秘められたもの
放課後、アリノアはエリティオスを連れて、図書室へと赴いた。今日は利用者が少ないのか、数人の生徒が椅子に座って本を読んでいるだけだ。
「どこにあったかしら……。探してくるから、気になった本でも読んでいて」
「うん。ありがとう」
エリティオスを残し、アリノアは本棚の間を通り抜けつつ、目的の本を探す。
「どこだったかな……。えーっと……」
セントリア学園の図書室の本は近隣の図書館並みの高い質と量を誇っている。
最近は司書が作ってくれている目録による本の詮索も出来るようになっているらしいが、アリノアは自分の目でこうやって探す方が好きだった。
本棚のあっちを見たり、こっちを見たりしていると、後ろから優しげな声がかかった。
「何という本を探しているの?」
「え?」
思わず声がした方に振り返り、そこで息が止まりそうになる。
振り返った先には、会ってみたいと思っていたジュリア・リメールがいたからだ。彼女の左腕には図書委員と書かれた腕章が付けられており、片腕には三冊の本が積まれていた。
「あ……。えっと、『グラナーダ帝国記』という長編の本なのだけれど……」
「あぁ、それならこっちよ」
空いている手で手招きしてくるジュリアの背中を見ながら、アリノアは呪魔の気配が感じられるかどうか凝視していた。
「あなたもあの本が好きなの? あれ、随分と昔のものよね」
「えっ? あ、そうね。確か三十年くらい前に出版されたものだったかしら。たまに読みたくなるのよね」
「奇遇ね。私もあの本が好きなの」
そう言って、彼女は小さく笑ったような気配を見せる。
……呪魔の気配は全くないわね。
今日、通り過ぎていった時に見えたのは間違いなく呪魔だったが、別人が出した呪魔がたまたま彼女の肩に乗っていたということだろうか。
「あ、これよ。前に蔵書点検をした時に、本の場所を少し移動させたの」
ごめんなさいね、と言って彼女は本を棚から抜き取り、渡してくれた。
「あぁ、そうだったのね。どうもありがとう」
思っているよりもいい人なのではと思い始めた時、アリノアの後ろにあった本棚の陰からひょいっとエリティオスが現れる。
「あ、アリノア。本は見つかったかい?」
彼は悪気などなかったのだろう。
だが、その一瞬でその場に呪魔の気配が一気に広がった。
「っ!」
アリノアはばっと、ジュリアの方へ顔を向ける。その表情の色は無だった。
そして、今度ははっきりと見えた。彼女の身体を取り巻くように大蛇がうねり、舌をこちらに見せている姿を。
「……」
ジュリアは何も言わないまま、自分達に背を向けてその場を立ち去る。
……あれは無の表情なんかじゃない。今の瞳の奥に見えたのは……怒りだわ。
アリノアはごくりと唾を飲み込み、ジュリアの背中を呆然と見ていた。彼女に呪魔は見えていない。恐らく、蛇型を纏っているのは無意識なのだろう。
「……アリノア、今の……」
エリティオスにも見えたのだろう。目が点になっていた。
「……彼女の呪魔だわ」
あれは狩らなければならないものだ。だが、今は出来ない。服の下には短剣を仕込んであるが人の目があるため、安易に出すことは出来ないのだ。
……さっきまで何もいなかった。それなのにエリティオスが来た途端に出現したということは、原因は彼にあると言うこと?
