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命の意味を、知りたいですか?  作者: 行世長旅
4/6

神様に誘われた少年

 翌金曜日。


 いつも以上に長く感じる授業を聞き流しながら、放課後の一時いっときを待ち続けていた。


 俺には、峰倉に伝えなければならないことがある。

 昨日煌森先輩に諭されて気が付いた。その話をあいつに謝らなければ、俺はいつまでも持論と向き合えない。


 しかし、今朝の通学中には会えなかった。昼休みも和樹と天音に誘われて昼食を共にしたため、ここでも峰倉が居るであろう屋上へは行けなかった。なので、今日中に話しかけるチャンスは放課後しか残されていない。


 時間は俺の心境を無視して一定の流れを遵守し、ようやく日直が帰りのホームルームを終了させる。

 峰倉は解散の挨拶と同時に席を立ち、自分以外全ての物事に興味が無いといった顔をして教室を後にした。これは想定内だ。


 俺も後を追ってすぐに教室を出ようとする。しかし、


「希條君、ちょっと話があるんだが大丈夫か?」


 松平先生に呼び寄せられてしまった。これは想定外だ。


 すみません、急いでいるので今度にしてもらえませんか。


 なんて言えるはずもないので、そのまま進路相談室へ任意同行の運びとなった。





「中で待っていてくれ」


 進路相談室前に着くと、松平先生は俺を残して隣の職員室へと入って行った。


 部屋に入り、適当な椅子に座って待つこと一分。二通の封筒を片手に持って現れ、そのまま俺の対面に座って口を開く。


「昨日の午後、山の麓付近にある水車小屋で事故が起きたそうだな」


 何を言われるのか分からなかったため多少の不安もあったが、話の切り口を聞いて理解した。確かに、事故の概要を学校では話していない。


「先ほど、昼休みの終わり頃にここを訪れた女性がいたんだ。その人が、希條さんにこれを渡してほしいと言って手紙を置いていったぞ」


 松平先生は持っていた封筒を俺の前に差し出した。片方には平仮名で『きじょうさんへ』と書かれている。口頭では漢字まで伝わらないので仕方がない。


 そしてもう片方には、何も記載されていなかった。


「親御さんから大まかな話しは聞いている。どうやら、希條君の他にもう一人救出に参加した人がいるらしいな。もう一通をその人に渡してほしいと言っていたぞ」


 確かに俺は名乗ったが、峰倉の名前までは出さなかったな。


 二通の封筒を受け取り、何も記載されていない封筒をじっと見つめる。本来であれば、みねくらさんへ、とでも書かれているはずだった。片方に俺の名前が記入されているので、やけに空虚に感じる。


「もう一人の名前は言わなかったのか知らなかったのかは分からないが、知っているのなら訊いてもいいだろうか」


「ええと、ですね……」


 ここで俺は、素直に答えるべきかどうかを迷った。


 峰倉は子供の家に着いた後、家人が出てくる前に立ち去ってしまった。あれは、自分が関わったと知られたくないが故の行動だろう。だというのに俺がここで名前を出してしまうのは、あいつの意に反する行為に当たる。

 幸か不幸か、峰倉が救出に参加したという事実は俺と煌森先輩しか分からない。知らない人でした、と嘘をつくことも可能だった。


 しかし、


「…………峰倉です」


 悩んだ末に、正直に答えた。

 あいつにはあいつの思惑があるのかも知れない。けれど、俺には俺の思いがある。


 人の善行を、隠したままには出来なかった。


「! ……そうか、峰倉君が……」


 予想外だったのであろう名前を聞いた松平先生は腕を組み、考え込むように小さく唸り声を上げた。


「うぅむ……分かった、ありがとう。手紙は私から渡しておこうか?」


 先生が右手を出した。俺から渡すのは気が重い相手だと気を遣ってくれたのだろう。


「……いえ」


 しかし俺は二通の封筒を両手でピッタリと重ね、宛先未記入の封筒を下に隠した。


「これは俺が渡します」


「そうか」


 すると特に反対されるでもなく、右手を引っ込めて了承された。


「希條君」


 松平先生は俺の目を真っ直ぐに見つめ、敬いを込めた温かな声音で言葉を続ける。


「君達の行動が、幼い命を救ったんだ。よくやったね」


「………………はい」


 俺は賛辞を素直に受け取れなかった。


 俺は……、人に誉められるほど命を大切にしている人間ではない。





 進路相談室を後にして、坂道を駆け足で下る。


 峰倉に会えるチャンスは刻一刻と減っていた。金曜日の今日を逃すと、次の機会は月曜日になるだろう。伝えたいことを伝えられずに、モヤモヤとした気持ちでいるのは気分が悪い。


 煌森先輩の話では、あいつは登下校時に件の山に行っているのだという。おそらくは今日も向かっていると思うのだが、用を済ませて戻ってきてしまうと帰路が分からないので追えなくなってしまう。

 煌森先輩に訊けば実家でも何でも教えてくれるかも知れないが、現れないのであれば訊きようも無い。


 昨日も曲がった道を進み、チェーンを越えた辺りで体力が尽きる。分かってはいたが、ずっと走り続けられるほどの体力なんてありはしなかった。


 そこから歩いて煌森先輩の墓石がある場所まで行き、辺りを見渡す。


「んん……?」


 しかし、峰倉はどこにもいなかった。


 もう帰ったのか? いや、校舎からここまでは結構距離がある。十五分ほど遅れて学校を出たとはいえ、走って来た俺と行き違いになるほどの時間は経っていないだろう。ならば、もっと奥にいる可能性が高い。だがここから先は土砂の川だぞ、まさかこれを越えて行ったのか?


