18-05 力への依存から、心で戦う道へ
マルヴィラ視点
トッド侯爵邸やエインズフェロー邸からも大分離れた山あい、深い深い森の奥。
舗装のない道を車で揺られ、しばらく進む。
木々のざわめきが次第に濃くなっていく先に――ぽつんと、小さな山小屋が姿を現した。
これが、母さんと私――師匠と弟子として、命を懸けた修行を始める場所。
母さんも、昔ここで修業したらしい。
あの会議のあと、次の日出発かと思ったら。
「時間がないと言ったでしょう。今から、修行に行きます」
母さんがそんなことを言い出した。
でも、私はともかく、母さんは自力で動ける身体じゃない。
トッド侯爵やビゲン大佐から『移動の手配をするから、明朝まで待ってくれ』と言われて、了承せざるを得なかった。
それでも、そんな短い期間でもトッド侯爵がいろいろと手配してくれたらしく、小屋の周囲には医療スタッフや警備の人たちが控えていた。
クレア母さ……いいえ、今はもう、師匠。
彼女は、彼らに向かってきっぱりと言い放った。
「当面、料理人も栄養士も不要です。退いてください」
医師だけは残してくれたけれど、食に関する支援は一切拒絶。
私は、少しだけ不安になった。
その晩から、食事は断たれた。
いきなりの断食。
身体は、戸惑い、叫び、拒絶した。
何も食べないというだけで、こんなにも身体が言うことをきかなくなるなんて。
二日目の朝、目を覚ました瞬間から、すでに身体が重かった。
空腹が、芯から私を蝕む。
動こうとするたびに、頭がくらっと揺れて、視界がにじんだ。
でも、それでも――師匠は、私を座らせ、呼吸を整えさせ、そして立たせた。
何度も言われたのは「力を抜いて」という言葉だった。
力を「抜いた」つもりだった。
でも、それはただ――尽きていただけだった。
私は、今までの戦い方が身体に染みつきすぎていた。
“恵まれた体格とパワーで押し切る”ことに慣れすぎていた私には、
本来の“受け”や“気配を読む”といった技術が、どこかに埋もれてしまっていたのだ。
師匠の技は、本来――どこまでも静かで、速くて、しなやかだった。
あのマクベスの、誰にも見えなかった一撃を“見た”私には、分かる。
私も――その世界に届けるかもしれない。
でも、それにはまず、自分の中の“力に頼る癖”を、根こそぎ捨てなければならない。
私は、空腹に耐えながら、座禅を組み、身体を動かし、何度も受け身を取り、
そしてまた静かに座り直す――そんな日々を繰り返した。
苦しかった。正直、何度も逃げ出したくなった。
でも、私の頭の中には、あの子――メグちゃんの姿が焼き付いていた。
あの子は、歌で、言葉で、真実で帝国中の人の心を揺さぶろうとしている。
その裏で“囮”になって、リオンたちを引き寄せる役を背負おうとしている。
私が……守らなければ。
私が立たなければ、メグちゃんが、あの戦場で死ぬ。
そのことを思い出すたびに、ふらつく足にもう一度力を込めた。
これは、私自身のための修行じゃない。
誰かを守るために――“盾”になる、そのための修行なんだ。
ある夜、私はとうとう、師匠の前で言葉にした。
「私……力に頼ってきた。強い筋肉を使えば、何とかなるって思ってた。
でもそれじゃ、あの人には勝てない……わかってる」
師匠は、静かに私を見つめ返してくれた。
「そう。力と力がぶつかれば、必ず弱い方が壊れる。
今まで、あなたがしてきたことは、それ。
たまたま、あなたより強い相手に出会わなかっただけよ。
ひとたびあなたより力の強いものに出会えばどうなるか……身に染みたはずよ」
師匠の言葉が、胸に突き刺さる。
「あなたが“心で戦う”覚悟を決めたなら、私は全てを教えるわ」
その目は、どこまでも静かで、どこまでも厳しかった。
けれどその奥に、かつて誰かを守るために戦った人の、深い愛情が宿っているのを感じた。
こうして、私の修行が――本当に始まった。
筋肉ではなく、心を鍛える日々。
すべてを削ぎ落として、本当の“強さ”に立ち返るための時間。
