何の感情も持っていないのだろう。そう思えるくらいに最後は清々しい表情をしていた。




