プロローグ
己の腕の中でその女は息を引き取った。守れたはずの命はもはや完全に失われ、肉と糞尿が詰まった肉塊だけがあとに残った。
そんな彼の周りは火の海になっていた。少し前までその町は平穏とは決して言えないがそれでも人々が営んでいたのに、今では燃え盛る炎のごうごうという音とあと少しで守れたはずの人々の悲鳴とうめき声だけが響き渡る地獄のような光景が広がるばかりだった。
耳元で必死に彼が、自らに道を示してくれた仲間が必死になって呼びかけているのが聞こえたが、それもどこか遠くの出来事のようで、ひどく現実味がなかった。
自らの腕の中で息を引き取った女の亡骸を見て、彼はこれはひどく質の悪い冗談で、自分はまだ拠点の中にいて、その中で寝ているのではないかと思おうとした。
だがこの腕の中の重みが、彼を否が応でも現実に引き戻した。その躯のうつろな表情が、自分に目をそらすなと訴えかけてきているように思えた。
その訴えをはらんだ躯のせいで彼は嫌が応にも現実に引き戻された。この地獄は自分のミスによって引き起こされた事態なのだということを。
彼は天を仰いだ。
天は炎から発せられる黒煙によって遮られ、真っ黒に染まっていた。さっきまでは昼だと訴えても誰も信じられないだろうとぼんやりとした働かない頭で思った。
どうしてこうなった?なんでこうなった?
次第に頭の中で訪れるのはどうしてこうなったのだろうという疑問だった。
彼は空いている手で顔を覆った。まるでこの現実を受け入れたくないとでもいうように。
それが、今の彼にできる精一杯の現実への抵抗であった。
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上井健斗は登校時間ぎりぎりまでの間コミックブックを読んでいた。それは一般的に日本で普及しているコンパクトな漫画本ではなく、大きめで薄い、いわゆるアメコミといわれる、をダラダラと呼んでいた。
だがいい加減にしろとばかりに彼の親はコミックブックを取り上げ、健斗に早く学校へ行けと怒鳴った。
健斗は渋々といったように立ち上がり、そそくさと学校へ向かっていった。
学校へはすぐについた。これが彼が登校時間ぎりぎりまで家で粘っていた理由だ。遅刻ギリギリまで本を読んでたって遅刻しなければそれでいいじゃないかというのが彼の持論だったが、親にはいつも真面目になれ、と一蹴されていた。
門が閉まるギリギリでなかへ滑り込みながら、彼は真面目って何だろうと靴を上履きに履き替えながら考えてみた。
履き替えて廊下を歩きだしたときには真面目について考えていたが、教室に着くころには家で読んでたコミックのことに思考が切り替わっていた。
教室の扉を開け、中を見渡す。
案の定自分の机の前に憎たらしい笑みを浮かべた二人組がこちらを見ていた。
「よう!上井!相変わらず辛気臭い顔してんな?ニュースでやってた殺人事件あったじゃん?あれの被害者お前ならよかったのにな!」
「ブフッ!加間ちゃんヒドスギwwwww」
そう言って二人は彼を指さしてゲラゲラと笑った。
クラス内のだれもがそのゲラゲラと笑う二人に目を合わせないようにしていた。
健斗のことを馬鹿にした少年は加間犬助、この男は筋金入りの不良で、中学生のころに同級生に暴行事件を起こして少年院にぶち込まれていた。さらにこの男は厄介なことにそのことを全く反省しておらず、さもそれを武勇伝のように語っており学校中の生徒に恐れられていた。
加間の横で便乗して笑った男は部座丸尾、この男はひょろひょろとした細身でいかにも根暗といった言葉が似合いそうな男で、健斗よりよほどこういう目に合いそうな外見をしていた。
それなのに加間の横にいるのは、この男は強いものに媚を売るのが少しはうまかった。その憎たらしい才能をうまく使い加間に取り入ったのだ。そのおかげで今では彼の太鼓持ちという大役を担っていた。
健斗は加間に便乗して狂ったように笑う部座を見て、まるで猛獣の影からこちらをあざ笑う一匹のドブネズミのようだと思った。
彼は加間に聞こえないように小さく舌打ちして、馬鹿な二人を無視して肩にかけた鞄を机に置こうとして自分の机に近寄った。
すかさず愚か者二人がその歩みを妨害してきた。
「お~なんだよつれない奴だなぁ。おいなんか言えよ~」
「怒った?怒っちゃったかな~wwwww」
困った笑みを浮かべながらどうにか目の前に立ちふさがる二人の絡みを抜け出そうともがきながら、この二人に絡まれるようになった原因を思い出そうとした。
彼は現在高校二年生になるが、このクラスに友達はいなかった。一年のころの友達は全員別のクラスに行ってしまい、顔見知りすらこのクラスにはいなかった。
それでも自分は波風立てないように対応してきたはずだった。話しかけられない限り誰とも会話していないのだから普通は空気のような扱いになるはずだった。
気が付けばいつの間にかこの二人に絡まれるようになり、ついには今このように誰も助け船を出さないことをいいことに助長したカス二人にいびられる毎日を送るようになっていたのだ。
こんな風にただ悪口を言ってくるだけならまだかわいいほうで、酷いときには痣ができるまで暴力を振るわれることもあった。
「無視してんじゃねぇ!」
「ぐえっ!?」
何の反応もしない健斗に苛立ったのか、加間は胸ぐらをつかんできた。
彼は助けを求めるように周りを見渡すが、いつものように誰も彼に目を合わせないように友達と話したりさも真剣に本を読んでいるように振舞っていた。
薄情者どもが!彼は心の中で必死に目をそらしてかかわらないようにしているクラスメイトたちを非難した。なにそれっぽく本なんか読んでんだ!お前ら普段そんなもの読みもしないくせにこんな時だけ読んでるフリなんてしてんじゃねぇ!どうせ本の内容なんてお前らの空っぽの脳みそなんかじゃ読み解きゃできねぇよ!
