彼女は変わり者(5)
訂正
主人公の苗字
水野×→越智
「すまない、助かったよ」
「いえいえ、別に。僕はただハンマーで石膏叩いていただけですから」
最終的に小分けにした石工を先生と一緒にゴミ捨て場に捨てに行き、戻ってきた昇降口。先生は僕にお礼を言い、早く帰れよーといって職員室に向かっていった。僕も、分かりました、といって教室に上がっていった。
ホームルームも終わり、校内放送で早く帰るようにと流れている。中にいた大抵の生徒は既に学校を出ていた。
階段ですれ違う生徒はおらず、校内には殆ど生徒は残っていない様子だった。
辿り着いた一年生の階でも生徒がちらほらと見られる程度で、その生徒たちも校舎の外に出るために昇降口に向かっていた。
一応真っ直ぐ帰るように話してたが、早々いなくなった生徒の中には遊びに行った人もいるんだろうな。
そんな事を思いながら自分のクラスへ向かう。
一学年の階に辿りつき、閑散とした廊下を歩いて教室に辿り着く。扉は閉まっていた。開けて室内に入った。入って思わずはっとしていしまった。
とっくにホームルームは終わっており、教室には生徒の姿はなかった。たった一人を除いて、である。
がらんとした教室は静寂に包まれており、生徒の話し声も先生の声も聞こえない室内には、窓に打ち付ける雨の音以外聞こえなかった。
そうして、ただ一人残っていた生徒は退屈そうに窓の外を眺めていた。
窓側の一番後ろの席。彩月さんだった。
「どうしたの。帰らないの?」
扉に手をかけたまま立ち尽くす僕は彼女に向かって言った。しかし、返事はない。彼女は外を退屈そうに見つめたまま微動だにしない。知っている。いつものことだ。
「誰か待っているの。実は僕たちが知らないだけで友達が出来ていたとか?」
聞くけれど言葉は返ってこない。まるで人形を相手にしているようだった。まぁ、ずっとこの調子なんだけど。
退屈そうに窓の外を眺める彩月さんの姿は、同時にどこか儚げであった。
無言で、雨音しかしない教室の空気が息苦しい。とりあえず、当初の目的は自分の荷物を取りに行くということなので、自席に向かった。その間も彼女は窓の外を眺めたままだった。
「ここのところずっと雨ばっかりで嫌になるよね。まぁ、今は梅雨だから仕方ないとは思うけれどもね。でも、今年の梅雨はもう直ぐ開ける予報だけどね。けれども、そしたら今度は夏が来るからそれはそれで嫌だよね」
暖簾に手押し、ぬかに釘。もしかしたら人形に話しかけるほうがまだ気楽なのかもしれない。何せ、人形相手なら最初から喋らないとわかっているからだ。
間もなく自分の机に辿り着く。横に掛かっていた鞄を机の上におく。そして、机の中から勉強道具を取り出し、それを鞄に入れていく。
「そういえばこんな映画知っている? 昔のアメリカ映画なんだけどさ。サイレント映画とトーキー映画への転換期を描いた映画なんだけど、主人公の男の人がヒロインの女の人を家に送り、その帰り傘も差さずに雨の中歩いて帰っていくんだけど、その時、その主人公役の人が踊るタップダンスが……」
「……ねぇ」
何、と僕は振り返った。
―――振り返った?