 自身の想定に疑念を抱きつつも土石流に近付く。


「そのまさか……か」


 よく見ると土に靴跡らしき窪みがあり、それが元は道があったであろう場所を辿って彼方まで続いている。ビンゴだな。


 崩れませんようにと願いながら踏み出す。すると想像していたよりも足場は安定していた。毎日あいつが通っているおかげで、土が踏み固まっているのだろう。


 足跡を頼りに進んで行くと、土石流の反対側に辿り着いた。


「……」


 そこには、しゃがみ込んで合掌している峰倉の姿があった。拝礼先には四つの花瓶が並んでおり、傍らには空のペットボトルも置かれている。


「峰倉」


 近付きながら声をかけた。


「!」


 すると驚いたのか肩をビクッと震わせ、立ち上がった後に睨み付けながらこちらに振り向いた。


「こんな所にまで現れるなんて、やっぱりあなたはストーカーなのね」


「違ぇよ。ここは立ち入り禁止だろ、勝手に入っても良いのか?」


「良くはないわね。あなたも渡って来たのだから分かるでしょうけど、またいつ山崩れが起こってもおかしくはないわ」


「何だって危険を冒してまでここに来てんだよ」


「あなたには関係無いでしょう」


 相変わらずの態度だが、会話に応じてくれるのならそれでも構わない。


 俺は四つの花瓶に目を向け、心当たりのある推測を口にする。


「花瓶に挿さってるその花は、仏花なんじゃないか?」


「っ……」


 峰倉が身体を強張らせたのが明確に分かった。しかし何かを言い返してくる気配は無い。


 先日川で汲んでいた水は、この花瓶に入れるためのものだったのだろう。花も小まめに差し替えているのか、全く萎れていない。

 家族をどれほど大切に想っているのか、痛いほどに伝わってきた。


「先に謝っておく、すまない。俺はお前の家族が亡くなっているって話を聞いているんだ。……なぁ、ここにはもしかして、お前の家があったのか?」


「……えぇ、そうよ。ここには私の、私達の家があったわ」


 悲痛な過去を吐露したにも関わらず、峰倉の表情は変わらない。


「山崩れに巻き込まれた……んだよな」


「いいえ。少なくとも、家族は違うわ。亡くなった理由までは聞いていないのね」


 俺は現状で分かっている情報を基に推測を口にしたが、どうやら違うらしい。


「……あぁ。けれど、お前が冷たい態度を取るようになったのはその件からなんだろ」


「そうよ」


「実はな、お前の噂についても聞いているんだ」

「……」


 峰倉は何も言わず、ただじっと俺の目を見つめる。


「さっきも謝ったが、もう一度謝らせてくれ。すまない。俺はその時に聞いた一つの仮説、お前に深く関わったら死ぬ。に興味が湧いた」


 俺も峰倉の目を見返し、決して発言から逃げない意思を示す。


「俺はな、死にたいんだ。お前に殺してもらおうと思った。……言い換えれば、お前を殺人者にしようとしてたんだ」


 自分の目的を達成させることばかり考えていて、周りのことが眼中に無い愚か者だ。


「お前には利用価値がある、その程度でしか考えていなかった。でも昨日、先輩に指摘されて気が付いた。それと同時に、俺がお前に求めていたことがどれだけ非道なことだったのかも理解した。それを謝りたかったんだ」


「そんな事を謝罪されても困るわ」


 俺が胸につかえていた思いを告げ終えると、峰倉は若干困惑の色を乗せた声を返した。


「私はあなたの妄想なんて知らない、興味も無い。突然現れて謝罪を口にされても、迷惑でしかないわ」


「すまん、確かにいきなり言われても混乱するだけだよな。俺が勝手に想像を膨らませていただけで、お前は何も知らないんだから。結局のところこれは……、そう、懺悔だ。自己満足の為でしかない」


 要するにこの発言も、自分の事しか考えていない身勝手な行動だ。


「だけど、どうしても話しておきたかったんだ」


「本当に自分勝手な人なのね。でも、もういいわ。あなたは私を利用しようと思わなくなったのでしょう? なら、価値の無くなった私に関わろうとする理由も無いわよね。これで晴れて赤の他人同士になりました。双方が望む結果に終わって良かったじゃない」


