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1.雨に色づく花

雨が降っていた。

けれど、うるさいほどの雨音が、不思議と心地よかった。


水に濡れる景色は、ガラス越しの世界のようで――。


「…あの紫陽花、覚えていますか?」


声をかけられた瞬間、心臓がひとつ、音を立てた。


覚えているはずなんてないのに。


けれど、

なぜだろう。


この声も、顔も、紫陽花の香りさえも――

懐かしいと、思ってしまった。



***


2017年6月10日。


写真部の僕は、次のコンテストに向けたその「一枚」を求めて

毎日ひたすらにシャッターを切っていた。


高校の入学祝いにようやく買ってもらえたのが、この一眼レフのカメラだった。

シャッターを切るたびに、その瞬間を、まるで自分のものにしたかのような感覚になれた。


6月に入り、天気予報では連日梅雨入り情報が流れている。

すっきりしない、この蒸し暑さとじめじめした空気に包まれるたびに、

あの季節の到来を予感せずにはいられなかった。


【片頭痛、帰宅必須案件】

【了解】


このやりとりだけで会話が成立するのも、唯一の写真部仲間であるからだろうか。


「よろー!俺、1組の駒井竣ね。2組の藤城君でしょ?いつも何撮ってんの?」


初対面とは思えない距離の近さに、当時の僕は不思議と嫌な気分にならなかった。

3年生になった今、後輩は一人もいない。

つまり、廃部寸前だ。


「藤城君の写真て、良くも悪くも”普通”なんだよね。感覚だけで撮ってるでしょ?」


1年生の夏。

入賞経験もある先輩に唐突に言われた言葉が、まだ胸に刺さっていた。


「はぁ。」


写真とにらめっこをしては、溜息の繰り返し。

確かに、趣味のままにしておけばよかったのかもしれない。


3年になった今、高校最後の写真コンテストが目前だというのに、

この状態が続いて今日で何日目だろうか。


「これだと思って撮った写真のはずなんだけど、現像したらなんか違うっていうか…。」


ふと部室の窓を見やると、わずかに水滴が打ちつけていた。


「明日、梅雨入りかもな。」

天気のせいか、今日は特にネガティブな感情に支配されそうだった。


窓の外から自分の写真に目線を戻すと、一気に憂鬱な気分になった。


記憶は曖昧だが、昔、交通事故に遭った時も、こんな天気だった。

当時の記憶がないというのに、身体は覚えているようで、

それからずっと、この季節になると、どうも気分の落ち込みが激しい。


スマホの画面には"16:32”と時刻が表示されている。

昇降口を出ると、小雨がぱらついていた。

傘を差すほどでもないし、このまま駅まで走って行こうと思ったが、

少し明るさを残した空を見たら、なぜか寄り道をしたい気分になった。


正門へ向かおうとして歩みを止め、僕はそのまま回れ右をした。

学校の中庭を抜けて、ほとんど使ったことのない裏門へと向かった。


教職員用の駐車場を越えて、大人一人が通れるくらいの裏門を出ると、

少し先に紫陽花が連なって咲いているのが目に入った。


「痛っ…。」


ほんの一瞬、右のこめかみあたりに痛みが走った気がした。

もしかして、片頭痛の始まりだろうか。


「紫陽花ロード…?」


だいぶ年季の入った木製の看板が足元にひっそりと立っている。

少し斜めに傾いたそれは、道路脇に30mほど続いている《紫陽花ロード》に

似つかわしくない見た目だ。


人通りも少ないこの場所で、彼らを見つめるのは、僕一人だった。

こんなにきれいなのに、まるで外の世界が関係ないみたいに

ここだけ取り残された空間のように見えた。


灰色の空と雨音が響く中で見る紫陽花たちが、

だんだん不憫に思えてきた。

同情心からか、僕は彼らを写真に収めることにした。


_カシャッ カシャッ


ついでにスマホのカメラでも撮影してみた。

