(幕間) 帝国歴一二七九年 牡鹿の王 〇一
——王国戦線において、安全な場所というのはなかった……常に敵襲の気配に怯え、暗い森の中から何が飛び出してくるのか、いつも不安を感じていた—— (ある帝国兵の手記より)
「さてと……そろそろ準備しねえとな」
ゼルヴァイン帝国の魔術師ニルス・テグネール曹長は、ヴォルカニア王国戦線から少し離れた森の中で、広げていた地図を畳みながらそう呟く。
命令に先立ち上層部の集めてきた情報によると、この森の奥に王国軍が秘密裏に設営した補給基地が存在し、その襲撃と破壊が今回ニルス達に下された任務だった。
王国戦線において大軍が進撃するにあたって最も厄介だったのが、この数多く点在している森林で開拓が進んでいない国境沿いの地域は平原と呼べるような場所が少ない。
人形騎士のように大型兵器を移動させるためには木々を伐採する必要があるのだが、大掛かりな作業は主力兵力の位置を知らせるようなものであるため、長引く戦争の中でも樹齢が数百年に届きそうな立派な木々が残されている。
「おい、アナスタシア……通信用魔道具の確認をしろ」
「ん? ああ……ちょっと待って……ふぁあ」
ニルスは傍で膝をついて駐機態勢を取っているフェラリウスを見上げてそう叫ぶと、空いたままのハッチから一人の美女が顔を覗かせた。
帝国軍人形使いであるアナスタシア・リーベルライト曹長は、あくびをしながら燃えるような赤い髪を軽く掻くと、もう一度そのハッチの奥へと姿を消していく。
ひどく眠そうな顔をしていたのでおそらく操縦席に座ったまま寝ていたのだろう……ここは主戦場から離れているとはいえ、普通の神経では居眠りなど出来ないのだが、とニルスは思わず苦笑してしまう。
図太いというか少し抜けているというか……コンビを組んでから数週間、彼女と行動を共にしてわかったことがいくつかある。
絶世の美女と呼んでも良いアナスタシアだが、少なくとも淑女としては失格レベルに脇が甘く、とてつもなく危なっかしい。
ニルスもそこまで貴族社会のマナーなどを厳格に守るタイプではないが、そんな彼から見ても粗が大きいと感じる。
そして……アナスタシアがハッチからもう一度その姿を見せた時に、ニルスは思わず叫びそうになった。
「ねえ、これでいいんだよね?」
「おま……! ちゃんと前を締めろ!!」
「ん? ああ……操縦席が暑かったからさ……」
アナスタシアは軍服のジャケットを着用しておらず、白いシャツ姿でそこにいたのだが、よほど暑かったのか襟から胸元までのボタンが外されており、豊かな双丘の谷間がこぼれ落ちそうな状態だった。
白く滑らかな肌と、彼女の動きに合わせて柔らかに揺れる胸を見てしまい、ニルスは思わずひどく狼狽し……そして歳の離れた彼女を変に意識してしまって罪悪感を感じた。
そんなニルスの様子などに気が付かないのか、アナスタシアは慣れた手つきでボタンを締めてから、何故かそっぽを向いているニルスを見てキョトンとした表情で少し首を傾げる。
そう……アナスタシアは何故かニルスの前では女性であることを忘れているかのように、無防備な姿を見せるのだ。
それだけ信頼されている、と思えばそれはそれで嬉しいことではあるが、少なくとも彼はアナスタシアに対して邪な欲望をぶつける気は今のところないというのに。
「どうしたのおっさん? なんで向こう向いてるんだ?」
「おっさんはね、そういう気分の時もあるの」
「ああ、そう……? それで通信用の魔道具は問題ないよ」
「そうか……それとな、俺がいうことじゃねえけど、ちゃんと作戦前には軍服着ろよ規則だろ」
「へーへー……気をつけますよ」
悪びれもなくそう口にするも、ニルスの言う事には従おうと思ったのか彼女は操縦席から、ジャケットを取り出すとそれを羽織った。
全く……とニルスは軽くため息をつくと、ハッチから顔を遠くへと向けて水筒から水を飲んでいる彼女を振り返って見つめる。
