労害
「いらっしゃいませ~どうぞごゆっくりご覧くださいませ~」
服のスーパーマーケットとも称される某大手アパレル店は店の活気に重点を置く。店員が元気に声を出して発売中の服を呼び込めば客はあれよあれよと吸い込まれて手に取るのだそうだ。理想論もいいところである。プチプラのアパレルに来る客が求めていることはコストパフォーマンスに決まっている。それなのに時代遅れも甚だしいこの店はその決まりを忠実に守って笑顔や呼び込みをしょっちゅう僕らアルバイトに注意してくるからみんなすぐにやめていく。僕はここでアルバイトをして3年目になるから周りの大学生に比べたら多少在籍期間は長いけど辞めるに辞められない環境なのだ。実家がこの店から徒歩数分圏内だからプライベートでも仕事帰りの従業員に会うことはたびたびあるし、何より今バイトをやめたところで大学三年生で就活が本格化してすぐにいなくなる人を採用するところはほとんどないだろう。僕のリスクマネージメント能力の低さが露呈した選択であったが、僕は1年目は昇給のために精力的に働いていた。二年目から惰性で働いているのは簡単な理由で、昇給をさせる気がないからだ。声を出しましょう、そうすれば昇給できますよと言われそれを数か月実行して褒められることが多かった。でもそんなのは当たり前だからと言われ突き返された。次は何をすればいいか聞いたところ、店舗の販売方針と合わせていきましょうと言われたからそれに見合った声出しをしたり、セール期間で客がたくさん来るからレジを急いで回そうと努力してレジスピードは店舗トップクラスまで速くなり売り上げに貢献したはずだ。でも次の面談では遅いの一点張りでまた昇給は敵わなかった。なぜ客から直々にクレームをもらっている奴の方が給料が高いんだと聞いても他人を引き合いに出すなと言われた。ここの社員は腐っている。おそらく僕はここの社員に嫌われているのだろうと思い諦めた。
「あれだけ頑張っても正当に評価されないならもういいです。昇給は一切望まないので求められていることの最低限度だけやります。だから僕にこれ以上のことを要求しないでください。」
こうして僕は残りの大学生活ではアルバイトを通じて客の観察に注力することにした。果たして声を出せば本当に客は寄ってくるのか、客は何を見ているのかを自分なりにダラダラと続けている。これが意外と楽しいのだ。この店が掲げている精神論は次々と破られていくし、客と普通にコミュニケーションを取るように切り替えているから気が楽なのだ。
ある日、セール期間だったので客が多く身動きも取りづらい中で少し離れたところから怒号が聞こえてきた。
「靴下はどこに置いてあるんだっ!!!!」
声の主は小汚い身なりの老人だった。女性店員がその男性をエスコートしていたがいかんせん歩くのが遅いから女性店員だけが先に進んでしまいすぐに二人の距離は空いてしまう。僕は店内を歩く進路に男性の進路が被らないようにそっと戦線離脱した。可哀想な店員だ。彼女は騒音レベルの呼び込みをするほどの真面目な子であるから(周りを考えられないバカでもある)あの爺さんの相手も一応やり遂げるのだろう。そんなことを考えながら売り場を彷徨いながら服を畳み始めた。30分ほど経った後だろうか。後ろから野太い声がした。
「おい。ちょっと来てくれよ。」
野太く、バカでかい声だったのでまさかと思って振り返ったらさっきの爺さんだった。一瞬逃げ出したくなったが捕まった以上仕方ない。急いで笑顔を作って対応した。ウエストをその場で測り、サイズが合うジーンズを探して試着室まで同行した。部屋に着くなりカーテンも閉めずにズボンを脱ぎ始めたから急いで部屋から出たらまた叫ぶように話しかけてきた。
「これは丈詰めできんのかよ!!!」
