出会いは突然に
―――それは六年間通いつめた小学校を卒業し、新たに川向こうの中学校に通い始めた春先の話である。
◆
「朝よ。学校の時間なんだから置きなさい」
聞こえた母親、実声にビクン、と身体を震わせ目を覚ます。
「……はい、おはようございます」
身体を起こして目を覚ます。母は起き上がった僕を見るとおはようといってキッチンに戻っていった。
寝ぼけ眼をこすりながら身体を起こす。身体を伸ばしながら時計に手を伸ばした。
ただいまの時刻7:00丁度。
「……間に合うかな、これ?」
さっさと着替え、顔を洗ってキッチンに向かった。
扉を開けると朝食の準備は既に出来ており、テーブルには既に父、玄紀が座って新聞を読んでいた。
「はい、おはよう。遅いんじゃないか、少し」
「あ、おはようございます。大丈夫だと思います、たぶん」
いつもどおりの朝の挨拶を済ますと僕も席についた。目の前にはパンとサラダとコーヒーが一杯。
「中学校はどうだ、楽しいか?」
父が新聞を置いて聞く。
「まだ始まってそんなに日も立っていないのにわからないよ。それよりも、そんなゆっくりしていていいの。時間、僕より不味いんじゃない?」
おっとそうだった、と父は隣においてあった鞄を持ち立ち上がる。
「それじゃあ、行ってくるよ。東」
「はい、いってらっしゃい、父さん」
挨拶を交わし父は出て行く。
「あ、お父さんちょっと待って」
それを止める母。
「ネクタイ曲がってますよ」
「おっと、すまない。いつもありがとう」
いいんですよ。それよりも今日はいつ帰ってくるの。何、いつもどおりの時間だよ。云々。
―――まーた、始まった。
パンを齧りながら胸焼けの酷い光景を眺めていた。
「……なんだ、東。その冷めた目は」
「別に何でもないですよ。ただ、ブラックのはずのコーヒーが凄く甘いなぁ、と」
いったいいつの時代の寸劇なんだか、という本音は胸のうちに秘めておく。
「ふん、まだまだ子どもだな。いいか、東お前も大人になったら分かるときが来る」
「それはないから心配しないでください。今の二人の姿を見て反面教師にして育っていますから」
「そうかな。私が思うに東、お前は私たちと同じようにするぞ、絶対」
「いつも思うけれどその根拠は何なんだか」
いつもの朝。いつもの流れ。いつも通りの会話。そして、いつも通り父はにやって笑い。
「それはお前。お前は私たちの子どもだからだ」
と、自信満々に言って出て行くのだった。
これが愛しき我が家、越智家の日常だった。
◆
「いってきまーす」
いってらっしゃい、と母に見送られて僕は自転車で家をでた。
馴れた通学路を走っていく。なだらかに続く一本道を自転車を軽やかに漕いでいく。
ここ伊波比市は近年の市町村合併周辺の市やら町やらが統合して出来た市だ。その前までは僕の住んでいる市は水野市と呼ばれていた。
場所は関東の右下にある長い砂浜やら夢の国やら国際空港がある県の、そこと隣の県をぶった切るように流れている川沿いにある市の一つだ。
目立った名産品というのはこれといって聞かず、大きな神社とそれとは別に町中で行われる祭りが有名である。
今みたいに陸上の交通網が日本全国に張り巡らされていない時代は、日本の首都への物流の一端を担っていてそれなりに栄えていたらしいけれども、今となってはその面影しか見られない。栄枯盛衰、今ではすっかり寂れた地方都市である。
その中でも僕の住んでいる地域はそんな町から外れた場所、北水野といわれる地域だ。
江戸時代、このあたりには琵琶湖よりも大きな湖があった。それを河川の整備と新田開発の為埋め立てた際に出来たのは北水野一帯と隣の県の一部の地域を含めた十八島と呼ばれる地域である。なので、島の名前のついた地名が多い。因みに、僕の住んでいる地域は櫛島と呼ばれている。何でも島の形が櫛の形に似てたからなんだとか。
空も飛べない時代どうやって島の形を確認したんだか、と思うけれども歩いて航空写真のような日本の地図を作った人もいるくらいだから別に驚くことでもないんだろう。
さて、今ではその島も全部陸続きとなっているわけだが。
「いやはや、本当田んぼしかないよね、ここ」
土手を走りながら6年以上見慣れた景色を見てそんな感想を溢した。
