13. 『暗くて寂しいから、ついてきて欲しいな』
一晩と少し香草と赤ワインに漬け込んで置いた鹿肉のステーキを頬張りながら、アルツェは体の震えを取っていました。温かな食事はいつだって安心感を齎してくれるのです。
ほっと一息をついた彼女の膝に丸まる、幼い雪狼がくぁと欠伸をひとつ。
「かわいい、すき……んぅ」
一方私といえば、語彙力を失って脳死でアルツェに癒されていました。
背中合わせに座り込み、恋人つなぎで指先同士を絡めてくる彼女。ですが、分身体は十割が雪で占められているのです。体を冷やして風邪を引かないか心配ですね。
それ以前に私の理性は死に瀕していますが、幸せなので何ら問題ありませんとも。
「いけませんね、このままではダメなダンジョンになってしまいます。会えればアルツェをいっぱい抱き締められるのに」
穴の周囲を封鎖し、魔物たちと出くわさないように取り計らいます。しかし今回は探索を行うため、全面封鎖すれば良いというものではないのです。
にも関わらず、彼女には太刀打ちできないような強力な魔物が生息しています。
「『あともう少しで終わりますから、待っていて下さいね』」
彼らの隔離に集中すると、アルツェは配下に待機するよう命じているところでした。
「えっ」
私はアルツェの行動が不可解でなりませんでした。
とん、と床を蹴った彼女は、微笑を浮かべて飛び降りたのです。
「ま、待ってください、アルツェっ!」
アルツェの髪を巻き上げ、頰とマフラーを撫ぜる風。
まるで妖精の舞いを見るようで、いつもならば見惚れている所です。焦って集中を途切れさせたことで、灼熱のフロアの分身体は崩壊してしまいます。
彼女は私の心配を笑うように、中空で少しずつ減速し、ついには浮遊しました。
「はあぁ、何しているんですか」
そっと薄暗い最下層へ足をつけたアルツェに、私は深くため息を吐きます。
「本当、すっかり肝を冷やしましたよ」
考えなしの行為ではないのでしょう。それにしたって、やることなすこと弾丸のようです。
「——せめて事前に説明の一言でも頂けないでしょうか、アルツェ。これでは心配で夜も眠れません。いえ、元々寝れないんですけれど、ね」
私は彼女を信じていますが、愛情を注ぐ故に心配してしまうのです。
『暗くて寂しいから、ついてきて欲しいな』
肌身離さず持っている冊子の余白を使って、アルツェは意思を伝えます。
怖い、と書き掛けた文字は黒塗りされてしまいましたが、笑いませんよ。
私は最下層に新しく分身体を作り上げます。そして、手を差し出しました。
「ほら、繋いでおけば安心でしょう?」
恋人繋ぎは照れてしまいますが、それだけでアルツェの表情から険がとれたのに、背伸びした幼さを感じます。
もう一方の手を壁に当てる彼女と数十分ほど歩き、ついにそのときは来ました。
フロアに蔓延る魔物を避けて進むうち、彼女は広間の中心で足を止め、床に膝をつきます。この広間は暗視が効かず、いつだって暗闇に呑まれていて、少々不気味ですね。
「うっ……」
視界の中で何かが蠢いたようで、私は背筋に悪寒を覚えたのです。
ダンジョン内において私に見えない場所はありません。……少なくとも、これまでは。
しかし、影に潜る魔物がいたならどうでしょう。壁の表面が魔物によって覆われていることで、視界を遮る要因となりえるのです。
「そんなことはないと、願いたいのですが」
四方に光を放つ結晶体を再設置し、アルツェの視界を確保します。
視界から何かが剥がれ落ち、ひゅ、と私の喉から悲鳴にならない吐息が漏れました。
床には名状しがたい宵闇色の物体がずるりと落ち、本来の形を取り戻します。それの背からは王者の風格を匂わせる翼が大きく広がりました。
