『こがらしやまの かぜのこくん』
私が住んでいる街の、西方の街はずれ。隣りの街との境界近くに、「古賀志山」という山がある。
それほど高い山ではなく、半日のハイキングくらいに最適な山。麓には、年に一度、自転車の国際レースが開催される「森林公園」があり、以前は勤務先の関係で、よく帰宅前に、その公園でジョギングをしていた。
そして、そこからず~っと北に上がっていくと、いま私が山頂に立っている「太郎山」がある。
国立公園の中に位置してはいるものの、周りには、もっと高くて有名な山々があり…たぶん、頻繁に訪れる事のできる、私みたいな地元の人間でもなければ、足を踏み入れる事もないような山。
ひっそりとした佇まい。そんな景色を眺めていると…
「ピー・ヒョロロ~」
初秋の頃だったか? あれは、どこだったか?
「やつらには、風が見えるんだ」
私の傍らに座っていた老人が、ポツリとそう漏らす。その声につられ…空を見上げる事など、終ぞなくなっていた自分に気づきながら…私も首を反らし、天を仰ぎ見る。
「ピー・ヒョロロ~」
つがいなのか? そこには、淡い午後の陽射しの中、二羽の鳶が、円を描いて舞っていた。
「ピー・ヒョロロ~」
確かにそうだった。私の父ほどの年齢。その老人が言う通り、羽ばたきもせず、その大きな翼を広げただけで、風をつかみ、高空の高みにまで舞い上がる。
「ピー・ヒョロロ~」
『どこかで見たような光景だ』
でも、その時はまだ、私の記憶には靄がかかっていた。
※ ※
「う〜、寒い!」
私は思わず、首をすぼめる。山頂に出ると、いきなり冷たい北風が吹きつけてきた。
見渡せば、向こうには、一面まっ白に雪化粧した山々が連なっている。私が登ってきたこの山も、北斜面は、数日前に降った初雪が残っている。
『南側にはなかったのに…』
陽当たりのよい南斜面にだまされて、この山に登り始めたのに…ここから先は、すっかり冬支度が整っているようだ。このあたりから先は、冬になると、『ゴールデン・ウィーク』の頃まで幹線道路も閉鎖される豪雪地帯。
そんな景色を眺めていると…
『そういう事だったのか』
急に目が覚めた時のように、突然蘇ってきた遠い記憶。
『そうだったんだ』
私は納得した気分になった。
なぜだか、その名に魅かれて登り始めたのだが…冷たい北風に吹かれながら、冷涼とした景色を眺めていて思い出した事がある。封印されていたかのような、幼い日の記憶。
あの頃…一番最初の記憶がつき始めた頃…ほんの一時期だが、どういう訳か私の家族は、郊外の一軒家に住んでいた。
『こがらしやまの かぜのこくん』
タケくんは、お母さんの自転車の補助椅子に乗って、いっしょにお買物。
天気はとっても良いけれど、風が「ぴゅう ぴゅう」とっても寒い。
「びゅう」と強い風が吹くと、お母さんの前に座っているタケくんは、息もできないくらい。
前から吹いて来る風に、自転車を漕ぐお母さんも大変そう。
「ぴゅう」
またまた強い風が吹いて来た。
「風さん、どいて!」
タケくんは、冷たい風に目をつむって叫びます。
「ごめん・ごめん」
あれ? だれかの声がしました。
「お母さん、なにか言った?」
タケくんは振り返って、お母さんにそう尋ねます。
「なにも言ってないわよ…」
風に向かって自転車を漕ぐお母さんは、とっても大変そう。
「おかしいな…?」
タケくんがそう言って前を向くと、今度は後ろから風が吹いてきました。
だれかが自転車を押してくれているように、すーいすい。あっと言う間に、おうちに到着。
※ ※
今日も良い天気。
タケくんは、おうちの前の広場で凧上げをしています。お休みの日には、大きなお兄さんたちが、野球やサッカーをしている大きな広場です。
タケくんのおうちは、大きなお山の近く。でも、冬はお山の方から「びゅう びゅう」と『木枯らし』が吹いて来ます。それでタケくんのおうちでは、そのお山を「こがらしやま」と呼んでいました。
