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「あま、みやさん…」
「月野さん?」
瞬きの間のように切り替わった視界に映るのは見たことのあるような白い天井。
ベッドヘッドの小さな明かりの中で瞬きを繰り返せば、同じようで違うものだとわかり、さっきまでのは夢だったと認識できた。
自分の掠れた声に答える声が聞こえ、そちらに顔を向ければやはりそこには涼の姿があった。
「覚えてますか?ストーカーと対峙して数回蹴られて」
「ああはい。覚えてます。大丈夫です」
大学時代の事故の時と違って事件のこと以外、関わった人間やその他もろもろもはっきりと覚えている。
むしろ目が覚めたようにそれまで思い出せなかった朧げな記憶も明瞭なものになっていた。
覚えてると繰り返す有栖を覗き込む涼の顔は不安げだ。
それは彼女の記憶が不安定であることをよく知っている証拠ともいえる。
あれからそれほど時間は経っていないのか、涼のスーツはそのままで髪もぼさぼさ、シャツはよれてところどころ土に塗れている。
そんな汚れが普段の完全無欠さと似合わなくて思わず笑った有栖を咎めるように一つ睨んでから涼はあの後のことを教えてくれた。
「あなたが意識を失った後、呼んでいた警察が男をあなたへの婦女暴行の現行犯で逮捕しました。余罪としてストーカー規制法違反と脅迫罪についても追及する予定です」
「うん」
「結城さんは抵抗した際に足首をねん挫しただけで他にケガなどはありません。横瀬さんですが、気絶した犯人に対しての行為が少々やりすぎだと過剰防衛の厳重注意を受けましたがそれ以外は何も」
「……そうですか。よかった」
有栖の聞きたいだろうことを簡潔にまとめて話す涼はさすがだ。
一番気になっていた被害者が無傷とは言えなかったのは残念だが、無事であったことに胸を撫でおろしたのもつかの間、先ほどの事務的な声とは違う怒ったような涼の声に現実へと引き戻される。
「よくない。あなたの症状ですが複数箇所への打撲による内出血に左腕と肋骨数本のひび、軽い脳震盪で全治三か月。月野の家から治るまでとは言わないが最低でも一か月は入院しろとの言伝を預かってますよ」
「げっ」
急所を外し受け身を取っていたのでもう少し軽いものだと思っていたが、思ったよりも重症だったことに付け加えて涼が最後に落とした爆弾に有栖の口から思わず嫌悪の声が漏れた。
あの事故以来過保護を増した両親をどうにか言いくるめて自由気ままな生活を送っていたが今回のことで有栖が探偵なんて言う危険な職業を勤しんでいることはバレただろう。
雑貨店の店長だから何も言われずにいたが、探偵なんてやってたことがバレれば即刻実家へと連れ戻されるだろう。
退院後の自分の行く末に行き着いて恨めし気に連絡しただろう涼を睨んでもむしろ逆に睨まれてしまい有栖は委縮してしまった。
「何で一人で動いたんです?」
「何でって」
「あなたにはそれができないのを知っているから、あのまま店で待てとは言いませんでした。でも、どうして見つけた瞬間に通報するとか、僕や横瀬さんを待たなかったんですか?」
「二人が、どこにいるかわからなかったから……」
「どこにいるかわからないなら電話があったでしょう?一人で立ち向かうなんて無謀すぎると何故わからないんですか」
「あの男くらいなら…大丈夫かなっ、て」
その冷静さの中に怒りを湛えた目は怒鳴りつけられるよりも恐ろしいものがある。
しどろもどろになりながら答えても、それは彼の怒りの火に油を注ぐようなもので、段々と彼の語意が強くなっていく。
そうして有栖の最後の言葉についに限界を向かえたのか、ガタンと座っていた椅子が音を立てるのも厭わずに立ち上がった涼はそのまま横になっている有栖へと覆いかぶさった。
「犯人と僕の背格好はほぼ同じ、あなたは打撲に骨折。この状態で犯人が貴方を男だと勘違いしておらず次に出る行動が殴ることではなかったら?もしくは犯人がナイフを隠し持っていたらどうするんです?ストーカーは自分の世界に生きている。その自己中心的な基準に一般人の常識なんて及びはしない!」
自分をもっと大事にしろと責める涼の声はどこか懇願しているようにも聞こえて有栖はギブスのない右手で前髪で隠れる涼の目尻を撫でた。
さすがに泣いてはいなかったが、それでももう長いことずっと彼を心配させていたのだと気が付いた。
ごめんなさいと素直に零れた謝罪の言葉に、涼も自身の気を沈めるように深く吐息を吐き出した。