「まだ話は終わりじゃない」


「まだ何かあるの?」


「俺は、お前と友達になりたい」


 峰倉の眉毛がピクリと動いた。


「唐突に何を言っているの?」


「利用しようとした罪悪感からじゃない、素直にそう思ってる」


 煌森先輩に頼られたからこんなことを言っているわけでもない。これは本心だ。


 一人を望むこいつに、俺は過去の自分を重ねていた。周りとの関係を清算しようとしても、待っているのはただいたずらに苦しい未来だけだ。

 孤独から逃げた俺に語る資格があるのかは分からないが、同じ道は辿ってほしくなかった。


「私はあなたと友達になりたいだなんて思わない」


「周りの人に嫌われたいと願う心境は分かる。俺もかつては一人になりたいと事件を起こしたことがある」


「あなたなんかに私の心境が分かるはずがないわ」


「全部を理解出来ている訳じゃない。でも、孤独の苦しさは知っている」


「なら、全部を理解させてあげる」


「えっ?」


 峰倉は仕方が無いといった表情をした。


「過去に何があったかを、全て話すわ」


「峰倉の、過去……」


 煌森先輩から聞いた話はあくまで結果のみで、過程は語っていなかった。正直気になる。が……、


「いや、話さなくていい。それはお前にとって嫌な記憶だろ。それを無理に言わせたくはない」


 ただでさえ毎日お参りに来ているのに、これ以上思い煩わせるのは本望ではない。


「そんな気遣いは必要無いわ。誰にも話したことは無いけれど、これ以上付きまとわれるのも迷惑だわ」


 あくまでも俺の拒絶が優先事項らしい。


「あれは、小学四年生の時……」


 その言葉を皮切りに、峰倉は過去を語り始めた……。


 ………

 ……

 …





 まだ雪も降り積もる二月の朝、私は幸せいっぱいの気持ちで目が覚めた。


「お父さん、お母さん、おはよう!」


「おはよう。今日は誕生日だな、おめでとう」


「おはよう絢乃ちゃん。お兄ちゃんがまだ寝てるから、起こしてきてくれる?」


「はーい!」


 この日、私は十歳の誕生日を迎えた。一年で最も気分の高まる特別な一日だ。


 居間を出てすぐ隣の部屋に入る。すると、布団に包まり団子のように丸くなっている兄がいた。


「お兄ちゃん起きて、朝だよ」


「寒い、寒過ぎる。俺はもう駄目だ……」


「何言ってるの! 早く起きないとお母さんに怒られるわよ」


「たとえ怒られようとも、この温もりは手放せない」


「はぁ、そうやっていつまでもわがままばっかり言ってると……」


 毎年この時期になると、よく使っている最終手段がある。


「こうしちゃうんだから!」


 掛け布団をしっかりと握り、勢いよく引き剥がして強制的に起床させるのだ。


「寒っ! 死んじゃう、凍死する!」


「そこまで寒い訳ないでしょ」


「ムリムリ絶対ムリ!」


 兄は敷き布団の上でブルブル震えながら声を上げていたが、いきなり私の身体を掴んで引き寄せ、


「ちょっ、何やってるのよ!」


 背中に腕を回して抱き付いてきた。


「絢乃は暖かいなー」


「もう、いい加減にしてよ。わたしまで怒られちゃうじゃない」


「まるで湯たんぽみたいだ」


「話を聞いて!」


 叫んでこそいるが抵抗はしない。ここまでが例年の流れなので半ば諦めている。


 それに、決して嫌ではなかったからだ。


 五分ほど二人で横になっていると、母がおたまを片手に部屋に入ってきた。


「朝ごはん抜きとキツーイ一撃、どっちがいいか選びなさい」


「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」


 平謝りする兄を見て、私がクスクスと笑うのもお馴染みの光景だ。


 起き上がった兄と共に居間へ戻り、家族四人で食卓を囲って朝食を食べ、バスを乗り継ぎ街へと向かった。着いた頃には既に雪は止んで太陽が顔を出しており、暖かな日差しが降り注がれている。


「朝方までは冷え込んでいたが、今は晴れて気温が上がったな」


「そうですね、絢乃ちゃんのおかげかしら」


「誕生日だからお天道様も気を利かせてくれたのかね」


「かもしれませんね」


 両親が見守る中、私と兄は二人の少し先を歩いている。


「滑って転ぶなよ」


「お兄ちゃんじゃないから大丈夫よ」


「どういう意味だ?」


「昨日庭で転んだの、知ってるんだから」


「うっ、見られてたのか……」


「何をコソコソやって、きゃっ!」


 会話に夢中で足元が疎かになり、氷に足を滑らせてしまった。そんな私を、


「おっと」


 兄は瞬時に両手で支えてくれた。


「あ、ありがとう」


「言わんこっちゃなかったな」


「うるさい!」


 何の変哲も無い些細なやりとりさえ、私は楽しく思っていた。


 それから父が適当に見つけたレストランで昼食を食べ、デパートでジュースやクラッカー等を購入し、バースデーケーキを予約している店に向かう途中、


「いけない、絢乃ちゃんの大好きなハンバーグを作ろうと思っていたのに、挽き肉を買い忘れてしまったわ」


 母が買い物袋の中身を確認しながらそう言った。


「しゃーないな、俺がひとっ走り行ってくるよ」


「あら、それじゃお願いしましょうか」


「すぐに追い付くから、先にケーキ屋へ向かっててよ」


「分かったわ。はいこれ、挽き肉代ね」


「ん」


 一文字だけで承諾の意を示した兄が走り去っていくのを見送り、向き直って反対方向へ歩く。


「お兄ちゃんは絢乃ちゃんのこととなると行動が早いわねぇ」


「家族で一番溺愛しているからな。まったく、子供が皆あれぐらい素直なら、あんな事件も起きなかったんだろうな」


「……御崎事件、ね」


 父の言葉に、母が重々しく答える。


「あぁ。木了きりょう少年……、だったか? 親や親戚を殺めるなんて、どんな家庭環境で育ったのか……」


「きっと大切にされなかったのよ」


「絢乃ちゃん……」


 幼かった私でも、殺すという行為の意味は知っていた。理由があったのだとしても、それは許されることではない。


「わたしは、あの子が嫌いだわ」


「ごめんな、絢乃の前でする話じゃなかった。お詫びに、他にも欲しいものがあったら買ってあげよう」


 父は私が気分を悪くしたと思ったのか、気を遣ってそんなことを言った。

 けれど、その必要は無い。


「ううん、もうこんなに幸せなんだもの。これ以上欲しいものなんて無いわ」


「そうか。本当に、親の贔屓目無しに良い子に育ってくれたな」


「真面目で素直で、私達の自慢の子よ」


 褒められてご機嫌な気持ちで歩いていると、母が一軒の建物を指さした。


「あの店じゃないかしら」


 それはこの辺りでも一際目立って大きなホテルで、私はその壮麗な外観に驚愕した。


「あんな立派なお店で予約したの?」


「そうだぞ。なんたって十歳の誕生日なんだ、盛大にお祝いしなくちゃな」


「あのホテルの洋菓子は美味しいと評判なのよ。きっと気に入ってくれると思うわ」


「ありがとう、お父さん! お母さん!」


「絢乃は僕達の大事な家族なんだから、このくらい当たり前さ」


「パパとママは、絢乃ちゃんの事が大好きなのよ。もちろんお兄ちゃんもね」


「うん、知ってる! 私も大好き!」


 両親に両側から挟まれ、両手を握られながら駅前の道を歩く。この光景を兄が見たらどう思うのだろうか? もしかしたら嫉妬しちゃうかも。なんて考えると思わず笑ってしまった。


