1. 打ち捨てられた街でひとときを
筆談ではしづらかった、他愛のない雑談。
父との想い出を一通り語り終えると、アルツェは哀しそうな表情を浮かべます。
傾聴していれば、彼は魔族に慕われており、統治者としても優秀だったことが伺えました。そんな魔王と事を構えた『勇者』の行動原理が理解できません。
一体、なんの恨みがあったのでしょうか。
「にしてもシオンは公用語が丁寧だね、私とは大違い」
「公用語、ですか」
繰り返すと、彼女は冊子に私が名付けた『古代文字』を数語連ねます。
「うん、こっちが旧公用語。魔族と人族が交わり始めた頃に作られたんだって」
「旧公用語と公用語に違いはあるのでしょうか?」
彼女はちょっとだけ悩んで、こくりと頷きます。
「文字の上ではね。でも、喋る分には今も昔も大差ないよ。旧公用語は言い回しが難しいだけ」
ふっと苦笑します。旧公用語は使いこなせているようですが、彼女を困らせないように今どきの公用語を覚えておきましょう。
この言葉遣いは魂に染み付いていますが、言い回しなら修正が効きます。
「今更ですけれど、どうして私は旧公用語を使えるんでしょう。ダンジョンの七不思議のひとつに加えたいくらい気になります」
「な、ななふしぎ?」
ぱちぱちと何度か瞬きを繰り返し、アルツェは首を傾げます。
「……ごほん、きっと初代魔王さまが計らってくれたんだろうね」
「初代魔王さま?」
アルツェの目には憧れが宿されており、何度か誇らしげに頷きます。
「多くの偉業を成し遂げた、凄いお方なんだよ。ここは細部まで丁寧に作り込まれてるし、今まで一度も踏破されてない。ダンジョン作りも手掛けていたと伝承に残っているくらいだし、もしかしたらシオンはあのお方の最高傑作なのかも!」
目をしきりに輝かせ、一息で言い切ったアルツェ。ダンジョン研究へ注ぐ情熱と肩を並べる勢いです。
私は彼女の手の甲を包むように、自分の手を重ねます。
「あ、アルツェ? あの……」
「——あっ」
ぼんと小さな爆発音を錯覚するくらいには、一気に顔を赤くしてしまわれました。這わされていた手が、ずるりと下がります。
頰に張り付いていた柔らかな感触が惜しくて、とてもむず痒い気持ちです。
「これは、つい夢中に……」
陶酔していた視線は逸らされ、今や落ち着きなくあちこちを行き来します。そうして指先までが桜色に染まったアルツェ。
彼女の手首を掴み、身を乗り出したとき。
気の抜けた、くぅ、と腹がなるような音がしました。
「お腹、空いちゃった」
恥ずかしげに俯くアルツェ。
本能に忠実ですね、そんなところも可愛らしいと思いますよ。
ええ、腕に縒りを掛けて作りますと——
「シオンに作らせてばかりも何だから、私が料理してみてもいいかな?」
——えっ。
待ってください、料理できるなんて聞いてませんよ?
でも、アルツェが厨房に立つのはきっと絵になる光景です。
私がそんな幸運を逃せる筈もなく、既に調理場へ移動する段取りについて検討し始めていました。
「シオン?」
料理するなら、いつもの厨房でしょう。
あそこまではかなりの距離がありますし、ここはダンジョンであるアドバンテージを活かし、アルツェに格好の良い姿を見せる絶好の機会です。
「ねぇシオン、どうし——」
「失礼しますね」
一言断ると、アルツェは首を傾げます。そんな彼女を後ろから抱き締めました。
「えっあっ、何してるの、シオンっ!?」
驚きより羞恥が上回る彼女を余所目に、円状のエレベーターが完成します。押し上げるだけですから、さしたる苦労もしておりません。
私の方が背丈は高いのに、いつもアルツェにリードされてばかり。たまには抱き締めるのも悪くないですね。
「ふふっ、いきますよー!」
床がせり上がり、私たちを上へと運んでいきます。
この速度が真新しい感覚で、なんだか楽しくなってきました。
もっと飛ばそうかと考えていると、彼女の背に回した手に重量が伝わってきます。
「待ってシオン、これは酔っちゃう……」
アルツェは私に身を任せ、すっかり蒼白な顔をしていたのです。
ふらつく彼女に、慌てて速度を緩めました。
「ご、ごめんなさい。こうして外に出るのは初めてで、つい」
「シオンは我儘を聞いてくれただけなんだから、そんなの気にしなくていいよ……うぷっ」
目的のフロアまで着いたら新鮮な空気を吸わせましょう。
打ち捨てられた街のフロアに到着したとき、そこは広場でした。
私は彼女を後ろ抱きにしたまま、ベンチに座ります。
「無理せず休んでくださいね、アルツェ。今休むなら膝枕つきです」
「シオンー、甘やかされると付け上がっちゃうよ」
「存分に甘えてくださって良いんですよ、これくらい可愛いものです」