カーテンを開けて見てみると爺さんが履いてきた脱ぎたてホヤホヤのズボンを僕に押し付けるようにしてもう一度同じことを言った。確かにうちの店は丈詰めは私物も預かれるが爺さん曰く私物のズボンとジーンズをどちらも1センチ丈詰めしたいのだそうだ。でもここで問題がある。爺さんは履いて帰るものがなくなるのだ。ここで僕はこの爺さんは重度の痴呆であると確信した。ただ、ボケが回っているからという理由で追い返すこともできないのでその問題を丁寧に伝えたつもりだったが、爺さんは残念なことに耳も遠かった。
「あぁ!?よく聞こえねえんだよ!!!」
試着室を利用していた他の客も騒然としている。どこかの部屋から店員に対する怒号が聞こえてきたら当然みんな怖がるだろう。でも僕は怯んでいても仕方ないので何度も同じことを耳元で叫んだ。根比べみたいになったがそもそも爺さんはボケが回っているから僕の言うことを理解できない上に言っていることが二転三転するのだから地獄のコンボである。爺さんが履いて帰るものに関してはどちらかだけ受け取って帰してしまえばいいと思って適当にやり過ごした。まだ爺さんの口撃は終わらない。
「丈はわかんのかよ!!!」
さっき1センチって言ったじゃんと思いながらその旨を伝えるが同じことの繰り返しになる。すでに5回はよく聞こえないと怒鳴られている。
「今日はよぉ、しょうがねえから来てやったんだよ!」
滅茶苦茶なことを言い始めたのと同時に僕のイライラも最高点に到達したので躍起になって良い人を演じてみた。
「本当ですか!わざわざお越しくださってありがとうございます!」
「おうよ。仲間はいねえし、もう96歳だよ!仲間はみんな戦争で死んじまったよ!!」
聞こえてるんじゃないかと思いながらも、話に乗ってあげることにした。
「戦争はどちらに行かれたんですか?」
「〇〇だよ!あとひと月もいたら俺も死んでたわ!!!」
絶対に聞こえているはずだ…声のボリュームをずっと下げているのに会話が続くのはおかしい…それは聞こえるんかい!と関西芸人ばりのツッコミをお見舞いしたくなった。
結局僕が深々と感謝の礼をして爺さんを試着室から追い出せた。試着室に平穏が戻ってきたことを感じ取ってため息をついたら先輩がグッジョブと肩をたたいてきた。疲れましたと呟きながら内心では助けろよと思ったところで大事なことを思い出した。あの爺さんはこれから会計をするわけだが何も知らない人があのモンスターの接客をしたらまた店内が騒然となる。社員なり誰かに任せればいいのにそれができないのが僕の悪い癖だ。結局爺さんのレジを僕がやる羽目になったのだが爺さんの目を見る限り僕のことを覚えていなさそうだ。その予想通り試着室での注文を一通り大声で繰り返された。爺さんの履いて帰るものがなくなる旨を伝えたらもういいよ!と言ってジーンズだけの丈詰めになった。丈詰めの長さはわかるのかと再び聞いてきたが僕は笑顔でなだめるように大丈夫ですよと何度も言った。それすら聞こえないと怒鳴ってくるのだがなぜ戦争の会話は聞こえたのだろうか。気持ちよくなってたんじゃないだろうか。迷惑なゲストだ。
ようやくレジが終わってまた深々と礼をして顔を上げるとレジに並んでいる客がさらし首でも見るかのような目で僕のことを見ていた。なぜ頑張った人は報われないのだろうか。レジの後ろにいた社員にも礼を一言言われただけであった。助けてくれよと言いたいけど間に入ったところでボケ老人相手に何かできる人なんていないから僕が引き受けたのは間違いではなかったと思う。でもここはエヴァンゲリオンのラストシーンのように社員もバイトも客も僕を囲んで拍手をするシーンではないのだろうか。頑張った人は報われない。感情むき出しにしたり大きな声を出すことは煙たがられる。知的でない人間だというレッテルを知的でない人間が貼るのだから説得力はない。爺さんは「社会から邪魔者扱いされる異物」であり、開き直って話に乗った僕は「変な奴に同調する異物」だ。この世の歯車をなるべく滑らかに回すのは自分を正常な人間だと思っている頑張らない人だ。異物がなければ改善の余地など見つからない。無限ワールドで新しい土地に進もうとしない臆病なプレイヤーはそれなりのレベルで止まる。この店は今日もなるべくスムーズに営業している。みんなが口をそろえていらっしゃいませと言う。