(幕間) 帝国歴一二七九年 猛獣令嬢 〇五
「いるか?」
「タバコ……ですか?」
ニルスが差し出した端の潰れた箱には、帝国印という刻印と特徴的な絵が描かれており、両膝を抱えながら離れた場所を見ていたアナスタシアは少し目を丸くした。
差し出されたタバコの箱とニルスの顔を交互に見た後、少し寂しそうな表情のままタバコを一本抜き取ると黙って口に咥える。
そのまま火を着けるわけでもなく、毛布に包まって寝息を立てているモーディを見つめていた彼女だが、そのルビーのような瞳にはほんの少しだけ揺らぎのようなものが見えた。
ニルスは改めて任務を共にするはずだった目の前の女性……おそらくまだ二〇になるかならないかだろうが、人形騎士での印象とまるで違う美女の横顔を見て思わず見惚れてしまう。
彼の人生でこれほどまでに色香を感じさせる女性はそう多くない、化粧っ気も無いにもかかわらずアナスタシア・リーベルライトは絶世の美女と呼んでも差し支えないほどに整った顔立ちをしていた。
荒れていた頃のニルスであれば、口説くかもしれないが……彼は胸元に光る星の徽章とは別のもう一つかけているペンダントを軽く指で撫でると、彼女へと語りかける。
「火はあるかい?」
「あ、いえ……私はタバコを吸う習慣がなくて」
「そっか、待ってな」
「あ、どうも……ゲホッゲホッ!!」
ニルスが笑顔でパチンと指を鳴らすと、ひとりでにアナスタシアが咥えるタバコに火が灯る……それを見た彼女は少し驚いたような表情を浮かべたあと軽くタバコを吸い込んで……そして思い切り咽せた。
習慣がないというのは本当だろう……苦しさに目に涙を浮かべながらもアナスタシアは、何かを我慢するような表情のまま再びタバコを吸い込むと、何度も咽せる。
ニルスはその様子を見て、彼女がケレリスで敗残兵達を皆殺しにしたことを、相当に抱え込んでいるのではないか、と予想した。
言動はともかく、今の彼女はどうにも危なっかしさを感じる……貴族子女が戦場に出てくるのは一八歳になった時だ。
殺しの訓練を積むのは最初の一年目に戦場で行われる合同作戦で経験するのだが、それを乗り越えたとしても、実際に戦場で人を殺すというのは精神的に負担を感じるものなのだ。
帝国では騎士学園という制度が確立しており、貴族子女は魔術師でなければ、その学園へと通い軍人になるか官僚になるかの選択をしなければいけない。
官僚になるためには学園での優秀な成績と論文の提出が求められており、これは非常に門戸が狭い道である。
そのため大半の貴族子女は軍人となる道を選ぶのだが……通常貴族令嬢は馬鹿正直に戦場に出ることはせず、婚約を理由に安全な後方勤務へと回されるケースが大半だ。
戦場は危険であるというのは誰もが認識しており、よほど貧乏な貴族家か何らかの理由があってそれを選択しなければ最前線まで出てくることは稀なのだ。
「けほっ……支給品のタバコ、美味しくありませんね」
「そうか? 俺は慣れたぜ、もう一〇年以上愛用だからな」
「そうなんですね……他の人が吸ってましたが、匂いがきついなと思ってました」
アナスタシアは滑らかで美しい指でタバコを軽く眼前に持ち上げると、再び軽く吸い込む……今度はコツを覚えたのか、咽せることはなく紫煙を燻らせた。
唇は思わず吸い付きたくなるような少し艶かしい色をしており、ニルスは内心感じている劣情を悟られないように視線を逸らす。
だが当のアナスタシアはじっと寝続けるモーディを見て、ひどく真剣な顔をしていた……その根底にあるのは怒りか、それとも別の何かかわからない。
ニルスは黙ったままのアナスタシアへと視線を戻すと、顎をさすりながら彼女へと話しかける。
「それと敬語じゃなくていい、同格だろ?」
「あ、いえ……テグネール曹長は年上でいらっしゃいますし」
「やめてくれ、俺みたいなやつに敬語なんか必要ないんだ、それに公爵家の縁者なんだろ?」
「え? い、いえ私はリーベルライト男爵家なので本家ではないです」
リーベルライト公爵家には数多くの分家が存在している……男爵家は貴族としては最下級ではあるが、それでもリーベルライトを名乗っているということは血筋としては公爵家に連なるものなのだろう。