「今からそんなにはしゃいでいると、家に着くまで起きていられないぞ」


「帰りのバスで眠るくらいが、丁度良いかもしれないわよ」


「寝たりなんかしませーん。ずっと起きてるんだから! ほら、信号が変わっちゃうから急ごう!」


 ホテルは交差点を挟んだ向かい側にあり、信号はピカピカと点滅している。しかし、


「そんなに慌てなくてもケーキは逃げないよ」


 父がそう言うので無理には渡らず、私達三人は立ち止まって赤信号に変わるのを見守った。


 ーーこの選択が、間違いだったのかもしれないーー


 目の前にそびえ立つホテルを眺めていると、一台のトラックが視界の端に入った。特段それを気に止めてはいなかったのだが、まさにそれが悪夢の引き金だったのだ。


 そのトラックはウインカーを点けてこちら側の道に曲がろとしていた。しかし次の瞬間、タイヤを氷道に滑らせてコントロールを失い、圧倒的な質量の塊となって襲いかかって来た。


「危ない!」


「避けて!」


 両親は左右別々の方向に逃げようとした。二人とも、私の手を握ったまま。


「くあぁっ!」


 両方の手を強く引っ張られた私は、中央で身体が裂かれそうな痛みにさいなまれた。

 だが今はそんな事はどうでもいい。肩や腕は激痛を訴えていたが、脳ではそれ以外の現状を的確に理解している。


 完全に逃げ遅れた。


 私はもちろん、私を両側から引き寄せようとした両親もほとんどその場から動けずに留まっている。


 もう、トラックは眼前にまで迫っていた。

 もう、回避するだけの時間が無い。


 全てを諦めたその時、


「絢乃!」


「絢乃ちゃん!」


 両親が叫ぶのと同時に私を抱きしめた。

 二人の位置は私の正面で、トラックが接近しているその方面。そして……、


 ドゴッ‼️


 鈍い音を立てて私達の身体は撥ね飛ばされた。


「きゃーーーー‼️」


「おい、誰か救急車呼べ! 早く‼️」


 周囲の喧騒がやけに遠く聞こえる。薄れゆく意識の中で最後に見た光景は、買い物袋を放り投げて走り寄って来る兄の姿だった。





 私が眠りから覚めた時、知らない部屋のベッドで横になっていた。意識はまだ少しだけ朦朧としているが、ここが病院だということぐらいは分かる。


「あぁっ! 絢乃、俺だ、分かるか?」


 目だけを動かして声の聞こえた方向を視認すると、そこには今にも泣き出しそうな兄がいた。


「お、にい……ちゃん、大丈夫よ」


「よ……、よかった…………」


 途切れがちの言葉で無事を伝えると、俯いて本当に泣き始めた。


 身体はあちこち痛むが重症ではなさそうだ。起き上がって兄を宥めよう。そう思い、両手をベッドについて上半身を支え……、


「痛っ!」


 られなかった。


 手や腕は動くが、肩に力を込めると痛みが走る。原因は思索するまでもない。

 しかしその刺激で脳はハッキリと覚醒し、ようやく自分と共に撥ね飛ばされた両親を思い出す。


「ねぇ……、お父さんとお母さんは?」


 そう訊いた途端兄は泣くのをやめ、涙も拭かずにこう言った。


「…………死んだ」


 とても短く告げられたその言葉を、初めは理解出来なかった。


「しん……だ?」


 いや、頭は混乱しているが本当は気付いている。理解出来なかったのではない、理解したくなかったのだ。



 父と母が死んだ。



 この事実を受け入れたくない、そう思っただけだった。


「う、うぅ、うわぁぁぁぁぁぁぁーーーーーーーーー‼️‼️‼️」


 その現実は、幼い私にとってはあまりにも残酷なものだった。


「すまん、俺がもう少し早く戻って来ていれば……」


 その現実は、兄に拭いきれない後悔を残した。


「うわぁぁぁぁーーーーーー‼️」


 その現実は、兄妹二人の幸福を奪い去った。


「ぐっ、ちっくしょぉぉっっっっ‼️‼️」


 その現実を、変えることは不可能だった。





 声も枯れるほどに泣き終えた頃に祖父母が警察官と共に現れ、病院の先生を交えて事情説明が行われた。


 両親は頭からコンクリート住宅に衝突し、首の骨を折って即死。

 私はトラックに撥ね飛ばされた際、二人が間に挟まってクッションになった。ぶつかった後も強く抱き締められていたので、先に両親が衝突して私への衝撃は緩和された。

 事故の原因は、不十分な減速とハイドロプレーニング現象。氷が表面だけ溶けて水を張り、摩擦が少なくなってタイヤを滑らせた。


 ……等々、沢山の言葉が耳を通り抜けた。

 だが、そんな事はどうでもいい。


 父と母はもう………………。


 その思いだけが頭を支配していた。





 それから兄と共に祖父母の家に引き取られ、私は四ヶ月ほど部屋に引き籠った。

 最初の頃は失声症しっせいしょうになっていたのか、ほとんど声を出せずにいた。友達が来ても首を横に振り、外に出ることすら拒んだ。

 やがて友達と言える存在はいなくなり、一人で部屋の片隅に居座る時間が増えていった。


 しかしそれでも、


「お花、供えたい」


 と言えるぐらいには回復した。


 庭に咲いていたエゾゼンテイカを摘み取り、兄に実家まで連れ添ってもらう。

 そこで見たものは、楽しい毎日が喪失した空虚な家屋だった。

