眩しい人
「ねぇ、本当に教室に忘れ物があるのよね?」
「教科書だよ。明日の数学で僕は問題を解くように先生に順番を当てられただろう」
「そういえば、そうだったわね」
王子とはいえ、余程の事でない限り、特別扱いはしないと学園側も王宮側も承諾しているらしく、エリティオスは普通の生徒と同じように教師達からも接せられていた。
かつり、かつりと二人分だけの足音が廊下に響く。
「でも、こうやって二人だけで夜の学校を歩くなんて、何だか秘密のデートみたいだね」
「……は?」
ぴたりと足を止めてアリノアは嫌悪感丸出しで、目を細くしてエリティオスを睨む。
「あのねぇ、あなたは緊張感がなさすぎよ。本当に呪魔は危険なんだからね!」
「でも、アリノア。君の頬が赤く見えるのは気のせいじゃないよね?」
「っ、だから! そういうことを言うのが、緊張感がないって言っているのよ! もうっ!」
この王子は本当に緊張感がないというか緩いというか、昨日からずっとそんな感じだ。
自分の想像していた、ぴしっと背筋を伸ばして、威厳のある表情をしている王子とは全くの別物だと溜息を吐くしかない。
「エリティオスは凄いねぇ。ここまでアリノアの表情をころころと変える人、初めて見たよ」
何を感心しているのか分からないが、肩に乗っているノティルがエリティオスに向かってそう言った。
「アリノアは表情が豊かだから見ていて楽しいよね」
同意するように笑顔で返すエリティオスに対して、アリノアは不満そうに顔を歪める。
「あなたが余計なことを言わなければいいのよ。……ほら、教室に着いたわよ。さっさと教科書を取って、学生寮に帰って頂戴」
出来るだけ早足で教室に向かっていたので、通常よりも早く着いた。あとは彼を校内の外へと送り届けるだけだ。
暗い中でも分かるのか、エリティオスは自分の机の中から教科書らしきものを取り出し、手に取ってから入口に立って待っているアリノアの元へと戻って来る。
「よし。じゃあ昇降口まで送るから、もう帰ってね」
「えぇ? 本気かい? 僕がいれば蛇型の呪魔が出るかもしれないんだろう? それなら、ここに残って囮になる方が効率は良いと思うけどな」
「囮って……。あなた、そんなことを考えていたの?」
彼の口からそんな言葉が出るとは思っていなかったアリノアは驚き、目を瞬かせる。
「だって、僕が呪魔を増やしてしまっている状況を作っているのなら、君にばかり仕事が回って申し訳ないじゃないか。……少しでも、早く終わるように手伝いたいんだ」
「……」
彼は自分が思っているよりも、根が真面目なのかもしれない。
呪魔なんて誰が誰を呪っているか、倒しても一々、詳細に分かるものではない。それなのに彼は自分のせいだと言って、自分自身を責めている。
「……そんなこと、考えなくていいわよ」
ぶっきら棒にアリノアは答える。
「これは私の仕事なの。私が誇りを持ってやっていることだから、別にあなたのせいで無理矢理やらされているわけじゃないわ。そこのところ、勘違いしないで」
腕を組みつつ早口にそう言うと、彼は驚いたように目を丸くして、そして、ふっと花が咲いたように笑った。
「……やっぱり、アリノアは優しいね」
「はぁ? どうしてそうなるのよ。とにかく、本当に夜の校内は危険なんだから。あなたの身に何か起こってからじゃ遅いのよ」
アリノアは急き立てる口調で、彼を説得するがやはりエリティオスには効いていないようだ。
「だって、僕の方が迷惑をかけているのに怒るどころか、心配までしてくれるのだから、優しいよ」
にこりと笑っている顔には純粋という言葉が一番似合いそうだ。
「もう、いいからさっさと行くわよ」
アリノアはくるりと彼に背を向けて、昇降口に向かって歩き始める。
正直に言えば、彼の笑顔が眩しすぎるのだ。こちらはたいした事をしたわけでも、言ったわけでもないのに、彼はそれに一々、反応しては楽しそうに笑っている。
……眩しい人だわ。
同じようにこの場にいるのに、それでもやはり自分にないものを持っている彼は遠い人間なのだと改めて自覚する。
自覚するくらいなら、最初から変な期待などしなければいいのにとさえ思うほど、本当は好感を持っていた。だが、それは他の女生徒達が持っているような好意ではない。
「――アリノア!」
瞬間、ノティルが叫んだ。
それと同時に感じ取れたのは呪魔の気配。
アリノアはすぐに後ろを振り返る。そこには昨日と同じ蛇型の呪魔がエリティオスを見下ろすように立っていた。
「エル!」
咄嗟に名前を呼び、彼の腕を掴んで後ろへと引く。
「わっ……」
一瞬の出来事に身体が追いつかなかったエリティオスはアリノアに強く腕を引かれた反動で、アリノアの後方へと吹き飛ぶように下がった。
短剣を抜いて素早く構えるがそれよりも早いのは相手の攻撃だった。アリノアが攻撃を仕掛ける前に呪魔は牙を見せながらアリノアへと襲い掛かる。
「っ!」
呪魔の尖った牙がアリノアの左腕をかすめ、服を引き裂き、一線の赤い傷を生み出す。
一歩だけ後ろへと下がったおかげで、深い傷にならずに済んだがそれでも牙がかすった痛みが腕全体に広がっていく。
「……アリノア!」
後方からエリティオスの叫ぶ声が聞こえたが、アリノアは振り返ることなく、そのまま立ちふさがる。
「ノティル! 彼の盾になりなさい!」
「了解っ」
アリノアは目の前の呪魔から、目を離さずに見据えたまま、呼吸を整える。
……まずいわね。
呪魔から直接の攻撃を受けた場合、傷の痛みよりもひどいものがある。それは記憶や感情といったものが痛みとともに自身の身体に流れてくるのだ。
たった今、牙が少しかすっただけでも、それは例外ではない。気分が悪くなる程の強い感情に目眩さえ感じる。
誰かが泣き叫んでいる声が聞こえた。
強く、何かを乞い、そして――。
何とか意識を保ちつつ、アリノアは短剣を真っすぐ呪魔へと向ける。
廊下だと狭く、横に移動することは出来ない。攻撃を避ければ、ノティルが守っているとは言え、エリティオスの方へと牙が向くだろう。
……本当に間が悪いんだから!
蛇型は昨日よりも大きくなっているように見えた。恐らく、この呪いを放った者の想いが歪み、大きくなっているのだろう。
早く倒さなければエリティオスだけではなく、他の人間にも影響が出る可能性がある。
ひゅっと風を斬る音が聞こえた。蛇型の尻尾が大きく鞭を打つように床を叩いている。あれ程に大きな尻尾で攻撃されたら、吹き飛ぶくらいじゃ済まないだろう。
しかも、校内にあるものに傷を付けるわけにはいかない。