タオルを敷いた膝を貸してやり、背凭れに全体重を委ね力を抜きました。
喋らずにそうしていると、いろんな音が耳に入ってきます。
「壮観ですね、鳥の囀る声だけでなく魔物の吼える声も聞こえてくるのは」
今までは音を拾えなかったので、感じる全てが新鮮なのです。
人間の悲鳴も、大自然の一端と思えばそう煩くもないですし。
「シオンは達観しすぎじゃないかな」
「毎日命がけの戦いを眺めていればこうもなりますよ……」
私は遠い目で今も各所で起こる戦いから意識を反らします。
お陰様で人死にや流血沙汰に動揺すらしなくなってしまいました。
まあ、アルツェは別枠ですが。
「それは……うん、シオンも苦労してるんだね」
アルツェが労ってくれたのが嬉しくて、顎下を擽ぐるように撫でてお返しします。
するとふにゃりと表情が崩れ、気持ちよさそうに擦り寄ってくれました。
「アルツェはいつも可愛いですね」
「なっ……んぅ」
「ほっぺたをもちもちしたいです」
「んん、なやむ」
「えっ、ダメなんですか?」
わざとしおらしく落ち込んでみせます。
彼女の頰をふにるためには、女優になるのも厭いません。
「し、してもいいよ?」
彼女の許可が下りました。
つきたてのお餅のように柔らかい頰をふにふにとつまみ、その感触を楽しみます。
「……んむぅ」
この会話からは牧歌的な光景が想起されるでしょうが、遠くでは怒号や遠吠えが飛び交っています。浅層でもダンジョン。ここで息絶える者は数多くいます。
酔いが治ってきたのか、アルツェは両手を広げて抱擁を所望していらっしゃいます。
「そろそろ行こう、あの子たちも待ってるし」
単に体勢を立て直したかっただけですか、そうですか……。
私が手を貸すと、彼女は立って大きく息を吸い込みます。
「あの子たち? ……雪狼の群れのことですか」
彼女は頷き、座ったままの私に手を差し伸べます。小さく頼りない手ですが、掴んでみれば力強く引っ張られてしまいました。
最下層で強敵と渡り合うだけはあります。
「ご飯は私が作るから、あの子たちに出してくれるかな?」
「もちろん、アルツェの配下ですからね。それくらいお安いご用ですよ」
その手を引いて、レストランまで案内します。私は全方位から見えるので、まず迷いません。その上壁に穴を空けたりとショートカットを繰り返せば、数分もせず到着してしまいました。
レストランの厨房で、アルツェは呆然と全てを見渡します。
「う」
「う?」
「うわああっ、すごい! すごいよシオン!」
興味の赴くままに一通りの器具を手に取り眺めると、今度は燻製機や耐火煉瓦の積まれた窯などの専用設備に視線が移りました。
父親譲りの研究者肌が為せる業か、知的好奇心がとても強いようです。
「どれも手入れが行き届いているし、こんな調理設備まであるなんて……」
ため息を漏らしたアルツェは、感激のあまり言葉を失っていました。
黙って大鍋を棚から引きずり出し、壁に取り付けられたフックから大振りな包丁とお玉杓子を厨房のワークトップに並べます。
彼女は私を振り返り、口を開きました。
「シオン、鳥肉か兎肉、あとは香草、食用油はある?」
ざっと吸収して備蓄してある食料品を確認しますが、肉類のストックは乏しい傾向にあります。野菜であれば、樽詰めできるくらいあるのですが。
「香草と食用油はありますが、鳥肉や兎肉はちょっと。……牛肉ならあるんですが」
「むぅ、それは残念だね。故郷の郷土料理を作ろうと思っていたのに」
せっかくのレシピを作れないのは辛いですね。
料理好きの誼で、ここはひとつ、教えておきましょう。
「ここは浅層ですから、外になら鳥が飛んでいますよ」
彼女はばっと顔をあげました。
「狩ってくるね、シオン!」
「アルツェ。私の手助けがないと狩りにくいのではありませんか?」
空の生き物を狩るのですから、特に足場が重要なはずです。
「大丈夫だよ、ほら」
アルツェはレストランから足を踏み出すと、変化しました。
変化したのは何なのか、ですか?
「だって私、龍人だから空は飛べるし」
——白龍です。それも、愛嬌のある円らな瞳に、大きく無垢な翼の。
やはり美少女は龍でもかわ……待って下さい、色々とおかしくはありませんか?
質量保存の法則はどこにいったんです。
ああ、魔法なんていう不思議な力が当たり前の世界では今更ですね。
「そう、ですか……」
とりあえず可愛いのでいいでしょう。可愛いは正義です。
天使や女神と思っていた彼女が龍に変化したとて、彼女に違いありません。
ですから私は、思考を放棄することにしたのです。
「……龍のアルツェも頬擦りしたいくらい可愛いですね」
図体の割に小さい角の白龍は、大きな翼を広げ、空に舞い上がりました。