 私と兄の私物は祖父母の家に移されていたが、それ以外の物は全てそのままの状態で残っている。


「絢乃、大丈夫か?」


「平気……」


 兄に心配されて気が付いた。いつの間にか目元は潤み、声も鼻声になっている。


「泣きたくなったら、泣いてもいいんだぞ」


「泣かないもん」


 無駄に強がったことにより、少しだけ気持ちが保たれた。


 裏庭に行くと、生い茂った草花の中に墓石が一つ置かれていた。そこには父と母の名前が刻まれている。

 今更躊躇することは無い、四ヶ月間ずっと思いわずらってきたのだから。そう自分に言い聞かせ、近付いてエゾゼンテイカを石段の上に置く。


 花言葉は確か『憂いを忘れる』だったろうか。憂い……、父と母のことを? そんなの…………、


「忘れられるはずが無いじゃない!」


 想いは胸の内に留まらず、抑えきれない感情となって声に出た。


「…………」


 そんな私を兄は何も言わずに抱え込む。すると、案外それだけのことで落ち着きを取り戻した。


「もっと強く」


「えっ?」


「お父さんとお母さんは、あの時もっと強くぎゅってしてくれた」


「こうか?」


 優しい兄なりに精一杯の力を込める。だが、


「もっと」


「あぁ」


「もっと!」


「ん……」


「……もっと」


「……」


「もっと……つよ、く……」


 いくら力強く抱きしめられようとも、溢れ出す涙は止まってくれない。


「絢乃」


 声を上げて泣きそうになっていた私を、兄は真剣な声で呼びかける。


「ぐすっ……何?」


 そのおかげで大泣きはせずに済んだ。


「俺が絢乃を守る。一生、そばを離れたりなんてしない」


「本当……?」


「あぁ、約束する」


「うん」


「だから、泣きたくなったら泣いてもいいんだぞ」


 先ほどと同じ言葉。しかし、


「うん……」


 今度は強がることなく素直に泣いた。


 そしてその晩、



 兄は亡くなった。



 村の外れには幅広の大きな川があり、偶然通りかかった人が岸に打ち上げられていた兄を見つけたのだという。

 死因は溺死。ここだけ聞けば単なる事故とも取れるが、水流は穏やかで深さは大人の膝丈程度までしかない。


 私は納得がいかなかった。


 そもそも夜に川まで行く理由に心当たりが無く、誰かから恨みを買うような人ではなかったので他殺はほぼあり得ない。


 けれど、自殺なんてもっとあり得なかった。


 他にも不可解な点はいくつかあったが、最終的に兄は自殺したとの決断で事件は幕を下ろした。


 もう、泣き声すらも出ない。





 再び祖父母の家に引き籠ったが、今回は十日ほどで気持ちに整理がついた。

 家族を失ったのは二回目だから、心のどこかで慣れが生じているのかもしれない。


「……だとしたら私は、酷い女だ」

などと自身を責め立てることもあったが、ひとまず日常生活を送れるまでにはなっている。


 ある日の昼過ぎ、いつの日か両親に添えた花と同じものを摘んで実家へと向かった。状態はやはりそのままだが、裏庭の墓石には新たに兄の名前が彫られている。


 錦織村では人が亡くなった場合、正規の物とは別に小さな墓石を亡くなった場所に建てられる制度がある。これを希望すれば、遠い霊園まで行かずとも故人に会うことが出来る。

 しかし両親と兄の亡くなった時期が近いからなのか、名前を二人の左隣に追加しただけで兄個人の物は作られなかった。


 両親は街で亡くなったから仕方無くここに建てたのだとしても、兄の分は川岸に新しく作ってくれてもいいじゃない。

 ……いや、一人だけ遠い川にいるのは寂しいかな。二人と一緒にいたほうが幸せだろう。


 独りぼっちなのは、私だけだ。


 と、ここまで考えたあたりで持っている花を握り潰していたことに気が付いた。慌てて手を開くが時既に遅し。


 何をやっているのだろう。いつまでもウジウジと悩んでいる自分に嫌気が差す。


 ごめんなさい、これで許して。そう心の中で大好きな家族に謝り、傍らに咲いていた別の花を供えた。


 一応これで目的は完遂したので、祖父母の家に帰ろうと振り返る。その時、ふと庭の縁側が目に映った。


 何も変わったものなど無い。あるのは変わってしまった日常だけだ。いや、日常すらもこの家には無いのか。


 それを惜しむ私は吸い込まれるように近付き、


「……ただいま」


 障子を開けて久し振りに我が家へと帰還した。


 当然返事が来るはずも無く、私の声は空しく居間を彷徨さまようだけに終わる。

 それでも後戻りはせずに居間を通り抜け、廊下に出て兄の部屋の前で立ち止まった。


 私を守るって、一生離れないって約束したのに。


「嘘つき」


 その言葉に乗せられた感情は裏切られた怒りではなく、寂しさを込めた悲しみ。


 次いで隣にある自室の扉を開き、まるで初めて来た場所のように足を踏み入れる。


 見慣れた天井、見慣れた畳、見慣れた部屋の見慣れない光景。物が一切無くなったこの空間からは、かつての安心と安らぎも一緒に無くなっていた。

 それに加え、外は晴れているのに何だか薄暗く感じる。窓から差し込む光がこんなにも切なく思ったことは無い。


 いや、本当は分かっている。部屋が暗いのではなく、私の気持ちが暗いのだ。


 暗いのは、私の未来だ……。