健斗の胸ぐらをつかんだ加間はそのまま、空いているほうの手を握って振りかぶる態勢を作った。
殴られる!反射的に目をつぶって身構えた彼だが、彼の背後から聞こえた鋭い静止の言葉によりそれは杞憂に終わった。
「んだよいいとこで水差しやがって…」
「そうだ!生意気だぞ!」
「加間!部座!」
加間の暴行をすんでのところで止めさせた少年は光勇。端正な顔立ち、高い身体能力、やさしい性格とまるで物語の主人公のような少年であった。
この男は加間の行為を唯一止めることができる男として知られており、その容姿も相まって、まるで騎士のようだと女子に非常に人気があった。現に加間たちをしかりつけている光に熱っぽい視線を浴びせている女子生徒がたくさんいた。さっきまで知らぬ存ぜぬだったのにもかかわらずだ。
加間にぞんざいに足元に放り出され、ゲホゲホとむせていると、ある女子生徒が彼に手を貸して優い手つきで立ち上がるのを手伝ってくれた。
「ごほっ…、ああ、どうも」
「大丈夫?ケガはない上田君?」
この少女は滝沢愛優。彼女も光と同じように眉目秀麗、成績優秀な女性ならば誰もがうらやむようなものを彼女は備えていた。
その上彼女は正義感が高く、健斗が加間に絡まれているのを発見したら請け負っている仕事をほっぽり出してまで助けてくれるのだった。
彼女がかかわってくると加間は健斗のことをほっぽりだし彼女に言い寄るのに夢中になり彼から注意を外すので、彼には非常にありがたがれていた。この不良は滝沢に惚れているのだ。
そんな学校中ですさまじい人気を誇る彼女とそういう理由でかかわることが多い彼は、そのせいで彼女を陰から見守っていると自称している集団に目の敵にされていた。
彼らの言い分は見守っているからこそ自分たちのような者たちこそ彼女にかかわるべきで、お前のようなオタクが関わっているのはおかしいというものを倒れてうずくまる健斗に言っていたものだ。その中には部座と加間も含まれる。
「加間君!また上田君にこんなことして!」
「おほ~!愛優ちゃん!おはよう!」
「滝沢さん今日もきれいですね!加間さん!」
彼女は彼に怪我がないことを確認して、それから加間に食って掛かった。だがそれも加間には一切届かず、いつものようにナンパまがいな言い方で彼女に話しかけた。
そこに光も加わり始め、いつものように言い合いが始まった。この光景はほぼ毎朝行われており、クラスメイト達もヤジを飛ばして囃し立てる者もいれば光に対しての声援を送る生徒、健斗に罵声を送る生徒がちらほらいた。
何とか四人の言い合いから抜け出した彼は机に荷物をかけ、椅子に座ろうとして襟をつかまれ、口論の場に引きずり戻された。引き戻したのは部座だった。
そして口論の中に戻され、加間に脅しの言葉を浴びせられながらいつものように思う。ああ、世界なんて滅んでしまえばいいのに、と。
むろん本当に世界が滅べばいいと願っているわけではなく、あえていえば現状が変わってくれればいいという願いを込めてそう考えているのだ。
目の前で繰り広げられる憎たらしい男と殺してやりたいほど憎む男と嫉妬で狂いそうになる男と高根の花の女の口論。
それを見ながらもう一度思った。世界なんて滅んでしまえばいい、と。
そう思った瞬間、彼の世界に異変が起こった。
彼ら以外の色を残してほかのすべての色が失われ、風景がまるでノイズがかったように不明瞭となった。
突然の変化に五人は驚き、あるものは罵声を発し、あるものは震えて縮こまり、あるものは原因を探ろうとし、あるものはあるものに近寄り疑問の言葉を口にした。
目の前で困惑と恐怖に染まった顔をした女の顔を見て、健斗はついに自分の言っていたことが現実になったのではなかという懸念に襲われたが、そんなことを思うよりも先に彼の視界と意識は真っ白に染め上げられた。
彼らが消えるのと世界の異変が収まるのは全く同時だった。