そして私は、少しずつ、自分自身の輪郭を見つけていく。
“盾”として、メグの隣に立つために。
その後も、断食は続いていた。
けれど、完全な絶食ではない。
一~二日に一度だけ、師匠――クレアさんは、ほんのひと匙の流動食を与えてくれた。
薄いお粥。味はほとんど感じないほどで、それすらも飲み込むたびに、胃がぎゅうと軋んだ。
「胃を働かせすぎると、身体の感覚が鈍くなる」
師匠はそう言って、必要最小限の栄養だけを与えた。
その言葉は、私の中の何かを揺さぶった。
戦うための身体を作るんじゃない。
感じるための身体を、取り戻すんだ――と。
動くたび、身体のあちこちが軋んだ。
力が入らない。
いや、入れようとしても、空回りするだけだった。
だけど、ある時ふと思った。
これは、最初から「力を使うな」と言われていたのだ、と。
それから始まったのが、“スピード”の訓練だった。
だけど、それは……私の想像と、全く違った。
「早く動こうとするな」と、師匠は言った。
「自分を“動かす”という意識を捨てなさい。
あなたはもう、そこに“いる”。
ただ、その感覚を、身体に教え込むの」
言われたとおりにやろうとしても、最初はまるで分からなかった。
動いたつもりがないのに、身体は遅れて動いていたり、逆に力んでしまったり。
だけどある日、ふとした瞬間。
風の流れが変わった気がして、そちらに意識を向けたとき――
師匠の棒が、私の脇をかすめていた。
自分で“避けた”のではない。
もう、“そこにいた”だけだった。
「今のが、兆しよ」
師匠はそう言って、ほんの少しだけ口元を緩めた。
そして、もう一つ――「感覚」の訓練。
それは、“集中”する訓練ではなかった。
むしろ、“一つに集中しない”ことが鍵だった。
森の音、風の揺らぎ、小動物の気配……。
“全体”を捉え、その中の変化を違和感として気づくために。
感覚のアンテナを張るのではなく、むしろ“解く”。
そうすることで、変化があったときに、その「ズレ」だけがくっきりと浮かび上がる。
訓練中、私はしばしば師匠の姿を見失った。
でも、それは見ようとしすぎていたから。
目で追おうとするから遅れる。
気配に「気づく」ためには、むしろ、心をほどくことが必要だった。
そして、もう一つ。
師匠は、何も言わずに、ときおり私に小石を投げてきた。
最初はすぐに気づき、手で叩き落とした。
ごく自然な反応だった。
けれどある日、師匠に言われた。
「それが、あなたの“癖”よ。
攻撃を“消す”ことしか考えていない。
本当に守る者は、すべてを受け止めたりしない。
受け流すのよ。風のように」
私は、初めて小石を“見送る”という発想に至った。
叩き落とさなくてもいいんだ――そう気づいたとき、何かがふっと軽くなった。
その後も師匠は何も言わず、何度も小石を投げた。
私は試してみた。力を入れず、ただその軌道を見送る。
少し身体をずらすだけで、小石は風のように抜けていく。
……師匠の眉が、ほんのわずかに動いた。
それが、「正解に近づいている」ことを、私に教えてくれた。
私は少しずつ――“削ぎ落とされて”いった。
筋肉が落ちていく。
でも動きは鈍くなるどころか、むしろ鋭くなった。
反応が速くなったのではない。
“待てるようになった”からだ。
必要な瞬間だけ、最小限で動く。
それが、本当のスピードだと、ようやく身体が理解し始めた。
夜の山小屋の縁側で、私は静かに風を感じながら、自分の手を見つめていた。
これは、力を奪うための修行じゃない。
“守るための力”を、掘り起こすための修行。
私の中にあった、ごつごつした岩みたいな「戦いの形」が、少しずつ削られ、研ぎ澄まされていく。
きっと、その先に――師匠が言っていた“奥義”が、あるのだろう。
私は、かすかに笑みを浮かべる。
メグちゃん、待ってて。
あなたがその歌で、言葉で、世界を変えるなら。
私はこの身で――あなたの命と、その想いを、護り抜いてみせる。