 いけない、また卑屈に物事を考えてしまっている。落ち込んでいても仕方が無いのは、この四ヶ月で身を以て理解したはずだ。


 部屋の空気を入れ換えて私の気持ちも入れ変えよう。そう思い、日光に照らされなが窓を開ける。すると……、


「おぉっ」


 誰かの声が聞こえた。


 顔を出して辺りを見回してみると、丁度真下にしゃがみ込んでいる男の子がいた。いきなり窓が開かれて驚いたのか、少し呆然とした表情をしている。


「ビックリしたわ」


「おれもビックリした」


 その子は首だけを曲げて上を向いており、私の髪が掛かっているのもお構いなしに返事をした。


「顔が逆さまに見える」


「こっちからもそう見えるよ」


「それと、すごく近い」


「おれのせいではないと思う」


「とてもマヌケな顔をしていたわ

「それこそおれのせいではないと思う」


「あなたは面白い人ね」


「おまえは失礼な奴だな」


 お互いにそのままの姿勢で会話を進める。


「そこで何をしていたの?」


「ただ座ってただけだ。……なぁおまえ、今一人か?」


「それが何?」


「一緒に遊ばないか?」


「……待ってて」


 縁側に戻って靴を履き、家を半周して反対側へと向かう。そこにいたのは私と同い年くらいの少年で、初めて見る顔だった。


「あまりにも静かだから、てっきり空き家かと思ったよ」


「空き家であってるわよ。今は誰も住んでいない」


「じゃあおまえは何で中にいたんだ?」


「わたしは元々ここに住んでいて、あそこは自分の部屋だったからよ。それよりも、人のことをおまえって呼ぶのはやめてくれないかしら」


「じゃあおまえは何て名前なんだ?」


「だから、おまえって呼ぶなと言っているでしょう。わたしは絢乃、峰倉絢乃。あなたのお名前は?」


「……言いたくない」


「はぁ?」


「おれ、名前のせいでいじめられてるんだ」


「えっ」


 いじめ。それは聞き慣れない単語だった。


 もちろんいじめがどういうものかは知っている。しかし私の周りでは一度も問題になった事が無いので、実在するものだとは思っていなかった。


「だから、学校ではいつもひとりぼっちなんだよね」


「っ!」


 ひとりぼっち。その言葉が深く胸に突き刺さる。


「ねぇ、あなたには家族がいる?」


 苛立ちと同情を半々に混ぜた声で訊く。


「うん、いるよ」


「ならまだいいじゃない。私には家族がいないのよ」


「どうして?」


「みんな死んじゃったから」


「! ごめん、嫌なこと訊いた……」


 苛立ったのは、この子は本当の意味で孤独という訳ではないから。まぁ、確証は無かったのだが。


「許さない」


「えぇっ!? ど、どうしたら許してくれるの?」


「どうしても許してほしい?」


「うん」


 同情については確認するまでも無い。


「それじゃあ、わたしと一緒に遊びなさい」


「うん!」


 私もこの子も、友達がいないのは同じだからだ。





 その後二人で日が傾くまで山中を駆け回った。両親が亡くなってからは不登校になったので、こうやって誰かと遊んだのは久し振りだ。


「うーん」


 そろそろ解散の時刻かと思い始めた頃、男の子が突然唸り声を上げた。


「どうしたの?」


「いつまでも呼ばれ方があなたなのはどうかと思ってさ」


「本名を言えばいいじゃない。それとも、そんなに変な名前なの?」


「べつに普通なんだけど……。決めた、おれのことはコウと呼んでくれ」


「コウ?」


「おう」


「オウ?」


「コウ!」


「そう、今はそれでいいわ。でも、わたしは名前で相手をバカになんてしないから、いつか本当の名前を教えてよね」


「分かった」


 何かを決心したような重い声だった。


 と、ここであることに気が付いた。

 この子とまた会う機会があるのだろうか? ひょっとすると、今日一日だけの関係で終わりという可能性もある。


「ね、ねぇ」


 それを確かめる為に問いかける。


「何?」


「明日も、遊んでくれる?」


 訊いた途端に男の子は一瞬キョトンとした顔をしたが、瞬く間に笑顔になって手を握ってきた。


「もちろんだよ! おれも誘おうと思ってたんだ!」


 今日聞いた中で一番元気な声で承諾される。


「約束よ。もし破ったら呪うから」


「怖っ!」


「冗談に決まってるじゃない」


「なぁ、明後日もその次の日も遊ぼうよ」


「いいわよ。暗くなると帰れなくなるから、それまでだったらいつでも遊んであげるわ」


「ありがと!」


 翌日からこの家を集合場所に指定し、その子と三日続けて落ち合った。

 晴れている時は山中で遊び、雨の日は家の中で遊んだ。


 すると四日目の別れ際には、私は自分でも驚くほど元気が戻っていた。


「コウ」


「どうした絢乃?」


「あなたに、お礼を言わせて」


「お礼?」


「わたしは、家族を亡くしてからずっと落ち込んでいたの。楽しかった毎日が無くなり、つまらない日々を送るようになった」


「…………」


「ずっと一人で寂しかった。でもそんなある日、この家でわたしはあなたと出会った。初めは何とも思っていなかったのだけれど、遊んでいるうちにだんだんと元気が出てきたわ」


