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「ねえ、私のこと知ってる?」
それから随分と長い間、沈黙が降りていた。
そんな中で唐突に漏れた有栖の、全く脈絡もないその問いかけに涼は一瞬目を見開いて胡乱気に有栖の真意を探る。
しかしその全くブレることのない視線に、ややあってから観念したように口を開いた。
「月野有栖、25歳。祖父は月野財閥頭取で現月野グルーブ社長の三女。名門聖マリアンナ女子高等学校を首席卒業し国内随一の大学に入学したが事故による後遺症で学業を修めるのが難しくなったと中途退学。そのまま職も住む場所も転々として、今は雑貨店で雇われ店長をしながら探偵業を勤しむ、なんて……自由気ままが過ぎるだろう」
そう窘めるような言葉とは裏腹に涼の顔は苦笑していた。
有栖は事故の後ただ療養するだけではいられず、自立するためと言いながら家を飛び出した。
定期的に顔を見せることと常に連絡は取れることを条件に両親を納得させたが、記憶が戻ってみればオーナーは忘れてしまった親戚のうちの一人だった。
つまりは最初から両親の監視下だったということだ。
思えば彼が現れたのだって探偵の依頼が増え始めたころで、その監視の目に彼も含まれていたのかもしれない。
依頼は基本的にペット探しや人探し、浮気調査などそれほど危険の伴わないものだったから黙認されていたのだが、思いもよらぬ事件性を含むものもある場合涼が先手を打つようにしていたのだろう。
両親も涼も、職権乱用甚だしい。
何にせよ今回のことでやめさせられるだろうけれど、両親の心情を思えばそれは致し方ないことだった。
覆いかぶさっていた体を起こしはしてもベッドへ腰かけたままの涼に目を向ければ、数時間前までは全くわからなかった彼の素性がすらすらと頭に浮かぶ。
「雨宮涼、28歳。実家は由緒正しき元華族の血筋で、私がリタイアした大学を首席で卒業して警視庁入り。順当にキャリアを積んで最短で昇進、今は警視だっけ?なんて絵にかいたようなエリート!」
「逃げた許嫁はこの経歴のどこが気に入らないんだか」
「事故の後遺症なんだから仕方ないじゃん」
冗談めかしたような有栖の声に合わせて、涼も軽口のように忘れられていたことをちゃかす。
それはもうすっかりといつも通りのやり取りだ。
「私、じっとしてらんないよ」
「知ってる」
「探偵も続けたいなぁ」
「簡単なものなら許してくれるんじゃない?」
「雑貨店も、やめたくない」
「あそこも月野グループの持ち物だから、社長は何も言わないと思うよ」
叩けば響くように有栖の言葉に涼が返すのは記憶を失う前も、後でもっずっと変わらないものだ。
高校生の時に許嫁として紹介されてからも、記憶を失ってからも彼はただの有栖として接してくれていた。
月野グループの娘でもなく、家の決めた許嫁でもなく、月野有栖として扱ってくれていた。
そんな人をどうして忘れていたんだろう。
そう悔やんでも有栖にはどうしようもないことだった。
あの時は感じることのできなかった悔しさと悲しみが今どっと押し寄せたかのように有栖の瞳から涙が溢れた。
それをそっと拭う涼の指も目も優しい。
あの頃一番最初に忘れられたと知らしめられてしまい、部屋の中に入るには入れなかった彼はどんな気持ちで有栖のことを見守っていたのだろう。
一年前に自分の目の前に姿を現した時も、どんな気持ちで自己紹介をしたのだろう。
ずっと固い表情や敬語で接していたのだって彼なりのストッパーのようなものだったんだと崩れ始めた言葉遣いで気が付いた。
ずっとずっと、彼は有栖のことを待っていてくれた。
ごめんなさいと泣く有栖の瞼に柔らかなキスが落とされる。
大丈夫だと言い聞かせるように何度も、何度も。
それは有栖の涙が止まるまでずっと続いた。
カーテンから白み始めた光が入るころになって、ようやく有栖の涙は完全に止まった。
さすがにずっと上体を捩じったような体制でいた涼は体が痛むらしく、立ち上がって背を伸ばしている。
彼はこれからまた署に戻らなくてはいけないらしい。
何でもあの事件の事後処理を無理を言って部下に押し付けてしまったのだと少しだけ申し訳なさそうにする涼に、自分からの謝辞の言葉と後日改めてお礼をする言付けをお願いすれば、そこまでじゃないと困った顔をされてしまった。
この短時間にいろんな顔を見せてくれるようになった涼に、本当にあの他人行儀は歯止めだったのだとその徹底ぶりに感心してしまう。
「ねえ、涼って呼んでいい?」
「…その権利を、貴方はもうずっと前から持ってるよ」
そう微笑みながら涼は有栖の髪を撫でる。
その手つきがとても優しく心地よくて久しぶりに大泣きしたのもあって、有栖の瞼はだんだんと重くなっていく。
「おやすみ、有栖。よい夢を」
その響きは初めて聞くはずなのにとても耳馴染みがよく、有栖は心地よく眠りについたのだった。
終わりみたいな雰囲気ですがもうちょっとだけ続きます。