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3.藍の記憶

「何やってんだ僕は…。」


帰りのバスの中、情けない声が漏れ出た。

東清さんの言葉を振り切り、そのまま校舎を出てきてしまった。

彼女の戸惑う表情が何度も脳裏を掠める。


…やっとわかった。


最近の僕は、写真ではなく作品を「撮ろう」としてばかりいたんだ。

「撮りたい」という、純粋な僕の声を聞くことをやめて。


先輩にへし折られたんじゃない。

自分から「撮る」ことを諦めたんだ。


雨のせいで窓から見える街の灯りは滲んで見える。


長いこと胸の中に渦巻いていたモヤモヤの原因がわかったというのに、

彼女に向けたのは情けないほどの子どもじみた態度だ。


「だっさいなぁ。」


後悔せずにはいられなかった。



「ただいま。」

「お帰り。どうしたの?頭でも痛い?」

「んー、なんか片頭痛持ちになったかも。」

「それってどんな風な痛み?ズキズキする?」

「その声のほうが頭に響いて痛いよ…。」


やけに心配そうに覗き込んでくる母親に

イラっとした態度を出してしまった。


そのまま部屋に向かった僕は、

夕飯も食べずにそのまま眠りに落ちた。


***



翌日、梅雨入りが発表された。

降水確率40%の曇り空に加えて、

湿った空気が頬にまとわりついた。

でも、昨日の片頭痛が嘘のように

今日は何ともない。


昼休みになんとなく一年生の教室の前を歩いてみた。

珍しそうに、不思議そうに向けられる視線を受け止めながら、足早に通り過ぎた。

結局、東清さんを見つけることはできなかった。


放課後、部室に向かう足が自然と速まっていた。

彼女が待っているかもしれない。


__ガラッ


「いるわけないよな。」


そりゃそうだ。約束したわけでもないのだから。

昨日撮影した紫陽花の写真を並べ、一枚につき一溜息といった具合で

僕は一人、東清さんとのやりとりを思い出していた。


ここで過ごした時間は、もう遠い昔のように感じられた。


「へぇ、紫陽花か。」

「わぁ!いきなり話しかけんなって!」

「いきなりじゃないけどな。で、それにするの?」

「いや、まだ出すと決めたわけじゃないんだけどさ。あ、お前さ、この場所、学校裏にあるって知ってた?」

「いーや?そんな場所なんてあったっけ?」

「俺も昨日気づいたんだよ。ちょうど見頃できれいでさ。被写体に花って挑戦したことなかったんだけど、悪くないなって思って。」

「ふーん。いいんじゃない?」

「だよな。あと昨日…って何んだよ、ニヤニヤして。」


真剣に話しているというのに、写真と僕とを交互に見ながら俊はその口角を上げ下げしている。


「岳、なんかちょっと吹っ切れた感じだな。」


竣は僕の手から写真を抜き取ると目を細めた。 


「納得いくもの撮って、…引退してーよな。」

「そうだな。」


僕は、昨日より早めに部室を出ることにした。

帰りの空も、相変わらずの曇り空だった。

僕の足は、自然と紫陽花ロードに向かっていた。


裏門を出れば、同じ世界のはずなのに、まるで別の時間が流れているようだった。

ボールとバッシュの音が遠ざかっていく。

雨に濡れた紫陽花の群れは、しんと静まり返り、そこだけが時間から切り離されたようだった。


「あ。」

「…あ。」


あじさいロードの前でしゃがみ込む東清さんの姿が目に入った。

ゆっくり近づけば、彼女は慌てて立ち上がり、申し訳なさそうに目をそらした。


「あのさ、昨日は、その…ごめん。でも、東清さんに言われて、俺、目覚めたよ。ありがと。」

「いえ、私こそ、すみませんでした。私も、言いたいこと言っちゃって。」


もしかして同じ気持ちだったのかもと思うと、

何だか気恥ずかしくなってきて、僕は笑ってごまかした。


東清さんに聞きたいことはいっぱいあった。

いっぱいあるはずなのに、僕には言葉より何より

残したい瞬間が目の前にあった。


「写真、撮ってもいいかな?」

「え…?」

「東清さんと紫陽花の写真、一緒に撮りたいんだ。…いいかな?」


慎重に言葉を選んだつもりだった。

すると、彼女の目からは、みるみるうちに涙があふれてきた。


「ど、どうしたの?俺、変なこと言っちゃった?」