アナスタシアは美しい……黙っていれば、一国の姫君だと紹介されても違和感がないレベルなのだが、とにかく隙が大きい一面が大きな欠点として映った。
ニルスには三歳ほど上に姉がいたのだが、テグネール家の令嬢として育てられた彼女は『令嬢らしい』女性だった、と記憶している。
もし先ほどのアナスタシアを姉が見たとしたら……その場で卒倒するか、怒り狂って折檻してでも行動を矯正しようとするだろう。
そんなことを考えていると、軍服の前を締めながらアナスタシアがハッチから軽く飛び降りてきて、ニルスが広げていた地図を覗き込む。
「それで? 作戦はどうするんだ?」
「想定される補給基地の場所はここなんだが、馬鹿正直に攻め込む前に少し偵察したいな」
「誰がいく?」
「俺がいくよ、お前はここで待機して俺からの合図で攻め込んでくれ」
彼らは他に仲間を持たず二人で行動しているため、部隊と呼べるようなものではないが、一応公式にはチームとして記録されているそうだ。
二人とはいえその戦力は非常に高い……そもそも人形騎士を独自運用するチームは他にはほぼいないし、魔術師はどれだけ能力が低くても、恐るべき殲滅能力を発揮する。
最低ランクと呼ばれるニルスですらいざという時は、簡単に小隊規模の敵を殲滅するだけの威力を持った魔術を行使可能なのだ。
連続して行使できないという欠点はあるものの、その補助としての魔法を彼は他の誰よりもうまく使用できるため実際の戦闘能力は驚くほど高い。
仲間である魔術師連中は彼のことを『落ちこぼれ』として蔑む傾向があるが、実力を理解している人間からするとどうして昇進すらできていないのか理解ができないらしい。
「ある程度相手の情報がわかった時点で呼ぶから……そしたら自由に暴れてもらって構わない」
「わかった、捕虜とかはとらないんだよね?」
「難しいだろうな……もし高官レベルの人物がいる場合は事前に俺が押さえる」
「了解……危なかったらすぐ呼んでね」
アナスタシアの言葉にニルスは微笑む……コンビを組んでから数週間、お互いの能力や才能が素晴らしいことを再確認している。
おそらくヴォルカニア王国方面軍の中でも屈指の戦闘能力を発揮できるのではないだろうか……それこそ敵エース級の人形使いと戦ってもアナスタシアは敗北しないと思える。
どうしてこの男爵令嬢がそこまでの才能を持っていたのか、まるで見当がつかないのだが、それでも敵に回していなくてよかったと思うレベルの能力であった。
グラディス中将が特別に目をかけている、と言うのも納得できる気はする……そして目をかけていると言うことはコンビを組んでいるニルスのことなどすでに知られているだろう。
「……なんかあったら首と胴がサヨナラするな……」
「なんか言った?」
「ん? なんでもねえよ……それよりも軽く飯食っとけ」
主戦場ではまだ大規模な衝突は起きていない……だが、帝国軍の作戦行動開始まで数時間しか残されていないため、補給基地の破壊などを考慮すると働きっぱなしになるだろう。
この作戦での要はアナスタシアが操るフェラリウスにかかっている……再び機体を見上げるが、木々の合間から差し込む光に照らされた装甲が鈍い光を放っている。
中古とはいえこの戦士級人形騎士は恐るべき戦闘能力を発揮する……それこそケレリスなどよりもはるかに高性能なのだから。
今回の作戦以降は修復の済むケレリスに戻るのが少し惜しいところではあるが……ただ、ここで実績をつけて仕舞えば、アナスタシアにはもっと良い機体が支給されるに違いない。
「よし……じゃあ作戦を開始するぞ、帝国軍の勝利のために頑張るとしよう」
_(:3 」∠)_ 無防備……!
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