何せ土手の左手に本当に田んぼしかない。地平線までひたすらに続く田、田、田。何が酷いってここから眺めていても若干弧を描いているように見えなくもない景色をしている。
地図を開いてみて分かるとおりこの県には1000メートルを越す山が存在しない。そして、日本最大の平野の真っ只中にある。
都心に近い県だからといって都市圏から外れれば所詮どこも田舎である。葛飾区にある有名な派出所の部長も一時期こっちの方に住んでいたらしいがまさにあんな感じだ。もっとも、アレは創作なのでジャングルは存在しないけれど、当たらずとも遠からずといったところが恐ろしい。ちなみに、家からだとコンビニに行くまでにどう頑張っても車で10分以上走らなければたどり着けない非常に不便な場所だ。
そんな雲海ならぬ田海を岸辺に眺めながら自転車を漕ぎ続ける。今まで通っていた小学校を通り過ぎ――ていうか卒業した途端に徒歩から自転車通学ってなんだよ――、一路橋へと向かう。ここまで15分ほど。毎日の通学が軽い運動である。
全長一キロメートル程ある橋を渡り、旧水野にようやく辿りつく。そのまま川に沿って少し走ってから町中に入っていく。看護学校の脇を通り道なりに走っていくと細い小川の流れる道に出た。
真っ直ぐに伸びた小川沿いには桜が植えてあり、少し前まで満開の花を咲かせていた。
今では半分ほど散ってしまって所々に緑が混じり、小川や道を桃色にしてしまっているがこれはこれでなかなか綺麗なものだ。
学校まではこの道を真っ直ぐ行けばたどり着く。突き当たりにある建造物。それがこの春から僕が通っている伊波比中学校である。
それまでは僅かな道のり。といっても自転車で5分ほど。その道のりを僕は桜を見ながら登校するのを楽しんでいた。
散る桜の中を自転車で走る。まるで春先に降る雪の中を進んでいるような気分になる。
そんなことを小学校からの友人に話すと、年寄り臭いなんて馬鹿にされた。かくいう彼も人のことを言えた義理ではないくらい年寄り臭いのだけれども。
そんな風にいつもの習慣、といっても入学してから一週間ほどの楽しみを満喫していた。
―――その時、初めて僕は彼女を見た。
小川を挟んだ向こう側。風で揺れる小枝。舞い散る花びら。
立ち並ぶ桜の木。その幹に触れ佇む少女の姿があった。
格好は通っている中学校と同じ制服。半袖のシャツにサマーセーターに飾り気のないチェックのスカート。その下は黒いタイツ。
僕と同じくらいの身長で、黒い絹のようなショートカットの髪をなびかせ桜の花を見上げてた。
何より引かれたのがその表情。
まるで精巧に作られたと人形かと紛うほどの可憐な顔立ち。およそ今までの人生の中でもとびっきりの女の子だった。というか、比較対象が浮かばなかったほどだ。
はっきりいおう。僕は見惚れていた。それくらいに存在は僕にとって衝撃的だった。
そんな女の子がふと振り返る。そして、僕と目があった。
衝撃が走った。思わず息を呑んだ。筆舌しがたい感情が僕の中で渦巻いた
。
一方で彼女は無表情のまま僕のことを見つめていて……。
と、そこで響くクラクションとけたたましいブレーキ音。思わず我に返ってブレーキをかける。
気付けば交差点まで侵入していた。寸で止まっている黒い外車。中の40代と思しきおじさんは物凄い形相でこちらを睨んでいた。
「す、すいません!」
急いで謝ってその場を立ち退く。おじさんは不機嫌そうにエンジンをふかしてその場を走り去ってしまった。
ため息をつく。どうやら危うく轢かれかけたらしい。女の子を見ていて轢かれた、なんて笑い話もいいところだ。でも、そこまでしても見ていたい女の子だったことも確かだったのだが……。
振り返る。けれども、例の桜の木の横には誰もいなかった。
もしかして、轢かれかけた原因は自分にあると思って逃げてしまったのだろうか。
それにしては幾らなんでも速すぎる。それとも。
―――アレは幻だったのだろうか。
何を馬鹿な、と首を振るう。しかし……。
もう一度、彼女のいた桜の木を見た。と。
キーン、コーン、カーン、コーン。鳴り響くチャイムの音。
「あ、やばい!」
始業の鐘の音に、急いで僕はその場を後にした。