勇者は逃げ出した。
どうも、間歇泉です。
今回は短編です。
設定が凝っている理由は、構想の時点では連載予定だったからです。
人は『感情』の生き物だ。
悲しいと思えば泣くし、憎いと思えばナイフを突き立てる。
人生を揺るがすほどの選択ですら、人は其の場その時の感情に左右される。
弱くもあり、強い生き物だ。
動物や魔族は『本能』の生き物だ。
肉を喰らい、腹を満たせば瞼を閉じ、子を繁栄させ、いずれ喰らわれ朽ちていく。
彼らはそうあるべきだから、そうするのだし、そうしない事もある。
強くもあり、弱い生き物だ。
その二つを提示した上で。
恐怖とは。
恐怖とは、闘争『本能』から体を動かすのか、『感情』により体を蝕むのか。
僕にとってはどちらでも良かった。
どうでも良かった。
何にせよ、たった今僕は、恐怖を感じているのだから。
「…ッ、――はぁっ…はぁっ…」
呼吸が詰まっては荒くなる。
喉にタオルを巻かれているような圧迫感。
思わず握った太剣を手から滑らせそうになる。
時刻は深夜。
舞台は館。大聖堂の大広間。
吸血鬼が眠っていそうな漆黒の闇の中で、僕とリーゼは吸血鬼と向き合っていた。
正真正銘の吸血鬼、である。
髪を逆立て、牙を剥き出しにし、コートで全身を黒く覆っていた。
2メートルもある長身を腰を曲げる事なく仁王立ちで支え、僕らと向き合う。
僕らは、向き合う。
――何分、何十分、いや何時間こうしているのだろう。
剣と杖を構え、それにただ突っ立っている吸血鬼。
傍から見れば、それはそれはシュールだろう。
分かっていても。
足は動かない。
ただ、その場に佇み、荒い呼吸をするだけ。
誰も動かなかった。
僕も、リーゼも。
理由は単純。しかし複雑。
僕は、リーゼは、
討つべく敵・吸血鬼が、
怖かったからだった。
「…………」
怖かった。
どうしようもないくらい、恐怖していた。
心臓がどんどん加速していくのが分かる。
脈打つたびに、血管がぷくんと膨れる感覚が気持ち悪くてたまらない。
歯茎は、噛み締めすぎて既に感覚を失っていた。
全身という全身から汗やら鼻水やら涙が流れては渇いて、もう出なかった。
もはや、隣で杖を構える女の子を様子見る余裕もない。
そんな僕に呆れたのか、それとも痺れを切らしただけなのか、
『――哀れだな、“勇者”よ』
吸血鬼は言った。
威厳と、誇りと、僕には無い全てを含ませた声だった。
僕は、体に残された度胸とか色んなものをかき集めて、問う。
「…何が、言いたい…?」
『そのままの意味だ。
可哀想、というのが率直の感想だな。
こんなみっともない男が、かの大国ディルカ・ミューレの“勇者”とは、軍事大国の名が泣くであろう』
「…………」
言葉は、もう出なかった。
出す気もない。
吸血鬼の言う、その通りだったから。
ただの高校1年生だった僕がこの世界に召喚されて。
『魔王を倒してくれ』なんて途方もない頼みを王様直々にされて。
されるがままに魔法と剣を習い。
されるがままに仲間として魔法使いと魔王を倒す旅に出て。
道中で、吸血鬼に襲われる村に巻き込まれて。
村人に頼まれて、街外れの聖堂に住みつく吸血鬼を倒しにきた結果が――これだ。
みっともない以外に、なんと表現できる?
これ以上に、僕に相応しい言葉、ないじゃないか。
僕は、剣を下ろした。
明らかな、降参の意だ。
僕はリーゼへの配慮とか一切なしに、ただ自らの敗北を認めるのだった。
戦えない。
こんな恐怖と向かい合うくらいなら、喰われた方がよっぽどましだ。
いや、喰われるしかない。
ボス戦では、逃げられないのだから。
しかし、
『…つまらん』
興ざめだ。
夜の王、吸血鬼は、そう言って右手を振るった。
それは攻撃ではなく――
ズズズズズ……ッ!
僕らの背後の、大きな扉が開く。
それは、僕らが開けて入った扉だった。
「な……」
『去れ、哀れな“勇者”よ。
貴様など、我が血肉の一片にも値せん。
失せろ』
……。
つまり。
僕らは、逃げられるのか?
この舞台から、身を引く事が可能なのか?
だって、そんなの、
ズルも同然じゃないか。
それこそ、みっともない行為だ。
恥ずべき、忌諱すべき行為だ。
それは心から思ってる。
それなのに。
ガクガクと足が震える。
今更になって、というより、逃げるという選択肢が生まれたからか。
早く逃げ出したいと云わんばかりに、歓喜で足が震えた。
本能とも、感情ともとれる行動だった。
「…なぁ、リーゼ」
たまらなくなって、僕は隣の少女の方に声をかけた。
「…何でしょう?」
「逃げても、いいのかな」
「…………」
「王様とか、剣を教えてくれた騎士団長とか、魔法教えてくれたメイドちゃんとか。
肉屋のおっちゃんとか、武器屋の店長とか。
ディルカ・ミューレの人や、村の人とか。
色んな人の期待を無駄にして。
“勇者”の責任を放棄して。
そんな最高で最悪な選択を、僕はしても――」
言葉は途切れた。
驚いたからだった。
リーゼは、僕の左手を握り締めていた。
震える手で。
涙を流した優しい表情で。
「貴方が『責任』などという重い務めを背負う必要はありません。
本来、それは私達が背負うべきものなのですから。
私達に押し付けられた責任など、いつ放棄しても良いのです。
だから、貴方が決めてください。
私は、どこまでも“勇者”様についていきますから」
そう言って、僕に選択肢をくれた。
“勇者”補佐としては、ここで僕を一喝して奮起させるのが最善なのだろうけれど。
僕にとっては、彼女の言葉こそが最善だった。
素直に嬉しかったから。
僕は枯れきったと思っていた涙をまた流し、首を縦に動かした。
そして。
僕は倒すべき敵に背を向けた。
リーゼの手を引っ張り、大広間から全力で離れる。
恐怖から離れる。
二人で手を繋いで、よろめきながら。
こうして。
勇者は逃げ出した。