二話:擬きの果実
その日の果実と同じく、我々の人間性もある種、人ならざる形に変貌していたのかもしれない。
おや、君も転生者なのか。実は私も60年前、14歳の頃にこの世界に流れ着いたんだ。50年前の人魔和平条約、ふふ、懐かしい話だね。私自身は大したことなどしていないよ。私は回復係、後方で守ってもらいながら皆の手当てをしていただけ。敵対した魔族の治療にも貢献しただろうって? そんなこと、目の前で怪我をした子供を手当てしたら、偶然魔族だったのさ。その子は耳と目くらいしか魔族としての特徴が出ていなかったし、その瞳は炎症で腫れてしまった瞼に隠されていたから、パーティの人々にも気づかれずに治療が出来ただけ。
別段私は優しい人間なんかじゃない。ただ自分に似ている形をした命を見捨てることが出来なかっただけさ。結果として和平条約の利となる行動だったが、魔族と敵対していたあの頃には褒められた選択じゃなかった。私の精神的弱さが人道に即する形であっただけ、実際には手前勝手に活動をして周りにいる人間を危険にさらしていることと同じことさ。あの子が人間に近い形をしていなければ、私は躊躇い無くあの子を見殺しにしていたことだろう。
そういえば君は怪談を求めていると言ったか。それでは私が経験した、世にも恐ろしい水の話をしよう。
その頃、魔族との交戦も苛烈を極め、先に話した怪我をした魔族の子供を隠しつつ魔王城を目指していた。最初こそ町場で揃えていた食料や薬品も徐々に目減りし、瘴気を清める聖水どころか喉を潤す飲料水までが尽き始めてしまった。衣食足りて礼節を知る、前世の私がいた世界にあるとある国のことわざの通り、人は安心と安全が満たされている中で人として善い存在に慣れる。つまりは、世界を守る為に冒険を続けてきた私達も結局、食料が足りなくなればいとも容易く浅ましい性質を表すようになってしまったのだよ。
現地調達の動物を食料としながら、蛙の姿焼きのどれが一番食いでがあるだとか、木の根のどれが一番柔らかいだとか、そしてそれらが誰に食する権利があるかで争うようになった。私は親友であったはずの弓兵とさえ取っ組み合いの喧嘩をするようになり、よく魔導士のゴーレムに仲裁をされていた。自分達の中で誰よりも人間らしく親切だったのが食事や休息を必要としない土人形だったというのは、笑うに笑えなかった。
私は自分の選択にも後悔していた。勇者の仲間になったことも、救世の英雄になろうと旅に出たことも、魔族の子供を救ったことさえ後悔をしていた。あの場で助けなければ衰弱死していただろう子供を前に、口に出さずとも「お前さえいなければ水も食料も足りたはずなのに」と浅ましい苛立ちを感じることに恥じらいさえなかった。
そんな人間として限界の状態にあった頃。魔王城手前の森で、我々は大量の木の実を見つけた。丸く生えたその木の実は水分量が多いのか、風にタプタプと揺れて光に蜜を煌めかせていた。薄緑色で皮が薄く柔らかそうなそれに、飢えて涸れた我々は執着した。全員で木に登りそれを掴むと、木の実は容易く枝から離れ落ちた。背嚢に籠、鎧兜の中にまで木の実を満たして、我々は地面に降りるとそれに齧りついた。
ぷちゅんと心地良い歯切れの後、仄かに甘酸っぱい果汁が口の中に満たされた。そうしてその果汁はどうしたことか、我々の空腹さえ満たしてくれた。果汁が腹の中で重さを持ち、膨らんでくれるような感覚だ。今の今まで空腹という原始的ながら抗えない欲求に追い詰められていた我々は、この果実の出会いに歓喜し天に感謝した。
恥ずかしながらこの時、回復係である私は気づかなかった。この果実に秘められた真実にも。我々と同じように飢えているだろう幼子が怯えたように固まったまま果実を口にしない現状にも。
ぽこぽこぽこと、腹の内側から音がした。飢えていた内臓がまともな食事を口にしてようやく動き出した音かと思っていたが、水の中で呼吸をしているような音はいつまで経っても途絶えない。どうしたことかと考えていると、喉の奥から何かがせり上がってくる。ごぽぽっ、と、音を立てて口の中に溢れ出したのは先程の仄かに甘酸っぱい果汁。しかしそれは水分のようなしゃばしゃばとした感覚ではなく、どろりと粘性を含んで逆流するのだ。ごぼごぼごぼ、粘性は徐々に流動性を失い半固体化して、正しい呼吸を奪っていく。
頭の中で「ああ死ぬのだ」と呟く自分の声を聞きながら、私は意識を失った。次に目を覚ましたその時、私と
パーティの仲間達は質素ながら清潔なベッドに寝かせられて、体内で増殖したスライムの吸引治療を施されていた。
そのスライム達は果実に擬態していたんだ。魔族の子供には恐ろしい状況だったろう、人間と魔族が戦いあっていることを知っている中で、その子の治療中の目は見えていなかったのだから。それでも我々の呼吸音がおかしくなったところで、彼は勇気を出して魔王城へと走ってくれた。そうして、私が彼の手当てをしたことも伝えてくれた。
幼子の純粋な願いほど世界を変える強い力を持つ祈りはないんだろう。私達は、そして人間達は、その子の「良い人間もいる」に救われた。命を救われ、言葉を交わす機会を与えられた我々に、和平条約は結ばれた。
どうだったかい、私の話は。実体験だ、なかなか語りに力が入っていただろう?
スライムに窒息しそうになった経験も怖かったけれども、飢えの中で自分の人間性が浅ましくなっていくことも怖かったよ。そうしてそこから救われるまで、魔族と交渉しようとも考えなかった自分達にも。だからこそ、君のような転生者がいてくれることに救われるんだ。戦うことのない転生者にね。
ああ、料理が来た。お礼にもならないが、君も一緒に食べよう。胸の底の恐怖をただ静かに聞いてもらえるというのも、恐怖を知った者にとっての救いになるんだから。
平和を慈しむ老人を書いてみたかった話です。