男爵家の令嬢だとわかるとおそらく貴族子弟の軍人からは相当に舐められるだろうし、序列を盾に相当無茶な要求をしてくるのではないか、と彼は思った。
アナスタシアが叫んだ『だから男は嫌いだ』、その言葉には彼女が過去に受けた理不尽を思い出してそう口に出したのではないか、と同情してしまう。
そしてそういった好奇の目を躱すためなのか、戦いでは猛々しい性格を装っている……とニルスは何となくだが、あまりにギャップの激しいアナスタシアの態度に理由を感じざるを得なかった。
「それでもさ、おっさんは綺麗な子には敬語で喋ってほしくないんだよ」
「口説いているんですか?」
「ちげえよ、俺は妻持ちだぞ?」
ニルスは胸にかけていたペンダントを軽く持ち上げる……先端には金色の指輪がかけられており、それは帝国では一般的な妻帯者がつける指輪であることがわかった。
それを見たアナスタシアはほんの少しだけ苦笑すると、『奥さんがいるのなら安心ですね』と呟き……そして再び寝息を立てるモーディへと視線を向け直す。
哀れなモーディは数日の間散々に敗残兵たちに嬲られ、慰み者にされている。
川の水で汚れ切った彼女を洗ったのはアナスタシアがだったが、あまりにひどい状態だったのか悔しそうに肩を震わせていた。
衰弱し切ったモーディはすぐに歩ける状態ではなく……一日は休ませないと動けないだろう、それがニルスの見立てであり、アナスタシアもそれに同意している。
「彼女は」
「ん?」
「彼女は日常に戻れるのでしょうか?」
アナスタシアの瞳が揺らぐのが見える……モーディ・ベアリングには婚約者がいたが、敗残兵に彼女が捕まったと聞いてすぐに、婚約破棄を申し入れているのだという。
『どうせ戻ってこない、戻ってきても傷物だ』
婚約者は口には出さなかったが、彼の父親はそう会頭に告げたという。
ひどい言葉だ……帝国において女性の地位はそれほど高くない、貴族令嬢という身分をもってしても、男性とはかなりの差があるのだ。
傷物となったモーディはこれから後ろ指を刺されながら暮らさなければならない、敗残兵に慰み者にされた女性として。
「戻れないだろうな、よくて訳ありの家に嫁ぐとか」
「そんなの彼女のせいじゃない」
「そうだ、だがそれが帝国の現実だ……それと俺はお前さんに言いたいことがある」
「曹長に言われることなんかない、男なんかに」
「違う、お前はこのままだと彼女と同じになる」
アナスタシアがハッとした顔でニルスを見つめる……美しい瞳が自分を見たことで、思わずドキッとしてしまうが、ニルスは彼女にはっきりと告げなければいけないと思っていた。
それは今のままでは彼女を待ち受ける運命が決まってしまっているからだ……アナスタシアは強いが、それは人形騎士という兵器を動かせるただ一点にある。
むしろいくら腕っぷしが強かろうと、彼女は女性である……一人で一〇〇人の敵を素手で殴り倒せるわけではないだろう。
人形騎士を失って仕舞えば、彼女は簡単に欲望に満ちた男たちの慰み者になってしまうだろう……ニルスは目の前の女性がそうはなってほしくない、と感じている。
「アナスタシア、俺を指揮魔術師に指定しろ」
「はぁ? 何をいって」
「俺がお前を助けてやる、おっさんの知恵と勇気を舐めるなよ?」
ポカンとした表情を浮かべていたアナスタシアだったが、ニルスの目をじっと見つめて彼が本気なのだ、と理解したのか次第に苦笑じみた笑みを浮かべた。
これまでのやり取りからすでに敵意はない……少し彼女の語気が荒いのは、感情が昂っているからだ。
あまりに美しい横顔にニルスは必死に首をもたげてくる『この女を手に入れたい』という内なる欲望を抑え込む……だめだ、俺はこいつをサポートするのだと誓った。
だから彼女の信頼を得て、俺がこいつを一人前の兵士に、そして一人で生きていけるだけの知識を詰め込む教師になるのだ。
ニルスは何度か深呼吸をした後、アナスタシアへと手を差し出す……それを見たアナスタシアは少し悩んだような表情だったが、大輪の花が咲いたような笑みを浮かべるとニルスの手を力強く握った。
「貴方を信じれば、私は生き残れるって寸法か……信じるよ、よろしくおっさん」
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