昨日の少年 今日の俺 明日の大人
大人は、ダサい。
満員電車と呼べるほど混んでいない、でもだからと言って、気兼ねなくどこにでも座れるほど空いていない。そんな地下鉄車内の、中途半端な帰宅ラッシュの座席に深く座り、今日も俺は、揺ぎ無きこの世の真理を噛み締めていた。
目の前には、だだっ広いオデコから脂汗を流して吊革を掴む、バーコード剥げのメタボのおっさん。
向かいの席には、有名デパートの紙袋を三つも抱えた、虎ガラのワンピースを着た金歯のおばさん。
その横で、仕事でミスでもしたのだろうか、真っ青な顔をしてスマートフォンにメールを打ちながら、無意識に液晶画面に向かってペコペコと頭を下げ続ける貧相なサラリーマン。
地下鉄の車内にはびこる、今日も明日も明後日も、何の疑いもなく同じ電車に揺られる、名も無き、夢無き、明日無き大人、大人、大人……。
ああ、ダサい。たまらなくダサい。大人という生き物は、どうしてこう揃いも揃ってダサいのだろう。大人になんかなりたくない。この気持ちは日増しに強くなるばかりだ。自分がこのバチ糞ダサい生き物の予備軍だと思うと、マジで絶望する。死にたくなる。
よくよく考えてみれば、俺が大学受験に失敗をして浪人生となり、こうして毎日予備校に通うはめになったのも、この俺に「大人になんかなりたくない」という気持ちを抱かせたコイツらのせいだ。「大人は素晴らしい、一刻も早く大人になりたい」そう思わせてくれないコイツらが悪いのだ。俺が受験に失敗をしたのは、少しでも長く子供の世界にいたいから、あえて時間稼ぎをしただけさ。断じて俺が馬鹿だったからではない。うん、そうだ。そういうことにしておこう。
目を開けていれば、バチ糞ダサい生き物どもが、否が応でも視界に入ってくるので、いつものように、下車をする駅までスマートフォンで音楽を聴きながら居眠りをすることに――
「ない! ない! お金がない!」
――俺が両耳にイヤホンをねじ込みかけたその時。車両のどこからか、耳をつんざくような金切声。何事だ? 女がスリにでもあったか? 声のする方をチラリと見る。
「大切なお金がない! 大切な十円玉がない! さっきまでこの財布に確かにあったのに!」
細くてかん高い声の主は、女性ではなく、小学校低学年ぐらいの少年だった。血相を変えて自分の財布の中をまさぐり、それから、その場に這いつくばって床にお金が落ちていないか探している。
「誰か、僕の10円玉を知りませんか! 端っこがギザギザになった古い10円玉です! 昭和33年のギザ10です! ねえ、おじさん、ねえ、おばさん、僕のギザ10見ませんでしたか!」
あきらかに混乱した様子の少年が、人混みをかき分け、誰とは無しに声をかけながら、フラフラとこちらに向かって歩いてくる。黙って見ているのが忍びない。でも俺は、少年にどう接して良いか分からないし、そもそも声を掛ける勇気がない。
「盗まれたのかな? 落としたのかな? ねえ、誰か、ギザ10、知りませんか! 昭和33年の10円玉です!」そう叫ぶ少年が、俺の前を通り過ぎて行く。一瞬、少年と目が合う。申し訳ないと思いながらも、かかわりたくないので、俺は、少年から目を逸らす。
「坊や、どうしたの? 何を困っているんだい? おじさんに詳しく話してくれないか?」
するとその時、目の前に立っていたバーコード剥げのメタボのおっさんが、毅然とした態度で少年の肩をポンと叩き、彼を呼び止めたのだ。
「……おじさん。僕ね、大切な10円玉を無くしちゃったんだ」
大人に声を掛けられて安心をしたのか、少年が途端に涙をぽろぽろと流し始めた。泣きながら自分の財布の中身を、メタボのおっさんに見せている。
「おやおや? 見たところ、10円玉なら、お財布の中にたくさん入っているじゃないか」
「僕が無くしたのは、昭和33年のギザ10なんだ。昭和33年のギザ10は2500万枚しか発行されていない、とても希少価値が高いものだって、僕のおじいちゃんが教えてくれたよ」
「なるほど。君は、古銭集めが趣味なのだね」
「違うよ。古銭集めは僕のおじいちゃんの趣味。僕の大好きなおじいちゃんの、ただ一つの趣味なんだ。二年前から寝たきりになっちゃったけど、ずっと欲しがっていた昭和33年のギザ10を見たら、おじいちゃん、きっと元気になると思って。僕、二年間必死で探して。昨日やっと見つけて。今日これからおじいちゃんに届けるところだったのに、それなのに、それなのに……」