振り返ってドキッとした。いや、それよりも今声を掛けられなかったか。
混乱している。そして激しく動揺している。何故かといわれれば、何せ今の今までまったく微動だにしなかった彩月さんが、こっちをむいているのだから。
目と目が合う。水のように澄んだ黒い瞳が僕を見据えていた。
思わず息を飲んだ。顔が熱くなる。耳が真っ赤になるのがわかった。
距離にして僅か数メートルほど。そういえば、まじまじと彼女の顔を見たのは初めてかもしれない。
丸みを帯びたやわらかい眼。小ぶりな可愛らしい鼻。さくらんぼのような色をした小さな唇。遠目から見ても目鼻立ちが整った可憐な顔立ちだが、近くで見るとこの世のものとは思えないほどだった。
確かに、ヤマダさんもかなりの美形だがそれでも果たして彼の遺伝子を分けたところで生れてくるものなのだろうか。
そんな完璧だと言っても違いない彩月さん。ただ、無表情で見つめてくる彼女はどこか人形を思わせる雰囲気を持っていた。
と、小さな口元が動いた。
「あなた、暇なの?」
第一声がそれ。なんだか複雑な気分になった。
ああ、それでも。
「ようやく喋ってくれた」
それは僕にとって何よりも代えがたい一つの結果だった。
「何故、貴方は私に構うの?」
無表情の彼女は言う。
「最初はみんな私に興味を持ったわ。でも、次第に私から離れていった。もっとも、それは当然よ。そうなるような答えしか私はしなかった。けれども、貴方は他の人とは違った。それは何故?」
表情の変わらない彼女は機械的に、それでも理解できないといった感じで僕に聞いた。
彼女はそんな事を言うけど、そんなの決まっている。
「僕が君に興味があるからだよ」
僕を突き動かす気持ちはそれ以外にない。
「そう。でも私には関係ないことよ。だって私、貴方に興味がないもの。貴方が私に興味を持っているのは貴方の勝手でしょ」
傍から見ていても分かる。そもそも、彼女は彼女の取り巻く全ての環境に興味を持っていない。
自分は自分だけで完璧だといった彩月さん。その真意がどうであれ、彼女の言うように僕の事に興味を持っていなくても、それは僕にとって関係ない話だ。
「そうだよ。僕が君に興味があるんだ。それは僕の勝手さ。君が僕に興味がなくても僕は君のことが凄く気になるんだ」
「その物言い、まるでストーカーみたいね」
―――いいえて否定出来ない。
ちょっとドキッとする。甘酸っぱい感じじゃなくて、どちらかと言えば後ろめたい感じで。
恋は盲目というけれども、うん、確かにちょっと危ない感じだ。
……もしかして、やっちゃった?
「それで、どうして貴方は私にそんなに興味があるの?」
……セーフ。
しかし、それはそれで改めてそんな事を言われると初めてあったあの場所を思い出す。
「―――桜の木」
口に出ていた。
「何?」
彩月さんが聞き返す。
「ああ、いや。うん、そうじゃない。いや、そうか。うん、そうだね。何で興味を持ったかといえば、いつか彩月さんは桜の木の横に立っていたことない?」
「どうかしら。覚えているかもしれないし、覚えていないかもしれない。そもそも、そんなの気にした事なんてないし、桜の木に立つなんてこともないでしょ」
―――僕の思い出全否定。
「まぁ、立っていたのを見たんだけどね。それでね、花びらが舞い散っている中、はかなげに桜を見上げていた彩月さんを見つけたんだ。それが僕がはじめて彩月さんを見つけたとき。初めて見つけたんだけど、その姿、その表情、そのようが僕の目と脳と記憶にしっかりと焼きついたんだ。いや、焼きついたというよりも惹かれたといったほうが正しいというか……」
ちょっと待って収拾つかなくなってきた。自分で言っていて段々気恥ずかしくなってきた。どんどん顔が熱くなってくる。何だろう、このセルフ公開処刑。出来ることなら今すぐ顔を押さえて悶えて転げてこのまま穴の中に埋まりたい。
「たったそれだけ?」
うってかわって表情を崩さない彩月さん。聞いている割に一切興味なさそうなである。これはこれで中々に辛い。自爆でなくて処刑されている感じがする。
ああでも、もう恥も外聞も既にあったものではないんだから、こうなったら行くところまで行ってしまえ。
「たったそれだけのことだけど、僕にとっては人生が一点するような衝撃的な出来事だったんだよ。彩月さんを見つけたこと。彩月さんに会ったことがさ。これは僕の嘘偽りのない本心だよ。それじゃあ理由にならないかな」