必死に首を横に振るだけで、彼女は何も言わなかった。

やがて、ポツリと雨粒が頬を伝ったとき、

あの痛みがやってきた。


「痛っ…。」

「あっ…大丈夫ですか。」

「うん、大丈夫。…大丈夫だから。」


さっきよりも申し訳なさそうに僕を覗き込む彼女の顔が、

少しずつぼやけていく。


「…もしかして、思い出しましたか。」


彼女の声が、遠くで反響していた。

「何を?」と、問おうとした瞬間。

頭を突き刺すような痛みが走り、僕の世界は静かに、一気に黒く塗りつぶされていった。

僕は、落ちていく感覚のまま、何もかもを手放した。



***


救急車のサイレンの音だろうか。

誰かが、僕の名前を、何度も、何度も叫んでいる。

遠い、でも確かに聞こえる声。

大丈夫だよ、僕は。

でも、あの子は?あの子は…無事だよね?


「…岳?!」


竣の顔を視界に捉えたとき、彼は何かを言いながらどこかへ行ってしまった。

そして、

「先生が来るまで、起き上がらないで待っててね。」

と言われたとき、ここが病院であることを理解した。


ぼんやりといていた意識が徐々に鮮明になっていく。

今何時だろう。紫陽花ロードに行って、東清さんに会って、それから…。


「岳!よかった…!」


母さんが泣きながら病室に入って来た。

何を大袈裟なと言いたかったのだが、その言葉も飲み込むほどに、

僕の手を握るその手が震えていた。



竣の話によれば、僕が部室を出た後、紫陽花ロードを見てみようと思いたまたま裏門を出たところで

倒れている僕に気が付いたとのことだった。


時計はすでに午後8時を差していた。


その夜、父さんも病院へやって来た。

すぐに帰れるものと思ったのだが、今日は念のため入院になるそうだ。


両親は主治医と話があると言って病室を出て行った。


「じゃ、俺もそろそろ帰るな。」

「ありがとな。本当助かったよ。でさ、一つだけ聞きたいんだけど。竣が紫陽花ロードに来たときに、うちの学校の女の子とか、いなかったか?」

「いいや?お前一人だったけど。」

「そっか。」

「…岳、あの場所、やけに静かで、寂しいっていうか…俺は正直、ちょっと怖かったよ。」


そういえば僕も最初の印象としてはそれに近い感覚だった。

でも今は、東清さんと出逢った場所であって、彼女に逢える場所でもある。


_あれ?ここへ来る前も、東清さんと会っていたよな…?

東清さんと何かを話したはずなのに、まるで目覚めとともに忘れてしまう夢のように記憶がない。


「あのさ、岳。昔、交通事故にあったことがあるって言ってたよな?」

「うん。小学生のときの話だけど、それがどうかしたか?」

「お前の母ちゃん、すげー心配してたからさ。血相を変えた人の顔って初めて見たよ。」


そう言って竣は帰って行った。

母さんが夕べ僕の片頭痛をあんなに心配していた理由はこれだったのだろうか。


僕が交通事故に遭ったのは小学4年生のときだった。

写真好きな父さんに連れられて行った写真展で、僕は壮大な群青の空を見た。

父さんがいつも手に持っていた一眼レフに憧れて、あの日僕は父さんから預けられた

カメラを持って外へ出たんだ。


そして、会場の周りに咲いていた紫陽花の花を写真に収めて…


「あれ。紫陽花…そうだ。あの日の僕も紫陽花を撮ってたんだっけ。…って痛っ…。」


頭を押さえて俯く僕のもとに、タイミング悪く父さんと母さんが戻って来てしまった。

また泣きそうになっている母さんとは別に、父さんはどこか複雑そうな顔をしている。


「岳、写真を撮るのは楽しいか?」

「うん。やっと買ってもらえたカメラだし。…あ!そういえば僕のカメラって無事だよね?!」

「これだろう?…傷一つないから心配するな。」


父さんからそれを受け取ると、何ともいえない安心感があった。


「あ、そういえば父さんさ、前に僕が事故にあったときに持ってたカメラってどうしたの?」


僕の問いに、母さんは目を大きく見開いた。

父さんはといえば、病室の薄暗い灯りを背負いながら、ほんの少しだけ、視線を落とした。


「ああ、あれ、か。……いや、あの話は、また今度にしよう。今日はもう、寝なさい。」


それは、僕がこれまで一度も見たことのない顔だった。

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