太陽のオムライスと星の約束
読者の皆様、目をとめていただきありがとうございます。
本作は、ある特別な「ご縁」で結ばれた二人の、少し不思議でとっても温かい再会の物語です。
日常の小さな優しさが、長い時を経て奇跡に変わる瞬間を、どうぞ最後まで見守っていただければ幸いです。
──大丈夫、俺がいるから。
それが、彼の口癖だった。
仕事でひどく落ち込んだ夜も、将来への不安で心がぐちゃぐちゃになった時も、港はいつも大きな手で私の頭をポンと撫で、その言葉をくれた。不思議とその一言を聞くだけで、肩の強張りがすっと抜けていくのだった。
小さな会社で経理事務として働く私、南が、港と付き合い始めて二年。
先月の私の誕生日に、彼はいつも行かないようなフレンチレストランで、小さな箱を開けてくれた。中にはキラキラと輝く指輪。
『南、俺と結婚してください』
幸せの絶頂の中で、トントン拍子に話が進み、今日は初めて彼の実家へ挨拶に向かう日だった。
緊張で胸をバクバクさせながら、港の運転する車の助手席に座っていた私は、ふと窓の外を見て奇妙な感覚に囚われた。
「あれ……?」
「どうした、南? 緊張でお腹痛くなった?」
「ううん、違うの。なんか、この道、知ってる気がして」
初めて訪れるはずの、隣の市の住宅街。それなのに、古びたパン屋の青い日差し、角にある小さな児童公園、錆びかけたガードレール……流れていく景色のひとつひとつが、どうしようもなく懐かしい。まるで何度も通った帰り道のように、胸の奥がそわそわと波打つ。
車はある一軒家の前で、静かに止まった。
その門扉を見た瞬間、心臓が大きく跳ねた。
「嘘、でしょ……?」
ゆっくりと引き戸が開き、奥から彼のご両親が姿を見せる。
車を降りた私は、挨拶の言葉すら忘れて、ただ口を半分開けたまま立ち尽くした。
「あら、お帰り港。その方が婚約者さん? よく来てくれたわねえ」
温かく包み込むような声。少しシワは増えていたけれど、間違えるはずがない。
「ゆき子、さん……? 正一、おじさん……?」
私の震える声に、怪訝そうに首を傾げた二人が、同時に目を見開いた。
「……え? まさか、南ちゃん!?」
私の脳裏に、19年前の夏が鮮烈にフラッシュバックした。
* * *
当時、小学二年生だった私は、母と二人で小さなアパートに暮らしていた。
ある土曜日、仕事から帰ってきた母が、玄関のたたきで突然倒れて動かなくなった。幼い私はパニックになり、サンダルもまともに履かずに家を飛び出した。
『誰か、誰か助けて……!』
泣きながら熱いアスファルトを走っていた私を、呼び止めてくれたのが正一さんだった。
正一さんは救急車を呼び、母を病院へ運んでくれた。過労と軽い脱水で数日間の入院が必要になった母には、頼れる親戚がいなかった。
『じゃあ、お母さんが退院するまで、おじさんの家で君を預かろう』
連れられた見知らぬ家で、不安に押しつぶされそうになっていた私に、妻のゆき子さんが作ってくれたのが、湯気を立てるふわふわのオムライスだった。黄色い卵の上には、ケチャップで小さな「太陽」が描かれていた。
『元気になれのおまじない。うちを2つ目の家だと思っていいからね』
その温かさに、私は堰を切ったように泣きながらスプーンを握った。
そしてその夜、一人で眠れずに客間でしゃくり上げていた私のもとに、パタパタと慌ただしい足音が近づいてきた。
『南、眠れないんだろう?』
入ってきたのは、その家の小学四年生の男の子──港くんだった。
彼は足元に大きなゴールデンレトリバーの『ハチ』を連れて、角のよれよれた絵本を抱えていた。
『特別に、俺が読んでやるよ』
孤独な魔女が少しずつ村人に受け入れられていく、温かい星の絵本。たどたどしい彼の朗読を聞いているうちに、私の呼吸は落ち着いていった。読み終えた彼は、まっすぐに私を見てこう言ったのだ。
『俺とハチと父さんと母さんがいるから、泣かなくていいよ。大丈夫、俺がいるから』
数日後、母は無事に退院し、私たちは引っ越すことになった。バタバタとしたお別れで、きちんとお礼も言えないまま、あの夏は私の胸の奥の大切な宝箱にしまわれた。
* * *
「ちょっと待って、待ってくれ!」
リビングに通された後、すべての事情を理解した港が、頭を抱えて叫んだ。
「じゃあ、あの時数日間だけうちにいた、あの『南ちゃん』が……今の南なの!?」
「無理もないわよ、お互い名字も変わったり、20年近く前のことだもの」
ゆき子さんが目元を拭いながら笑う。
「まさか、息子が連れてきたお嫁さんが、あの時の女の子だなんてなぁ。人の縁ってのは本当に不思議なもんだ」
正一さんが豪快に笑うと、足元から二代目の『ハチ』が、私の膝にコテンと顎を乗せてきた。
「南、ちょっと待ってろ」
正一さんが席を立ち、奥から一冊の古い本を持ってきた。表紙の合間に星が散りばめられた、あの日擦り切れるほど見つめた絵本だった。
「懐かしいな……」
港が愛おしそうにそれを受け取り、ページをめくる。と、最後のページの余白で、彼の指が止まった。
「あ、これ……」
「どうしたの?」
「これ、南が急に引っ越しちゃった後、次に遊びに来たら見せようと思って、俺が書いたんだ。すっかり忘れてたけど、今思い出した」
手渡された絵本の最後のページ。そこには、たどたどしい、けれど一生懸命な子供の文字で、こう書かれていた。
『みなみへ またあそぼうね。こんどはべんきょうもおしえてあげる。ずっとずっとともだちだぜ。』
胸の奥が、じわあっと熱くなる。涙がポロポロと絵本の表紙にこぼれ落ちた。
「……ありがとう。でも、友達じゃなくて、夫婦になることだけ許してね」
私が涙を隠すように冗談めかして言うと、港はいつになく真剣な顔で、私の手を強く握りしめた。
「19年かかったけど、やっと届けられた。──南、あの頃も、今も、俺は南のことが大好きだよ。これからは俺がずっとそばにいる。何があっても、大丈夫だ」
その声に、重なる。
あの寂しかった夏の夜に、私を救ってくれた少年の声が。
なぜ彼の言葉にいつもあれほど救われていたのか、ようやくすべての答えが繋がった。
「うん。よろしくね、港」
お昼ご飯に、ゆき子さんが再び作ってくれた、ケチャップで太陽が描かれたオムライス。
一口食べると、あの日と同じ、世界で一番温かい味がした。
(了)
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
子供の頃の小さな出会い、そして何気なくかけてもらった「大丈夫」という言葉が、長い時間をかけて本物の運命になる。そんな温かい奇跡を描きたくて筆を執りました。
作中に出てくる「太陽のオムライス」と「星の絵本」は、二人の過去と現在を結ぶ大切な鍵です。読み終えた皆様の心にも、ほんのりと温かい光が灯れば幸いです。
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