9. 愛する人の笑顔を求めて尽くすのは、そんなに変なことでしょうか。
雪狼の群れは腹を減らしていたようで、昼の白日で目を覚まし、彼女に伴って狩りへ出ます。
遠吠えを交わす雪狼たちに、目配せで指示する彼女。
私と彼女は鹿の成体が草を食むのを見つけていました。
「ダンジョンとして腕の見せどころですね。手伝いましょう」
とんだ災難ですが、彼女に作る美味しいご飯のため、鹿さんには犠牲になってもらいます。
後ろから追い込む下位と、前に回り込む上位の雪狼たち。ついで逃げ道を塞ぐ壁。待ち伏せしていた彼女は木の上から飛び降りて、鹿の首筋を切り裂きます。
まだ息のある鹿にナイフを振り上げ、彼女はトドメを刺しました。
「さすがと言いますか、狩りのセンスが抜群に良いのですね」
無駄がない一連の行為には、畏敬の念すら覚えます。
寄生虫やウイルスの危険がある生食は雪狼にも避けさせたいのです、が。
彼女は群れの空腹を感じ取り、背ロースを一切れ切り取って掲げます。
「……いずれ虫下しでも与えましょう」
それはさておき、鹿の背ロースはきめ細かい赤身が多く、脂質が少ないので、人間向きな食材です。いつもの如く吸収させていただきました。彼女がよしと頷くと、彼らは食事に取り掛かります。
この量なら最下位のオメガにも行き渡るでしょう。
「にしても、鹿肉ですか。調理経験はありませんが、ステーキが美味しそうですね」
味をつけて焼いて、岩塩と胡椒を振るだけでも美味しく仕上がりそうです。
でも、この固い肉質では、臭み抜きや味付けに長時間の仕込みが必要そうです。
……仕方ありませんね。鹿肉は仕込みに回し、今ある食材で調理してしまいましょう。
「牛肉のステーキは好んで食べて下さいましたし、牛肉で一品作りましょうか」
料理酒に浸けていた牛肉を氷室から出し、一食分を薄切りにしました。白ワインを少量加えて戻します。白米を茶碗一杯分だけ炊き、いよいよ作業は大詰め。
炊き上がりに合わせて調理に取り掛かります。
「いや、手がかかりますね。数食分纏めて作ってしまえばよかったかも……」
手間暇かけても体力は消耗しませんが、精神的に疲れてきます。
洗った玉葱とマッシュルームを細く刻み、先にバターと玉葱を投入してフライパンで炒めます。いっぺんに入れないのは、火の通る速度が違うからです。
玉葱が綺麗な飴色になるまで炒めて、薄切りの牛肉とマッシュルームを追加。
「これくらいで良いでしょうか」
肉に火が通るのを目安に、牛乳やブイヨンを溶かして煮詰めたコンソメ、薄力粉などを適量加え、煮立てます。
料理の名前はホワイトビーフストロガノフです。
仕込みに手間がかかるお料理で、前世では気力のあるときに作っていました。
おっと、大分煮えてきましたね。ここでサワークリームを投入。匂いはわかりませんが、分析して見た限り間違いありません。これを馴染ませて、よし。
「完成です! ……食べられないのが残念ですね、美味しそうなのに」
これで家庭的の称号は待ったなしです。彼女の胃袋を掴んで離しません。
お皿にご飯を丸く盛って、フライパンの中身をそっと注ぎます。
「さて、吸収っと。ふふ、お待たせしました」
分析では『ホワイトビーフストロガノフ。とても美味しい』とあります。
満足できる味のようです。批評を受けずに済んで本当に良かった。
飢えた彼女は、設置したそれに喰らいつきました。
三分の一も食べ進んだところで、思惑通りに蕩けた表情で魅せてくれます。
戯れあう雪狼の仔を眺めながら、彼女は筆を執りました。
『ごはん ありがとう お話しても いい?』
彼女が真摯に天を見上げるもので、私は是を返します。
『ありがとう ちょっとずつでも 聞いてくれたら』
自嘲の色が宿る目を冊子に落とし、彼女は書き綴ります。
『例えば』
で、話は始まりました。
『……他と違うからって 嫌がらせ とか 迫害 されても それでも』
冊子の文字は、徐々にページを縒れさせて弱々しい筆致になっていきます。
ときおり思い返すように飛ぶ目線を見逃せませんでした。
『——大切なものを守るなら 耐えれなきゃ いけなかった?』
言及しませんが、きっと彼女か近親者の経験談です。
ただの例え話といった語り口ではありません。
でも、何れにしたってどう返すかは決まっていました。
「いいえ、私は耐えられませんでしたよ」
言葉通りに返答します。
彼女はその一文に俯きました。
私は嫌がらせをされた訳でも、迫害された訳でもありません。
自殺へ踏み切るに至ったのは、信頼していた友人に裏切られ、他ならぬ想い人からレズビアンであることへの激しい否定と拒絶を受けた所にあると思うのです。
ふと、自分の滑稽さに気が付き、苦笑しました。
「いや、なにしてるんでしょうね。知らない子を相手に、はは」
ただの気の迷いで、ここまで気分が浮き沈みするのですね。
前世の想い人には『気の迷いだよね』やら『××がレズなわけないじゃん』と言われました。それに甘んじ頷けば、私は今も彼女の傍にいれたかも知れないのです。
気の迷い。……本当に? 男性を恋人にとは一度も思えなかったのに。
更衣室で裸体に逆上せ上がったのも、相手は常に女性なのです。
砂糖菓子を舌で転がすような懸想や胸の高鳴りも、前世で仲の良かった幼馴染にだけ。
巷では恋愛を鼓動や心臓で表しますが、人外となった今や心拍から想いの丈は測れません。
「愛する人の笑顔を求めて尽くすのは、そんなに変なことでしょうか」
それでも確かに、潤んだ目元でも相変わらずくっきりと映る彼女に、胸の底で疼く燻りを認めました。これが思慕でないとしたら、いったい何なのでしょうか。
俯くのをやめた彼女。震えた文体からは、一文字も漏らさず読み取れます。
『耐えれなかったせいで 家族が 殺されても?』
見えないと知っていて、つい頷きました。
冊子に落ちた涙を拭って、苦しさを嚙み殺してなんとか笑みを取り繕う彼女。
雪狼たちがわらわらと集い、頰に伝う涙を舐めとったり膝の上に寝転がったりとありとあらゆる手で慰めます。
「私に家族はいないもので、よくわかりません。ごめんなさい」
生きる糧は、幼馴染ひとりだったのです。同じ養護施設から、小中高を同じ学校に通いました。
引き取り手のいない私が同じ大学に進学できたのも、奨学金制度と彼女への想いがあったからです。
彼女に拒絶されたとき、私には世界の全てがどうでも良く映りました。
死んで迷惑をかける両親はおらず、愛する彼女にも嫌われ。
——ああ、せめて恋した人が、私を嫌わずいてくれれば。
とたん思い出した、崖から落ちる走馬灯。人生最期の願いは、それひとつでした。
・虫下し(※1)
駆虫薬とも。寄生虫を殺したり体外へ排出するのに用いられる薬のこと。