氷の声
「もう! 本当にやりにくいわね! どうせなら、校庭に出現すればいいのに!」
アリノアは短剣で素早く五芒星を描く。
「氷の女神、グラシスに乞う。今ここに、汝が力、顕現したまえ! 凍る鉄の盾!」
空気が急激に冷え、自分以外の壁や窓に膜を張るように氷の壁がアリノアの足元から広がっていく。これなら、ある程度の攻撃を受けても氷が吸収してくれるはずだ。
次第に氷が呪魔の足元まで届き、尻尾から少しずつ凍らせていく。低く唸った声が蛇型から漏れる。
アリノアは凍った床を味方に付け、躊躇なく駆けだす。そのまま一度身体を下へ潜るように沈み込み、水面から飛び出る海獣のように短剣を蛇型の顎から脳天目掛けて突き刺した。
……手応えはあるのにっ!
微動しない蛇型の呪魔に一瞬、気後れしたのが伝わったのか、頭上にある目がぎょろり、と動いた。
「っ!」
すぐに短剣を引き抜き、後ろへ下がろうとしたがすでに遅かった。凍り付き始めていたはずの尻尾が大きな音を立てて氷を割り、まるで塵を払うようにアリノア目掛けて、大きく鞭打ったのだ。
「ぐっ……」
腹部にその尻尾が綺麗に入ったせいで、アリノアの身体は吹っ飛び、壁に強く打ち付けられて、大きくしなる。そのまま身体は壁を沿うようになぞり、その場にもたれた。
……しまった……。
意識がはっきりとしない。このままでは駄目だと分かっているのに、手元から離れた数歩先に落ちている短剣に手が届かなかった。
息も上手く出来ない。油断はしていなかったが、最初の攻撃の余波がまだ身体の中に残っているのが原因なのだろう。
少しずつゆっくりと手を伸ばす。すぐ近くまで呪魔が近づいてきているのは分かっていた。それでも自分がやらなければ。
だが、すっと自分の前に大きな影が出来る。いや、影ではないこれは――。
「――近づくな」
知っている声なのに知らない声だった。冷徹という言葉が似合うほど、氷よりも冷たく、牙よりも鋭い声。
エリティオスがアリノアの短剣を掴み、背で庇うようにしながら膝を立てて、目の前で壁となっていた。
「それ以上、動けば今度は僕が相手してやる」
全くと言っていい程、彼は呪魔に対して恐れを抱いている様子はない。まるで自分の方が立場は上だと自覚しているようにさえ思える程、彼の後ろ姿は堂々としているものだった。
エリティオスの目の前には大型犬に変化したノティルがいる。歯を見せつつ、威嚇しているようだった。
……駄目よ、危ないのに。
そう言いたいのに上手く声が出ず、咳き込んでしまう。
呪魔はエリティオスを睨んでいるようにも見えた。一歩、動こうと前に出ては、何か考えでもあるのか、そのまま動きを止めるといったことを繰り返す。
「……」
どのくらいの間、呪魔とエリティオスの睨み合いが続いたのかは分からない。だが、暫くすると呪魔はこちらに背を向けて、廊下の奥に続く闇の中へと消えていった。
「っ、はぁー……」
呪魔が姿を消したことにほっとしたのか、エリティオスはアリノアの前に座り込む。
アリノアがかけていた魔法が解けたのか、壁と床を覆っていた氷の膜は瞬時に空気中へと消え去った。その場に冷たい空気だけが漂っていく。
「アリノア、大丈夫かい?」
彼はすぐに後ろで気を失いかけていたアリノアに話しかけつつ、ポケットからハンカチを取り出す。
「……何とか」
「腕、失礼するよ」
すっかり破れてしまった服の袖を遠慮することなく捲り上げ、エリティオスは傷を受けたアリノアの腕にハンカチを当てて、丁寧に縛った。
「それほど血は多く出ていないから、すぐに処置すれば大丈夫だと思う……」
「そう、ありがとう」
身体を起こそうとしたが、無理に起きない方がいいとエリティオスから手で制止される。
「……ごめん、アリノア」
頭上から呟かれたのは小さな声。顔を上げるとそこには初めて見る、悔いている表情をしたエリティオスがいた。