感極まった少年が、大声で泣き始めてしまった。止めどなく流れる涙を服の袖で拭こうとして、手にした財布の中身を誤って車内の床にぶちまけてしまう。
その刹那、それまで液晶画面に向かってペコペコと頭を下げていた貧相なサラリーマンが、颯爽と座席から立ち上がり、床に散らばった小銭を黙々と拾い始める。
「さあ、坊や、いったん落ち着こう。ここにお座り」
貧相なサラリーマンは、そう言って、拾い集めた小銭を財布に戻してやり、自分が座っていた席を少年に譲った。
「坊やは、優しい子だね。大好きなおじいちゃんが欲しがっていた10円玉をプレゼントしに行くところだったのね。そうかい、そうかい、その貴重な10円玉を無くしてしまったのだね。それは大変だったね。それはとても悲しいね」
隣に座っていた金歯のおばさんが、鞄からハンカチを取り出して、頬をつたう少年の涙を拭いてあげている。
「だけどね、おばちゃんは、坊やの大切な10円玉は、盗まれたわけでも、落としたわけでもないと思う。恐らく、坊やが、駅で切符を買う時にうっかり使ってしまったのだと思う。だから、坊やの大切な昭和33年のギザ10は、もう二度と坊やのところへは戻ってこないと思う」
金歯のおばちゃんは、少年の気持ちに寄り添ってやりながらも、過度に同情をすることなく、むしろ厳しい現実を少年に突き付けた。
「……どうしよう。僕、どうしたらいいの? もう駄目だ。僕、分からなくなっちゃった。おじいちゃん、ごめんね、おじいちゃん……」
「諦めるな、坊や。ひょっとしたら、おじさん、持っているかも!」
すると、この状況を見かねたメタボのおっさんが、自分の財布の中身を探し始めた。
「確かに、可能性が無いわけでは無いわね!」
こくりと頷いた金歯のおばちゃんも、自分の小銭入れの中身をまさぐっている。
「ええい、こんな時に限って10円玉の持ち合わせがないとは!」
慌てて財布を覗き込んだ貧相なサラリーマンが、膝を叩いて悔しがる。
「この中に、昭和33年のギザ10を持っている人はいませんかー!」
「ない!」
「ないです!」
「探したけど、ありませーん!」
「こっちもないでーす!」
不思議な光景だった。この地下鉄の車両に偶然居合わせた大人たちが、見ず知らずの一人の少年のために、手持ちの財布の中から昭和33年のギザ10を、必死になって探している。少年とそのおじいちゃんに対する大人たちの温かい気持ちが、車内を満たして行く。
「ごめん、坊や、おじさん、持ってねえよ!」
「昭和33年の10円、ありません!」
「残念だけど、ないわ!」
「昭和34年ならあるけど、それじゃ駄目なの?」
しかし、皆の思いとは裏腹に、お目当てのギザ10は、なかなか見つからない。車内に徐々に諦めムードが漂いはじめる。やっぱりかあ。世の中そんなに甘くないかあ。俺は、残念な気持ちでそう悟り、一応この場の空気を読んで、自分の財布の中を確認してみた。
……うっそ。ありましたけど?
「あの~、昭和33年のギザ10なら、ここにあります」
そろりと手を上げて、目の前のメタボのおっさんにそう告げる。俺の声を聞いて、一瞬静まり返った車内が、一気にどよめく。
「はい、どうぞ。この10円玉は、君にあげる。おじいちゃんに、よろしくね」
さっきは逸らした視線を、今度は、しっかりと少年の瞳に合わせて、俺は10円玉をそっと差し出した。
「嬉しいけど、もらえないよ。だってこれは、お兄ちゃんのお金だもの」
「じゃあ、君の財布の中に入っている10円玉一枚と交換をしてくれるかい? あげるんじゃない。交換をするんだ。それなら問題ないだろう?」
「うん! お兄ちゃん、ありがとうね!」
少年と俺が、お互いの10円玉を交換する時、車内の大人たちから割れんばかりの拍手が巻き起こった。恥ずかしい。顔が熱い。俺の顔、今、絶対真っ赤になってるよ~。
おっと、それはさておき、前言撤回。大人は、ダサくなんかない。……いや、ダサい部分も確かにあるのだけれども。それは否めないのだけれども。でもそれを帳消しにするぐらい、大人ってやつは、時にバリ糞カッコいい。
アナウンスが流れ、次の駅に到着をすると、さっきまで一致団結をしていた大人たちが、何事もなかったかのように、それぞれの現実に向かって粛々と行動を開始する。メタボのおっさんも、金歯のおばちゃんも、貧相なサラリーマンも下車をした。入れ替わるように大勢の大人たちが乗り込んで来る。
俺の隣には、さっきまで泣いていた少年。俺に身を寄せるように座り、手の平にのせた昭和33年のギザ10を見詰めて、満面の笑み。
大人になるのも悪くない。そう思った。