でも今日は、ぜんぜん風が吹いて来ません。タケくんが一生懸命走って、糸を引っ張っている間は空に浮かんでいるタコも、走るのをやめると、ぱたりと落ちてしまいます。
「こがらしやま」の方を見上げると、赤や青や黄色の、色とりどりのハング・グライダーやパラ・グライダーが舞っています。
「風さん、来て!」
タケくんが「こがらしやま」に向かって叫ぶと、「ぴゅう」という音がして、風が吹いて来ました。地面に倒れていたタコが、ぱたぱたと舞い上がります。
「風さん、ありがとう」
タケくんがそう言うと…
「どういたしまして」
と、だれかが返事をしました。
「だれかいるの?」
タケくんは、びっくり。
「ここだよ」
タケくんは、声のするあたりを見ました。でも、だれもいません。
「見えないよ」
タケくんがそう言うと、広場の隅っこの所で、くるくると木の葉が舞い始めます。
「これならどうだい」
声がそう言うと、もやもやと砂ぼこりが舞って、タケくんと同じくらいの男の子の姿が見えました。
大きな空色の瞳に、向こう側が見えそうなくらい白い肌。青っぽい髪の毛が、目のあたりでフワフワ・ヒラヒラ揺れています。
「きみはだれ?」
タケくんは、その男の子に向かって言いました。
「ぼくは風の子さ」
男の子は、ふわふわく・るくると回りながら答えます。
「そうそう。このあいだは、ごめんね。ぶつかっちゃって」
風の子くんは、そう言います。タケくんが、お母さんとお買物に行った時、タケくんにぶつかった風さんは、この男の子だったのです。
「おわびに、おうちまで押してあげたんだ」
「そうか。どうもありがとう」
タケくんは、お礼を言いました。
「でも、どうして、くるくる回っているの?」
タケくんは、さっきからずっと、その男の子がくるくる回っているのが不思議で、そう尋ねました。
「ぼくは風の子だから、じっとしていられないんだ。でも、ここには吹き溜りがあるから、少しの間なら、ここにいられるよ」
タケくんも、風の子くんといっしょに回りながら、話をします。
「ぼく、タケくん」
「ぼくの名前はたろう」
「かわった名前だね」
「風の子は、みんな『たろう』っていう名前なんだ」
「でも、ぼくたち二人とも『た』がつくから、お友達だね」
二人は、すっかり仲良くなりました。
たろうは行ったり来たり、何度も何度もたけるくんの周りに巻き付いたり触ったり。二人は広場を駆け回りました。
「ゴ〜ン…!」
やがて夕方になって、遠くのお寺の鐘が鳴りました。
「もう風のやむ時間だから、おうちに帰らなくちゃ」
たろうがそう言います。
「おうちは、どこにあるの?」
タケくんが尋ねると…
「このお山のむこうさ」
と言って、風の子たろうは、「こがらしやま」の方へ飛んで行きました。
「たろうくんはいいな。お空が飛べて」
タケくんはそう言って、お山の方に手を振りました。
※ ※
次の日から、風のある日はいつも、二人は仲良く広場で遊ぶようになりました。
でも今日は、タケくんはおうちの中。
「暖かくしてないと、風邪ひくわよ」
お母さんに、そう言われたのに…
「ぼくは風の子くんとお友達だから、風邪なんてひかないんだ」
きのうはそう言って、遊びに行きました。
「おうちに帰ったら、手を洗って、うがいをしなくちゃだめだよ」
風の子くんにそう言われたのに、きのうは手も洗わず、うがいもしませんでした。それで今日は、風邪をひいて、お二階のお部屋のおふとんで寝ています。
タケくんは、窓からお外を眺めていました。すると、「とんとん・とんとん」。だれかが窓をノックします。
「たろうくんだ!」
タケくんがそう言って窓を開けると、冷たい風が「ぴゅう」。たろうが姿を現わします。
「どうしたの?」
「カゼひいちゃったんだ」
「そうか。じゃ、今日は遊べないね」
「たろうくんはカゼひかないの?」
「ぼくは風の子だから、カゼなんてひかないんだ。暖かいのは苦手だけどね」
「そうか、いいなあ。それに、お空が飛べて」
タケくんは、いつもそう思っていました。