「僕のせいだよね。君の仕事の邪魔をしたから……だから、君が傷付いてしまった」
唇を噛み締めて眉を深く寄せるその姿は、子どものように見えて、アリノアは無意識に右手を伸ばす。
ここで彼を突き放さなければならないと分かっている。優しい言葉をかけてはならないと。もう、付いてきてはいけないと言うべきだと分かっているのに、述べることが出来なかった。
それは多分、彼が消えてしまいそうな程、震えているように見えたからだ。
自分よりも大きな呪魔相手に立ち向かったというのに、掠り傷で気を失いそうな女の子相手に今にも泣きそうな表情を見せるのだから、強くなんて言えなかった。
「……任務を遂行する上で、危険は付きものだもの。あなたのせいじゃないわ。……でも、もう夜の校舎に入っては駄目よ。それだけは……守って欲しいの」
もし、エリティオスが呪魔から攻撃を受ければ、自分と同じように呪魔が持つ呪いの感情が流れ込み、彼も苦しむことになる。それは傷の痛みよりも辛いものだ。
「……本当に君は眩しいね」
「……え?」
「ごめん、何でもない。……でも、本当に気まぐれで君に付いてきているわけじゃないんだ。僕は君に――」
だが、そこで言葉が詰まってしまったのか、エリティオスは口を閉ざす。何か言いたくはないことがあったのだろうか。
「でも、やっぱり、僕は君がいいな」
どこか自嘲めいた笑みを見せて、彼は壁に背を向けるようにしながら、アリノアの隣へと腰を下ろす。どういう意味だろうかと聞き返す前に彼は言葉を続ける。
「しばらくは動かない方がいいよ。脳震盪を起こしているといけないからね。……ノティル。呪魔がいないか見張っておいてくれるかい?」
「いいよー」
ノティルが影を伸ばして、結界を張っていく。これなら不意打ちで攻撃を受けても、ノティルが守ってくれるので大丈夫だろう。
息を整えようとアリノアは深呼吸する。先程よりも随分と気分は良くなっているが、それでもすぐに動ける状況ではない。
「はい、アリノア。勝手に借りてごめんね」
すっと渡されたのは自分の短剣だった。アリノアは苦笑して、自分の腰に下げている鞘へとそれを自ら収める。
「……ねぇ、一つだけ聞いてもいいかしら」
「何だい?」
「どうして、そこまで私に固執するの? ちゃんと話したのは昨日が初めてだったのに、どうしてそこまで……」
それ以上は言葉にできずに咳き込んでしまう。エリティオスはアリノアの背中に手を置き、そっとさすってくれた。
「……あまり、詳しい事は言えないけれど君にお願いがあるんだ」
「お願い? 私に?」
「多分、君にしか出来ない。直感でそう思ったんだ」
さっきよりは少しだけ表情が和らぐエリティオスを見て、アリノアも安堵する。
「でも、まだ秘密。今は、まだ……」
「そう……」
本当は気になるがそれ以上を聞こうとは思わなかった。
「……もう少ししたら、校舎の外まで送るわ」
「うん。……ごめんね」
その謝罪が一体、何に対するものなのかは分からない。それでも、彼はアリノアの知らない何かを胸に秘めているのだ。
「……大丈夫よ。でも、まだ身体が動かないから、しばらく休憩ね」
「え? アリノア……」
アリノアはエリティオスの肩口に頭を置く。
「そのまま、じっとして。動かないで頂戴」
「う、うん……」
エリティオスの身体に寄りかかり、アリノアは深く息を吐き続ける。腕の痛みはもうない。そっちは医務室に行って治してもらえばいいだけだ。
少しくらいは彼に甘えてもいいだろう。散々、自分のことを戸惑わせたのだから、仕返しくらいしてもいいはずだ。
寝るわけではないが、身体が思うように動かない状態でエリティオスの警護は務まらない。完全に回復してから、見送りをした方が安全なはずだ。
その日は結局、エリティオスを昇降口まで見送ったあとに校内を見て回ったが、最初に蛇型の呪魔が一体出ただけで、何も異変はないまま任務を終える事となった。




