正しい世界の救い方
私の仕事は人を守ること。助けてヒーロー、と悲鳴染みた声が、泣き出しそうな声が耳に入れば、火の中水の中、地の果て空の果てだって助けに向かう。
今日は大火事のビルに取り残された人の救助、あとは道端で私を呼び止めたお婆さんの手助け。どうやら荷物が多くて階段が上れなかったらしい。無茶はしないでくださいね、と言ったけども、お婆さんはにこにこと穏やかな笑顔で、困ったときにはお前さんが助けに来てくれるだろう、と言われた。……間違ってはいないけども、いつか私の必要ない世界となればいいのだけどな。
だけどもその夢が可能ことはまだまだ先らしい。火事も泥棒も殺人も、次から次へとあれこれ起こる。あっちでもこっちでも悲鳴が上がって、私らヒーローは街中国中を飛び回り駆け回っている。文句は別にない。私らが全て救ってしまえばそれで済むのだから。
今日、妙に変な女性に出会った。いくつもの悲鳴が聞こえたので急いで飛んで行ったら、何人何十人もの人が高くそびえ立つビルを見上げ口々に叫んでいた。私もビルを見上げると、一人の女性、いやまだ少女と女性との間くらいの人が立っていた。黒い髪はさらさらと風に揺られている。強い風にでも煽られたら地面に叩きつけられてしまうだろう。そんなことにでもなったら弱々しくて儚い人間は即死だ。
私は慌ててビルの上まで飛び上がり、今にも落ちてしまいそうな彼女の腕を引いた。くるりとこちらに向けられた目には光なんて欠片もなくて、ただ真っ暗だった。その目に見据えられ、一瞬私の背が凍り付いたが、何をしているんだい、とやっとのことで絞り出した。すると彼女は「死のうとしているんですよ」と抑揚のない乾いた声で言った。
自ら望んで命を捨てるだなんてこと、聞いたこともなかった。私は彼女の言葉が信じられなかった。彼女は暗い顔に薄い笑みを浮かべると「嫌なことしかないの。もう、うんざりしちゃって」と子供みたいな口調で言って私を見上げた。嫌なことしかないのなら私がそこから救ってみせよう。思ったことをそのまま口に出したら、彼女は目を真ん丸にしてからくすくすと笑った。「じゃあ救ってみせてくださいよ、ヒーロー」なんて、挑戦的な声で言われた。
また、彼女は自分の命を投げ捨てようとしていた。ロープを首に食いこませ、キリキリと息の根を止めようとしていた。パトロールの最中に偶然目に入ったから助けられたものの、もしもう少し遅かったらと考えるとぞっとする。
「何しに来たのですか」と、首に巻かれたロープを私に解かれながら彼女は呆れた声で言った。当然だろう、私の仕事は人々を助けることだ。こうやって自ら命を絶とうとする人を救うことも、勿論のこと。そもそも約束したはずだ、彼女を救うと。彼女は目を細めて「ヒーローは流石ですね」と言った。
彼女を救うためには一体何をしたらいいのだろう。
昨晩、彼女の過去を覗き見た。もしかしたらヒントがあるかもしれないから。だけども私が想像していたもの以上に酷で暗くて、ドロドロとしたものだった。
どうやら彼女は片方だけの親によって育てられた娘らしい。世間一般の理想的な温かく優しい家庭ではなく、片親は心をえぐるような言葉も体を痛めつける沢山の暴力も、幼い彼女に容赦なく振り掛けた。更に学校ではリーダー格の子供に気に入らないからといじめられていた。周りの子供も止めることなく、至って楽し気にケタケタ笑っていた。
ヒントは沢山転がっていた。じゃあ私は一体何をすれば彼女を救えるのだろうか。
冷たく暗い海の底。幾重のもゴミが山のように積み上がっている。光るクラゲが、魚に喰われて無残な形となったゴミの山を照らす。こんなもの、本当に餌になるのだろうか。
私はその山に今出来たゴミを投げる。ゆっくり弧を描き、それは音もなく山に叩きつけられた。これで全部か。
一瞥して、私は上へ上へと昇る。水面をキラキラ照らす光が見えてきた。それを突き破って、私は海の上に立った。遠くから私を見つけた子供が、ヒーロー、と明るい声で読んで大きく手を振る。私もその子供に手を振り返した。
さて、あの子はどこに居るのだろう。家で首を括っているのか駅のホームで電車にぶつかろうとしているのか。空を飛びながら彼女を探す。あぁ、そこか。案外早く見つかった。
「今日はビルからの飛び降りかい」
高い高いビルの上。フェンスの向こう側に立つ彼女は黒い髪を揺らしながら振り返った。相も変わらず、目は暗い色のままだ。彼女はその目で私を見据えて口を開いた。
「私の親が死んだんです」
「そうかい」
「貴方がやったのでしょう?」
「分かっていたのだね」
「私みたいなのを助けてくれるのはヒーローくらいしかいませんよ。でも……」
でも? 他に一体何を望んでいるのだろう。
君をいじめたあの子も、周りで笑ってたあの子たちも、二股を掛けて君を捨てたあの男も、意地悪なことばかり言うバイトの人も、いつも嫌なことしかしなかった親も、あれもこれも、君に害を成す者や嫌なことする者は全部、全部消したのに。まさか、まだ居るのか。私も未熟だ、言われないと気が付かないだなんて。
「嫌な人らがいなくなったところで意味はないのですよ。ここまで苦しめた私の記憶は消えていない」
彼女はビルの端に立ってこちらに正面を向けた。にこり、と目を細めて彼女は穏やかに笑った。
「やっぱりこれしか正解がないんだよ、ヒーロー」
ぐらり、と彼女は落ちていく。はっとして駆け寄り、私もビルのフェンスを飛び越した。だけども、もう遅かった。硬いコンクリートに叩きつけられ、いくつもの悲鳴が沸き上がった。
約束をしたのに救えなかった。努力をしたけども、それは彼女にとって何の意味も成さなかった。
私は久々に自分の部屋に足を踏み入れた。あの世界で借りている、マンションの狭い一室ではない。自分と、自分そっくりの顔立ちをした弟の部屋。
あの世界はどれだろう。部屋中を覆い尽くす、宝石のようにキラキラとしたいくつもの小さな石。一つ、キラリと強く光った石があった。それを手に取る。あぁ、これだ。彼女のいなくなった世界。これも、それも、あれも。
私は彼女を救えなかった。彼女はきっとあの過去が残っているのが嫌なのだ。
ならば、そんな過去を抱えさせた世界を全て消してしまえばいい。あいつらと同じように。
窓を大きく開ける。目下には黒く沈んだ空間。そこに抱えた石ころをバラバラと投げ捨てた。これでよし。満足していると、ポワ、と部屋の真ん中に一つ石が現れた。澄んだ色をした綺麗な石。
「今度は必ず救うよ」
最早何度目か忘れた言葉を投げかけ、私はその新しく出来た世界へと足を踏み入れた。