「アリノア……。アリノア?」
肩を軽く叩かれたことで、アリノアははっと我に返った。
「あ……。あぁ、ごめんなさい。考え事をしていたわ。はい、これ。言っていた本よ」
「ありがとう。……大丈夫なのかい?」
心配そうにエリティオスがアリノアの顔色を窺ってくるが、すぐに横に首を振った。
「私はね。でも一度、彼女と色々話をしてみた方が良さそうね」
先程の呪魔とエリティオスに向けられたジュリアの鋭い視線は何か関係があるのかもしれない。
「……それなら、僕も同行しようか」
周りを気にするように小声に抑えてエリティオスが話を振って来る。
「は? ……あなたが来て、どうするつもりよ」
「いや、僕が話をしてみようかと思って。……一応、元婚約者候補だから、僕が何か関係しているならさっきの蛇型の呪魔がこっちを睨んでいた理由も何となく分かるからね」
「……」
確かに蛇型の呪魔が出現した時、アリノアよりも背後にいたエリティオスの方を睨んでいたように見えた。
彼が関係している上であの呪魔が出現しているというのなら、やはりエリティオスに居てもらった方がいいのだろうか。
「……危険なことにあなたを巻き込みたくはないわ」
アリノアが少し悲しみを込めた瞳でそう呟くとエリティオスははっとしたような表情で目を逸らした。もしかするとまだ、昨日のことを気にしているのかもしれない。
「でも、さっきの呪魔が僕のせいなら……。君はその尻拭いをすることになるんだろう」
「呪魔を討伐するのは仕事だもの。あなたには……関係ないわ」
突き放すつもりはなかった。だが、ついそう言ってしまった後でアリノアは深く後悔した。
目の前のエリティオスの表情が何とも言えないくらいに悲しみを含んだものに見えたからだ。
「っ……」
しかし、エリティオスの悲しみの表情は元からそこになかったかのように、次の瞬間には苦笑へと変わる。
「……そう、だよね。確かに僕が一緒だと迷惑がかかるからね」
「あ、違うの……。その……」
「ううん、いいんだ。分かっていたことだから」
どこか諦めを含んだように彼は小さく笑っていた。その笑みが自嘲のように見えたアリノアは思わず、エリティオスの腕を掴んでいた。
「っ……?」
突然、腕を掴まれたエリティオスは何事かと、丸くなった瞳でアリノアを見ていた。
アリノア自身も、何故エリティオスの腕を掴んでしまったのかが分からない。だが、彼が一瞬だけ見せた悲しそうな表情が脳裏から拭いきれなくなってしまったのだ。
「……別に、あなたが不必要だって言っているわけじゃないわ」
「え?」
「私は……あなたに傷付いて欲しくないだけなの。王子としてだけじゃなく、その……私の友人として」
「……」
エリティオスはアリノアの言葉に驚いたのか、ぽかりと口を開ける。そして、小さく噴き出したのだ。
「なっ……」
その笑いは静かな笑いであるため、静まった図書室内に響くようなものではなかったが、アリノアは慌てふためきながら周りをさっと見渡した。
近くには誰もいないが、それでも笑い声は推奨されるべきものではないと伝えるようにエリティオスに対して訴えかける瞳で軽く睨むと、彼は小さく頷いてから目元に薄く浮かんでいた涙を空いている手で拭っていた。
「君が優しいことは知っているけれど、本当に想像以上だね」
「……どういう意味よ、それ」
「そのままの意味だよ。……優しい君なら、きっと……僕のことを助けてくれそうだなと思って」
「……あなたが困っているなら、もちろん助けるわよ」
しかし、目の前のエリティオスの表情はどうしてか意味ありげに見えて、気まずくなったアリノアは視線だけ少し逸らした。
そして、出来るだけ自然な流れに見えるようにエリティオスを握っていた手をそっと離す。
「……ねぇ、アリノア。やっぱり、僕をジュリア・リメールに会わせてもらえないかな」
「本気で言っているの?」
「うん。……王子としてじゃなく、エリティオスとして、向き合うべきことだと思うんだ」
その言葉は誰に対して告げられたものなのかは分からない。それでも、彼の瞳は真剣そのもので、ただの気まぐれで自分に付き添いたいと言っているわけではなさそうだ。
……何か、ジュリア・リメールに対して直接言いたいことがあるのかしら。
もし、ジュリアがエリティオスに呪いをかけているなら、普通は会いたいとは思わないだろう。だが、エリティオスはその事から目を背けようとはしていないのだ。
アリノアは盛大に溜息を吐きつつ、腰に手を当てる。
「……仕方ないわね。でも、一般人を任務に巻き込むのは禁止されているから、上司に許可を取って来るわ」
「いいのかい?」
「私の判断ではなく、上司が許可してくれたらジュリア・リメールに会う際に付いて来てもいいわ。……その時はあなたに防御魔法をかけさせてもらうけれど」
「もちろん、構わないよ。……もし、許可されなかったらその時はちゃんと大人しく帰るよ」
アリノアは軽く溜息を吐きつつ、頷き返す。とりあえず一度、課長のサリチェに連絡を入れなければならないようだ。
……その前に、ジュリアを呼び出す準備もしないとね。
そちらの方は顏の広いクレアに任せた方がいいだろう。自分よりも人間関係を上手く循環させている彼女なら、上手く呼び出してくれそうだ。
「はっきりと決まり次第、あなたにも伝えるから、くれぐれも早まる様なことはしないでね?」
「うん。分かったよ」
それ以上の我儘を通す気はないのか、エリティオスは素直に頷き返す。
彼にどんな考えがあって、ジュリア・リメールに会いたいのかは分からないが何か策でもあるのだろうか。
……まさかね。
エリティオスは王子とは言え、一般人だ。呪魔に対する対処法を習得しているわけではない。
「……さて、本の借り方を教えてあげるから、付いて来て」
「宜しく頼むよ」
先程の悲しみを含んだ表情はどこへいったのかと思えるくらいにエリティオスは穏やかに笑っている。
……きっと、さっきの私の言葉は彼の中の何かを傷付けたんだわ。
踏み込んではいけない何かを自覚しつつもアリノアはエリティオスに対して、複雑な思いを抱いていた。