「ぼくが大きくなったら、お空に連れて行ってあげるよ」
たろうが、そう言います。
「ほんと!」
タケくんは、びっくり。
「ほんとだよ。ぼくはまだ子供だからできないけど、大きくなったら人間くらいわけないさ。大人の風が怒ったりすると、牛だって自動車だって飛ばしちゃうんだよ」
「でも、どうやって?」
タケくんが尋ねます。
「ほら、見てごらんよ」
二人は、「こがらしやま」の方を見上げます。今日も色とりどりの、ハング・グライダーやパラ・グライダーが飛んでいます。
でも、よーく見ていると、だんだんと大人の風さんたちが見えてきました。翼やパラシュートを、上から引っ張ったり、下から持ち上げたり。
「飛行機だって凧だって何だって、お空を飛んでいるものは、ぼくたちが持ち上げているんだ」
大人の風さんの背中に乗って、鳥さんが気持ち良さそうに飛んで行きます。
「鳥さんは、お友達なんだ。ぼくたちが、遠くまで乗せてあげてるんだよ。きみもぼくのお友達だから、ぼくが大人になったら乗せてあげるよ」
「ほんとだね!」
「ほんとだよ」
「約束だよ!」
「もちろんさ」
その時です。
「タケくん! 何してるの?」
下から、お母さんの声がしました。
「窓を開けていると寒くなっちゃうし、このお部屋は、ぼくには暖かすぎるから、きょうは帰るね」
たろうはそう言って、「ぴゅう」と飛んで行きました。
※ ※
陽射しが強くなって、だんだんと暖かくなってきた、ある日の事です。今日もいっしょに遊んでいたたろうが、タケくんにこう言いました。
「ぼくがいなくなっても、寂しくないかい?」
タケくんは、びっくり。
「どっかに行っちゃうの?」
「ぼくたち北風は、暖かくなったら、北の国に帰らなくちゃならないんだ」
「お山の向こうに帰っちゃうの?」
「ううん。もっと、ずっと・ずっと・ずーっと遠い所さ」
タケくんはそれを聞くと、とっても悲しくなってきました。でも我慢して、こう言いました。
「平気だよ。幼稚園に行ったら、お友達がいっぱいできるって、お母さんが言ってたよ」
「また来年、風が吹いたらここにおいでよ。いっしょに遊ぼうよ」
「うん」
タケくんは、涙をこらえて返事をします。
「一年たって大きくなっても、ぼくのこと忘れないでね」
風の子たろうは、そう言います。
「ずっと忘れないよ」
タケくんは、そう答えます。たろうは、たけるくんの周りをくるくるっと回って、飛び去って行きました。
あとには、舞い上げられた枯れ葉が一枚。タケくんは、それを大切におうちに持って帰りました。
※ ※
春になって暖かくなって、タケくんも今日から幼稚園生。
幼稚園のお庭に出てみると、お二階の屋根から、大きな大きな、高い高い滑り台がありました。タケくんはお二階に上がって、滑り台の所に行ってみます。
てっぺんから見下ろす滑り台は、ちょっと怖かったけど、タケくんは勇気を出して滑り出します。「ぴゅう」と風を切って滑り降りると、とーっても良い気分。
タケくんはお空を見上げ、とーっても大きな声で叫びました。
「風の子くん! ぼく、お空を飛んだよ!」
「ピー・ヒョロロ~」
お空の上の方では、鳶がくるりと輪を描いて、飛んでいました。
※ ※
「…」
風に吹かれてしばし。
『あの時の約束、彼はおぼえているだろうか?』
あの後すぐに、私の一家はあの地を移った。そしていつしか、彼との記憶も薄れていった。だいたい…
『あれは、本当にあった出来事なのか?』
確信が持てない。
『それとも、幼い日のただの妄想?』
とにかく、空を飛ぶ事には、まったく縁の無い生活を送っている。
「ブル・ブルッ!」
冷えてきた。
『そろそろ降りよう』
踵を返す。と、その時、目の前で反転した風が…確かに見えたのだ…下から私の帽子の鍔を煽る。
後方に飛び去った帽子を追って振り返ると…
「ピー・ヒョロロ~!」
「このことは、絶対に秘密だよ」
「もちろんさ!」
(参考楽曲:Frankie Knuckles “The Whistle Song”)