諦めの極致というか、もうどうにでもなれの精神か、玉砕覚悟でいいきった。
「人ってそんなことだけで他人に興味を持つの?」
なんかもうそういう仮面なんじゃないかなっていうくらい彩月さんは表情を崩さない。そして、感情なく淡々と聞いてきた。
「他の人がどうかは分からないけれど、人が人に興味を持つってそれくらいの理由だとおもうんだ。そこに崇高な目的とか立派な理由があるわけじゃない。なんていうのかな、インスピレーション、とは違うね。うまく言葉に出来ないけどさ、とりあえず難しいことはないんだよ」
「そういう抽象的な物言いじゃ分からないわ。まるで雲を掴むようだから」
「でも人の感情ってそんな感じなんだと思う。論理的には表現できない、感覚的なものだからね」
「ますます分からないわ」
わからない、というか理解する気がないといった様子に見える彩月さん。ポーカーフェイスが崩れることがない。
しかし、この感情を説明してほしいといわれても難しい。
「それについては僕も答えようがないね。良く分かっていないから」
ああ、でも。
「それに、今彩月さんだって僕に興味を持っているんだと思う」
「何故?」
「だって彩月さん、僕の事を知ろうとしているだろう」
それを聞いた彩月さんは首を傾げる。
「私は何故貴方が私に興味があるかという事を知りたいだけで、ああ、でもそれって興味を持っているということになるのね」
不思議ね、とちっとも不思議そうに思っていない彼女は言った。そして、少し考えているような素振りを見せてから、
「貴方、変わっている」
なんて僕に向かっていった。
「変わっているなんていわれたのは始めてかもね。でも、どうしてそう思うの?」
「だって、私になんか興味を持ったから。ううん、他にも興味をもった人はいたけれど、貴方ほどしつこい人はいなかったから」
「それはやっぱり君に僕が興味があるからさ」
堂々巡りね、彼女は言った。
堂々巡りだね、僕は返した。
そんなやり取りに微笑んだ。彼女は何故笑っているのか分からないといった様子だ。
そこで会話が途切れる。僕たちの話し声もなくなり、雨が窓を叩く音だけが教室に響く。
「本当はね」
不意に彩月さんが口を開いた。
「もうこの町に興味なんてなかったの。結局、この町も他と同じだと思ったから。いつも同じ場所に長くとどまるなんてことはないけど、でも、もう少しだけこの町にいようと思うわ」
唐突にそんなことを僕に告げる。彩月さん。
「それってどういう……」
言いかけたところで彼女がおもむろに席を立った。自席を離れ、向かうのは僕のほうだった。
席の真横で彼女が止まる。動く彼女を目で追っていたから今向き合う形で彩月さんが目の前にいた。
すると、彼女が僕に手を伸ばす。反射的に逃れようと下がるが、ここは窓辺の席。下がろうにも壁と窓にあたり立ち尽くしてしまう。
伸びた彩月さんの手が僕の頬に触れた。彼女の手は冷たかった。
「緊張しているの?」
「……ま、まあね」
そりゃ目の前に好きな娘がいて、こんな事をされていれば緊張しないわけがない。そもそも、あんまり女の子と遊んだこともないし。
彩月の手が僕の肌をなぞっている。見つめる黒く澄んだ目に吸い寄せられそうになる。文字通り目と鼻の先の彼女のから香る、シャンプーのようないいにおいが僕の鼻腔をくすぐった。
そんな状況に僕の動悸が早くなる。聞こえる雨音が酷くうるさく感じる。
傍から見られたら酷く勘違いされそうな光景だ。いや、本当にそういう光景なのか。
引き伸ばされたように時間がゆっくりと感じる。いったいどれくれくらいそうしていただろうか、不意に彩月さんが頬から手を離した。
そして、二、三歩下がる。
「うん。もう少しだけいるわ。だから、明日も会いましょう」
「……あ、うん。でも、いつもあってるよね」
声を出したときに変に裏返った。
僕の言葉を聞いた彩月さんが少し考え、
「それもそうね」
といって自席に戻った。
そこで僕の緊張の糸がきれた。腰が砕けて椅子に座り込んでしまう。
放心状態の僕は半ば無意識に彼女が触った頬を触っていた。
「それじゃ、また明日。越智君」
茫然自失となっている僕に彩月さんは言って教室を出て行った。
僕は返す言葉なく呆けたままずっと頬を触っていた。そうして、初めて名前を呼ばれたことに気付いたのは、その後少したってからのことだった。