憎悪の記憶
「――アリノア!」
身体を少し揺さぶられたアリノアははっと我に返った。目の前にはエリティオスが片足を付いて、心配そうな表情で顔を窺っている。
「起きた? アリノア、大丈夫?」
少し上を見上げると、呪魔の攻撃がこちらに届かないように影を壁のように広げて、自分達を守ってくれているノティルもいた。
「え? ……ええ、大丈夫よ」
久しぶりに人の記憶と感情が流れて来たため、長く呆然としていたようだ。
だが、昨日よりも負の感情を受け入れられたのは何故だろうか。昨日は強い目眩がしていたが今はそれ程でもなかった。
……耐性が付いているということ? それとも……。
それでも、考えるのは後回しだ。この状況で自分が戦闘離脱すれば確実にエリティオスが攻撃されることは目に見えている。
「ごめんなさい、もう大丈夫だから」
アリノアは右横腹を左手で押さえつつ、ゆっくりと立ち上がる。
「だが、怪我を……」
「平気よ。かすっただけだから、傷は深くないもの」
ただ記憶と感情が溢れるように流れて来たため、それを整理しなければならなかった。
……恐らくだけれど、ジュリアは……。
ジュリアの記憶の中で最後に見えたのはエリティオスの笑顔だった。その瞬間、彼女の心は叫んでいた。
――私はこんなにも辛い思いをして生きているのに、どうして彼は笑っていられるのか。
エリティオスの笑顔を見るまで、彼女の心の中は焦燥と葛藤、自己承認の思いで溢れていた。
だが、エリティオスを見た瞬間の感情を一言で表すなら、それは「憎悪」という言葉が似合うほど、心の中は煮え切った泥水のようなもので溢れていた。
自分自身を認められたいと努力し続けた彼女は、エリティオスが王子妃候補を拒否したことで、今まで築いてきた自分自身を否定されたと思ったのだ。
傷付いた彼女の心をえぐるように、エリティオスが楽しそうな日常を送る程、憎む思いが募っていったのだろう。
そして、ジュリアは抱えきれなくなった思いをエリティオスへとぶつけるように「呪った」のだ。
「……ノティル、盾を解いて」
「本当に大丈夫かい?」
「ええ。このままだと埒が明かないもの」
アリノアが一歩、前へと進もうとした時だった。
「僕が行く」
真剣な表情でエリティオスがそう告げたのだ。
「……何を言っているの」
「ジュリア・リメールが呪魔を出しているのは僕の責任だ。それなら……僕が説得する」
「待って。……あなた、自分が言っていることの意味分かっているの? 確かにあなたが関わっている件だとは言え、無闇に呪魔の前に飛び出るのは危険な行為よ。私は賛成できないわ」
「……」
すると何を思ったのか、エリティオスはアリノアの足元に落ちている呪魔の切れた尾を拾い上げたのだ。
尾は先程と比べると掌に載るくらいまで縮んでいるように見える。
本体から切り離された呪魔の一部分は影魔によって食べられるか、剣で切り刻まれない限り、ゆっくりと空気中へと馴染むように消えていく。
そして、再び引き戻されるように呪魔の一部となるのだが、その欠片をエリティオスは手に取ったまま、見つめている。
「何を……」
「少しだけ、呪魔について調べたんだ」
エリティオスの視線は彼の掌の呪魔の欠片へと注がれている。
「呪魔が身体に触れた時や傷を付けた時、呪っている相手の感情や記憶が自分の中へと押し寄せてくるらしいね」
どうやって調べた情報なのかは知らないが、彼はゆっくりとそう呟いていた。
そして、彼は寂しく笑ったのだ。
「これしか、人の感情を知る方法がないからね」
そう言って、掌に載せていた呪魔の欠片を彼は口の中へと含んだのだ。
「っ!? 何をしているのっ……」
驚いたアリノアは思わず、エリティオスの両肩を握りしめる。しかし、彼は既に呪魔の欠片を体内へと飲み込んでしまったらしく、吐き出すことはなかった。
含んだ呪魔が身体に染み込んでいるのか、エリティオスの表情は一瞬で苦しいものへと歪み、その場へと両膝を付けて座り込む。
「エルっ……」
エリティオスは自分の胸辺りを鷲掴みにしたまま、荒く息を吸っては吐いている。ジュリアの感情と記憶が彼の中で渦巻いているのだ。
呪魔の欠片を直接、体内へ取り込むなど聞いたことがないアリノアはどうすればいいのか分からないまま、エリティオスの傍らに座り、彼の背中を優しく撫で続けた。
「……これが……」
エリティオスがそう呟いてから、激しく咳き込む。表情は青く、息は肩でしている。彼の身体が呪魔を拒絶していることは明らかなのに、解放する方法が分からないのだ。
呪魔を受け入れることは難しいはずだ。専門の自分でさえ、呪魔が持っている感情と記憶を受け入れるには時間がかかるというのに、エリティオスは迷いもせずに飲み込んでしまった。
「エル……。エルってば!」
アリノアの呼びかけが聞こえるのか、彼は右手を軽く上げ、薄く笑う。どうやら、意識ははっきりしているらしい。
つまりそれは、彼の心と身体が呪魔を受け入れたことを意味していた。
「……大丈夫だ」
それでもエリティオスの額には汗が浮いていた。呪いをかけられている相手の呪魔を直接、身体に取り込めば、ジュリアが自分のことをどう思っているのか彼は知ってしまったはずだ。
だからだろうか、先程とは顔つきが違うように見えてしまう。
「僕は大丈夫だ。だから、ジュリア・リメールと話をさせて欲しい」
「でも……」
「君の防御魔法がこの身体にはかかっている。傷が付いたとしても、もう全てを受け入れられるよ」
「……」
悟ったようなエリティオスの表情にアリノアは唇を強く噛んだ。
「……あなたの妙に腹を括るのが早いところ、嫌いじゃないわ」
「それは誉め言葉として受け取ってもいいのかな」
「ええ。滅多に言わない誉め言葉よ。しっかりとその胸に刻んでおきなさい」
アリノアはすっと立ち上がり、エリティオスへと手を伸ばす。彼は小さく笑って、アリノアの手を取ってから立ち上がった。彼の顔色はあまり良くないようだが、もう息は整っているらしい。
「攻撃は出来るだけ私が叩き斬るわ。あなたはジュリアへと呼びかけ続けて。……彼女の呪魔を受け入れたあなたの声なら届くかもしれないわ」
一種の賭けだ。だが、賭けてみなければ結果は分からない。自分はエリティオスを守らなければならないが、それでも彼の覚悟を無下には出来なかった。
エリティオスの強い意志を含んだ碧い瞳に魅せられた以上、断れなかったのだ。