 塞ぎ込んでいた自分を、外の世界へと連れ出してくれた。


「あなたと遊んでいると、楽しくなって心が晴れたわ。嬉しいという気持ちを、久し振りに思い出した。だからコウ」


 それらの感謝をまとめ上げ、一つの言葉に全ての気持ちを込める。


「ありがとう」


 何ヵ月か以来の、極上の笑顔で、そう告げた。


「やっ、そんな、ありがとうだなんて照れるな……。それに、お礼を言いたいのはおれも同じだ」


「えっ」


「前にも言ったけどさ、おれはいじめられてるんだ」


 今度は少年が語り始めた。


「だけど親に話しても直接何か出来る訳じゃないし、先生に相談しても、証拠が無いから注意も出来ないって言われた」


 どこか遠くを見ているその目に映っているのは、苦痛な過去の記憶なのだろう。


「一度あいつらとおれと先生で話し合いになったけど、皆やってないって言って解決しなかった。それどころか、次の日から更に酷くなったんだ」


 私には想像し難い事態だが、苦しいと思う部分は共感出来る。


「その話をじいちゃんにしたら、根性が足りないからだ! って言っておれを外につまみ出したんだ。だけど友達はいないし、一人でじっともしていられない。何もすることが無いから、時間を潰そうと思って山を登った」


 一人で登山などしたら余計に寂しくなりそうな気がするのだが。


「しばらく歩いていたら絢乃の家を見つけてさ、最初は空き家だと思ったから家に寄りかかって休んでた。そしたらいきなり窓が開いたからビックリしたよ。しかも出てきた女の子が凄く暗い顔をしてたから、怖くて動けなかった」


 確かにあの時はとても落ち込んでいたが、そこまで怖い顔をしていたのだろうか。


「でも話してみるとさ、何だか寂しそうにしてる気持ちが伝わってきたんだ。それで絢乃あやのを遊びに誘った。お互いに一人だったから、共感するものがあったんだと思う」


 一人になったからこそ引き合った二人とは、何とも皮肉な巡り合わせだ。


「その感覚は間違ってなかったよ、絢乃と遊んでいて楽しかった。心も晴れたし、嬉しいのも同じだ。こんな見ず知らずのおれに付き合ってくれて、ありがとな」


「な、何をそんなオーバーに言ってるのよ! まるでお別れするみたいじゃない!」


「それを言うなら、絢乃だって結構なもんだったぞ」


「とにかく! お互い元気になれて良かったわね」


「そうだな」


 先ほどの発言を冷静に振り返ると、ずいぶんと恥ずかしいことを口走っていたように思う。

 けれど、この勢いならもう一つの言いたいことも言えるだろうか。


「……ねぇコウ、実はまだ伝えたいことがあるの」


「何だ?」


「それは…………」


「?」


 勢いで切り出したは良いものの、言葉を続けられなかった。


「ちょっ、ちょっと待ってて」


 代わりに私は急いで辺りを見回し、目的の花を探す。


「……あった」


 数メートル先の木にその姿を見つけ、駆け足で近付いて花を一つ摘んで戻ってくる。


「これをあげるわ」


「花?」


「そう、花。ごめんなさい、言いかけて申し訳ないのだけど、心の準備が足りなかったの。明日は必ず伝えるから、今はこれで許してもらえないかしら」


「……分かった」


 少年は少しだけ怪訝な表情をしたが、すぐに了承してくれた。


 私は決意を固める意思も込めて、言うまでも無い約束を口にする。


「明日も、一緒に遊びましょう」


「もちろん」


 こちらは笑顔で返答された。





 翌日の空は生憎の曇り模様で、太陽はその姿を完全に隠していた。それでも気温は外で遊ぶのに申し分ないほどではある。


「いけない、約束の時間に遅れてしまうわ」


 時計を確認しながら身支度を整え、駆け足で元の実家へと向かう。しかし、すぐに雨が降ってきて全身ずぶ濡れになってしまった。


「もう、最悪ね」


 降らないだろうと安易に考えていたので傘を持ってきていない。引き返している時間も無いのでそのまま向かう。


 だが、本当に最悪だったのはこの後だった。


 数分とかからずに雨脚は強くなり、遠くの方からズザザザー! と激しい音が聞こえてきたのだ。


「何?」


 身体の芯に響き渡るその音の発生源はとある山であり、遠目にも森の一部が崩れ落ちているのが分かる。


 誰の目にも分かる山崩れを見て、心臓がドクンと跳ね上がった。


 その山は通い慣れた元の実家があるところで、土石流が流れている位置は丁度その付近で、そこは今日も少年と待ち合わせをしている場所な訳で…………。


「コウ!」


 あの子が巻き込まれたかもしれない。と、すぐに思い至った。


 全速力で田んぼ道を走り抜け、無我夢中で山道を駆け上がる。また山崩れが起きるかもしれないなんて、この時は微塵も考えていなかった。


 あの子が心配で、あの子の姿を確かめたくて。頭の中はそれだけでいっぱいだった。


 半分ほど登った所の道を土砂の川が横切っていたが、それでも臆することなく土の上を乗り越えていく。


「お願い、どうか……」


 無事を祈りながら進み、その先で私が見た光景は、


「!」


 土石流に巻き込まれて全壊している実家だった。


 屋根も、玄関も、窓も、居間も、お風呂も、家具も、庭も、花壇も、家族の墓石まで、思い出と共に積み重ねてきた全ての物が、跡形も無く流れ失せてしまった。


「あ、あぁ、あぁぁ……」


 家族との思い出はもちろんだが、おそらくは、


「コウ……」


 あの少年も巻き込まれたに違いない。


「何で……」


 本当に、運命とは残酷なものだと再確認した。


「せめて、ちゃんと、伝えたかったな……」


 昨日言いそびれてしまった言葉。それは、


「あなたはわたしにとって、友達以上に好きな人だったのに……」


 一緒に遊んだ時間はとても短いものではあったが、私を救ってくれた大切な少年。


「どうして? みんな、わたしの好きな、大切な、人、が……」


 愛しい人が亡くなっていく。誰がそんな酷い物語を書いたのだろうか。


「………………」


 その時私は気が付いた。


 もしかすると、私が大切に思った人だからこそ亡くなったのではないだろうか?


