2.彩られていく世界
「…失礼しまーす。」
「あんまりきれいな場所じゃなくて申し訳ないんだけど、適当に座って。」
部室のドアをくぐると、東清さんはキョロキョロと部屋の中を見回した。
さっきまでの勢いはどこへやら。
しおらしいその様子に、思わず笑いそうになる。
僕は気づかれないように、そっと目をそらした。
「そういえば、東清さんって、もしかして1年生?部活とか入ってん…」
「わぁ!これ、全部岳さんが撮ったんですか?!」
不意に声が跳ねた。振り返ると、彼女の手には何枚もの写真が。
時すでに遅し。しまっておくのを忘れていた。
「まぁ、いっか。」
部室を自分の部屋みたいに使っていたのが災いした。
写真は棚の上に無造作に置きっぱなしだった。
「全部ボツ作品なんだけどね。コンテストの出品候補だったやつなんだ。」
でも、彼女は僕の言葉なんて聞いちゃいない。
両手を写真に添えて、まじまじと見入っている。
だんだんと、胸の奥がムズムズしてきた。
「この写真は?」
「それ?うちの家族。弟と妹が喧嘩して、お互いじいちゃんとばあちゃんに泣きついてるところ。」
「かわいいー!!」
甲高い声が部屋中に響く。
大袈裟にも見える彼女の反応に、今度こそ噴き出しそうになった。
でも、少しだけ、誇らしかった。
「面白半分で撮ったんだけどね。弟も妹も本気で泣いてるのに、じいちゃんもばあちゃんも笑いこらえるのに必死でさ。その対比が、今でも気に入ってるんだ。」
「私だったら笑って手ぶれしちゃいそう。あ、こっちの写真は…交差点?」
彼女の視線は次の一枚に移る。
それは、先週の日曜日。
今日と同じように雨がちらついていた。
「青信号を待つ人たちが並んでてさ。後ろから撮ったんだけど、
色とりどりの傘があって、人の顔が見えないじゃん?
反対側から見るとさ、みんな下を向いていて、どこか寂しかった。
斜め横から見れば、カラフルな傘の下で、泣いているようにも見えて、
撮る角度で、まったく違う世界になるんだって、この写真を撮ったときに思ったんだ。
…なーんて。ストーリーつければ、写真の見方も変わるでしょ?」
東清さんは静かに僕の話が終わるのを待っていたようで、
ハッとしたときには、口もとに笑みを浮かべる彼女と目が合った。
「岳さん、すごいですね。」
「笑わないの?なんか、自分で言ってても痛いなって思ったんだけど。」
「笑いませんよ。」
照れ隠しのつもりで冗談めかしたのに、
彼女は何度でもまっすぐな瞳を僕にぶつけてくる。
「正直、写真ってよく分からないんです。きれいだなぁとか、おもしろいなぁってだけで。
写ってない部分まで考えたことなんてなかったから、そういう見方があるんだって、新鮮です。」
いつのまにか、肩の力が抜けていた。
モノクロの世界が色味を帯びていくようだった。
「東清さんは、あそこで何してたの?」
無意識の、ありきたりな質問だと思った。
でも、彼女にとってはそうではないらしい。
ふっと視線が揺れて、言葉を探しているようだった。
「誰か、気づいてくれないかなって思いながら、紫陽花たちを見てました。」
少しだけ目線を落とす彼女の睫毛が揺れているのが、やけに印象に残った。
「紫陽花、好きなんだ?」
「はい、とっても。」
部室の窓を打ちつける雨音がやけに大きく聞こえる。
でも、彼女の言葉を待つのは不思議と心地よかった。
「あの場所も、私にとって特別なんです。それに、いろんな人に見てほしくて。」
「俺も今日初めて気づいたんだよね。あの場所、たぶん知らない生徒多いだろうから、もったいないなって思った。」
「でしょう?だから岳さんが写真に撮ってくれたの、すごく嬉しかったんです。
届けたいのに、届かない声があることに気づいてほしかったから。」
「それってつまり、『私のこと見て!』っていう、花の声ってこと?」
「…そんな感じです。」
さっき会ったばかりだというのに、
だいぶ話し込んでいたのか、
窓の外は灰色から群青色へと変化していた。
「実は、高校最後のコンテストがあって、作品が全然撮れなくて。
さっきも何となく、紫陽花の写真を撮ってただけなんだよ。」
「撮りたいものが、撮れないってことですか?こんなに素敵な写真ばっかりなのに。」
「はは、ありがとう。」
”僕にもこんな写真が撮れるかな”
いつかの僕の声がした。
「そんなに熱い気持ちじゃないんだけどね。」
「なんで、そんなに自信がないんですか?」
「なんでって…。」
そうか。
彼女の言葉には何のジャッジもないんだ。
いいとか悪いとか、できるできないとか。
「岳さんはきっと、この写真たち一枚一枚にストーリーを与えられると思う。
事実かどうかは別として。写真に愛情がないとできないことですよ。」
写真を見て何を感じてもいい。自由に想像していい。
撮影者の意図を知れば、その世界を体験できる。
僕の話を聞いてそう思ったと彼女は迷いなく言った。
僕は思考が止まったように黙っていた。
彼女の言葉は、どこか胸を刺すような感覚があった。
「岳さんが撮りたいものって、何ですか?」
純粋に投げかけられたその言葉に、
しばらく沈黙が続いた。
隅に集められた写真の一番上には
黒い傘を差す人物が写っていた。
「あの、」
「……もう、帰ろっか。」
彼女の手元から写真を静かに抜き取り、
引き出しを閉める音だけが、部室に響いた。