…が、どうも僕のシャッターを押すタイミングと

スマホがそれを認識する時間にほんのわずかなズレがあるようで。


これじゃない。

画面の中には僕の見た"彼ら”は映っていない。

どうしてもそう思ってしまう。


再び一眼レフカメラを構えると、レンズが僕と現実世界との間のように思えて、

「あぁ、この感覚だ」と思った。


_カシャッ カシャッ


一心に写真を撮り続けた。

僕の世界には雨音とシャッター音だけが存在していた。


写真を撮り終えた後の、余韻が残るほんの少しの時間、

世界も少しだけ、静かになる。

僕はこの時間が好きだ。


「...の、…あの!」

「え?」


急に鮮明な声が響き渡り、現実という世界に戻される。

慌ててカメラから視線をあげると、

数歩先にひとりの女の子が立っていた。


「どのが好きですか?」

「はい?」


僕の質問には答えず、彼女はツカツカとこちらに近づいてきたかと思えば、

唐突に質問を投げかけてきた。

彼女との距離がぐっと近づと、

見下ろすような視線の高さに、妙に意識してしまった僕は、

思わず後ずさりをした。


「それで?」

「えっと、どれも何も、全部、きれいだと思うけど?」


下から覗き込まれるように僕を見つめる彼女に

しどろもどろになりながら答えることになった。


すると、彼女は明らかに残念そうに溜息をついて、

最初の質問の答えをくれた。


「私、東清七海とうせいななみって言います。あなたは?」

藤城岳ふじしろがく。」

「藤城岳…岳さん…。紫陽花って、みんな違うのに、同じ場所で咲いてるの、不思議ですよね。」


東清七海?何なんだこの子は。

勢いに圧倒されている僕にお構いなしに、

彼女は話を続けた。


「ちなみに、私はこのが好きです。一人だけ白くて、浮いてるかもしれないけど、それが、一番、目を引くの。」

「そうだね。」


花を見つめながら熱弁を振るう彼女は、

紫陽花によっぽどの想いがあるのかもしれない。

それだけは何となく分かった。


「青いが多いけど、青の中に少しだけ赤い花びらをつけたりしているもいる。おもしろい花だと思いませんか?」

「そうだね。」


やけに親し気に話してくる彼女と接していると、初めて会ったようには思えなくて、

なるほど、竣と同じようなタイプだと気づいた。


「あの紫陽花のこと、覚えてますか?」


彼女はさっき熱弁していた白い紫陽花を指さしている。

その目は、どこか切なげで、何かを訴えているようだった。


「覚えてるって…さっき君が説明してくれたでしょ?一番目を引くって…痛っ…。」

「大丈夫ですか?」


再びこめかみの奥がズキンと鳴った。

視界の端が少しだけ滲んでいく。


彼女に大丈夫だとジェスチャーで伝えると、

ホッとしたような表情を浮かべた。

その顏が、なぜか、懐かしく感じたんだ。


「岳さんはどうして写真を撮っていたんですか?」

「それはまぁ、気まぐれっていうか…。」


今度はじっと僕の目を見つめている彼女に

首を傾げると、


「岳さん、」


僕の名前を、言葉の響きを刻むように彼女は言った。


体育館からは試合開始を告げるホイッスルの音が響いてきた。

一斉に走り出すバッシュのあの音がこだました。


「見せてくれませんか?」

「はい?」

「岳さんの写真、見たいです。」


そして、


「私、岳さんのシャッター音、好きです。…生きてるみたいだから。」


彼女の一言で、

僕の世界から音という音が消えた。


シャッターの余韻も、雨の細やかな音も、

体育館からの歓声も、すべてが遠ざかる。


ただ、彼女の声だけが、

僕の胸の奥で、はっきりと鳴り響いていた。


忘れかけていた何かが、

胸の奥で静かに鳴り始めようとしていた。

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