広間を満たすほどの図体を持つ、巨大な竜。それが魔物の正体だったのです。
数秒ほど目を眩すような光に固まっていましたが、竜は侵入者を仕留めようと鋭い鉤爪を振り上げます。アルツェの受け流せる攻撃ではありません。
咄嗟に壁を伸ばして防げば、竜は形をなくして影に吸い込まれていきます。
「警戒を」
身振りでそう伝えると、周囲を探りながらこくりと頷くアルツェ。
その瞬間、影を介して彼女の足下から牙を覗かせる竜の姿が映りました。
『やば』
それだけが彼女の口元の動きから読み取れたのです。
回避に全力を投じたことで、辛うじて致命傷は避けられました。
掠っただけで脇腹が抉れる、途方も無い威力。
それを目の当たりにした私は、背筋が凍りつくかのようでした。
どれだけ力量差のある難敵だとしても、アルツェを失うなんて考えられません。
歯を食い縛って、槍のような壁を竜に乱発します。
遠くの影に飛び移った様子から、どうやら追撃は免れたようでした。
その隙にアルツェに駆け寄り、彼女に与えたポーションを口に注ぎます。
「起きて、アルツェ……!」
アルツェは痛みに蹌踉めき、ぐいっと飲み干した空の瓶を投げ捨てました。
影に潜る竜と、肉体を持つ獣とを比べると、その差は明らかです。
物理干渉の無効化を持つネックレスで防げるか、防げないか。
となると、竜の攻撃は物理攻撃に属さないのでしょう。
繰り出す攻撃は全て魔法に等しいと考えた方が良いかもしれません。
「撤退させなきゃ。——いえ、無理です、ね……」
口に出しかけた策が、叶いそうにないと知ります。
影に潜んだり出たりを自在とする竜です。
再設置や区画の移動にもそれを分断するほどの速度がありません。
ですから、分断しようとすればするほど、彼女の行動範囲を制限するだけになります。
「私がアルツェを守らなくては」
わずか数秒の思考を終え、吸収していた短剣を分身体に構えさせました。
背中を任せてくれたアルツェは、ナイフ片手に何かを詠唱します。すると、ナイフを中心に魔法陣が展開し、強烈な閃光が散りました。
竜が目を瞑ったタイミングを狙って、彼女はその体表まで踏み込みます。
彼女のナイフは光をまとい、逃げ場を失った竜の体を大きく切り裂きました。
傷口から鮮血は流れず、代わりに空気より重い瘴気のようなものが零れ出ます。
私もアルツェに倣ってその体を駆け上がり、根元から右翼を切り落としました。苦痛に咆哮する竜は、侵入者を弾き飛ばそうと身体中を揺さぶり動かします。
いわば最期の足掻きで振り回された尻尾は、彼女を叩きのめそうと眼前に迫っていました。
——アルツェを死なせるわけにはいきません。
気付けば竜から飛び降り、身を挺してアルツェを守っていました。重量のある攻撃に短剣は折れ、殺し切れない衝撃を諸に受けた分身体も崩れていきます。
分身体など、いくら壊れたって良いのです。彼女は壊れたら戻らないのですから。
床に突き刺さったナイフは、竜の首を両断していました。
肩で息をするアルツェは、影を散らして溶ける竜を眺めます。
私も張り詰めた緊張が解け、ぐったりと寝転がっていました。
「ふ、ふふ」
アルツェは強かですね。到底敵わない格の竜にさえ打ち勝ってしまいました。
いいえ、これでも感激しているんですよ。美しく可愛く賢く、更には強いだなんて、やっぱり天使じゃないんですか。いえ、女神でしたっけ。
彼女は仰向けに倒れると、ゆっくり口を動かしました。
『うごけないや』
「あれだけの大立ち回りをしたんです、当然でしょう」
私の独り言は聞こえていないはずなのに、彼女はくすくすと笑います。
どうやら二人ともお疲れ気味ですね。
「もう少しだけ休んでも良いですか?」
何故だか、こうしているのも心地が良いのです。