 大好きな両親だから死んだ。

 優しさに甘えたから兄が死んだ。

 純粋に心惹かれたから少年が死んだ。



 私が好きになったから死んだ。



 …………私は、神様に嫌われているのだろうか。

 好意を抱いた相手が死ぬなんて、天罰以外考えられない。


「良い子に、してきたのになぁ……」


 それと一口に好意と言っても、種類や程度は幅広い。

 もし、ほんの少しの気持ちでも駄目だというのならば、誰とも友達になんてなれない。


 それを悟った時、私は人を遠ざけ続けることを心に決めた。


「どうして神様は、こんな意地悪をするの……?」


 それ以来、少年と再開することは無かった。

 それ以来、誰にも心を開かずに生きてきた。





 …

 ……

 ………


「理解、出来たかしら」


 峰倉は最後にそう言い残し、一人でこの場を立ち去って行く。


 その後ろ姿を茫然と見送った俺の意識が戻ったのは、太陽も沈み始める黄昏時だった。





 家に着いても聞いた話の衝撃は冷めず、夕食はほとんど喉を通らなかった。


「どうしたの、具合でも悪いのかい?」


「いや……、ごめん、先に風呂に入ってくる。後で食べれたら食べる」


 祖母に心配されるも、適当な返事をして居間を後にした。


 服を脱いで浴室に入り、風呂椅子に座ってシャワーハンドルを回す。


「……」


 温水がホースの中を通り、ノズルで分散されて俺の身体へと降り注がれる。放射状になったお湯は皮膚に当たっては弾かれ、また当たっては肌を伝い流れ落ちる。やがてタイルの上で収束し、排水溝へと吸い込まれていく。


 いつまでも変わらないその光景を、いつまでも変わらない心情で見続けていた。


「…………」


 こんな益体やくたいも無い思考でもしていないと、峰倉の話が脳を駆け巡って仕方が無い。


 だが実のところ、その話で俺が悩むことは一切無いのだ。俺があいつの過去に関わっている訳ではないし、救ってやれる事がある訳でもない。


 今はただ、受けた衝撃に心が驚いているだけだ。


「友達になりたい、か」


 懺悔の後に自分が言った言葉を思い出す。

 これは峰倉の心をダイレクトに刺激した台詞なんだと今なら分かる。そういや他にも、一緒に過ごす仲間同士、なんて言ったか。


「そりゃあ激怒もするわな」


 家族、友達、仲間。人との繋がりを示すワードはあいつが一番聞きたくない言葉で、求めたくない存在なんだ。


 ……いや、求めたくない訳がないだろう。話の中で、一人で寂しかった、と言っていたじゃないか。

 それに俺だって、孤独の苦しさは知っている、と公言した身だ。峰倉とは比べものにすらならんかも知れんが、決して楽なもんではない事は理解している。


 しかし、


「なーんも出来ねぇよなぁー……」


 解決する術は持ち合わせていない。


 無駄に時間とお湯が流れ続ける中、感傷だけはそのまま残っていた。





 部屋に戻って布団に埋もれ、鞄から姿を覗かせている封筒に目を向ける。

 帰って来てから感謝状を渡しそびれていたことに気が付いたが、どのみち先ほどの雰囲気では渡すタイミングが無かっただろう。


 正直、峰倉の想像した天罰だか呪いだかは現実味が薄い。それこそファンタジーな物語に出てきそうな現象だ。

 しかし俺は、煌森先輩のような存在を知っている。一概に全ての不可思議現象があり得ないとは言い切れない。


 峰倉には峰倉の苦悩があり、他人が力になれない悩みが存在する。


「俺なんかに、何が出来るっていうんだよ……」


 煌森きらもり先輩からは強要はしないと言われているし、心残りだった懺悔も伝えた。ならば、あとは俺の自由にしてもいいじゃないか。


 俺は何も出来ない。

 俺は何も関係無い。


 同じ言葉を繰り返しながら、落ちるように眠りについた。





 翌朝。


 昨日は夕飯をほとんど食べられなかったため、空腹でいつもより早く起きてしまった。

 寝起きの気分も良くはない。起きてすぐに封筒が目に入ったため、昨夜に考え込んでいたことが雪崩のように思い出される。


「……っ」


 俺は頭を振って思考を止め、余計な考えを振り落とす。


「とりあえず、腹減った……」


 別のことを脳に認識させ、目下の行動目標を定めた。


 窓から射し込む朝日に目を細め、廊下を渡って居間に顔を出す。


「おや、今日は早起きだねぇ」


 すると祖父母は当たり前のように起きており、普段は寝ている時間に現れた俺を珍しがった。


「具合は大丈夫かい?」


 お茶をすすっていた祖母が、テーブルに湯飲みを置いて問いかける。


「うん、大丈夫。それよりもお腹空いた」


「そう。それじゃあ、少し早いけど朝ごはんにしようかね」


 立ち上がる祖母と共に台所に向かい、配膳を手伝って朝食の準備を整える。


「いただきます」


 三人揃って朝食を食べている間は、峰倉みねくらの話を少しだけ忘れていられた。


 食後に水を一杯(あお)り飲み、食器をシンクに下げて部屋に戻る。


 今日は土曜日だから学校は休みだ。さて、どうしようか……。


 本日の予定を決めかねていたことに気付き、急に手持ちぶさたな感覚に襲われた。


「とりあえず、本でも読むか……」


 適当に目的を決め、本棚から今の気分に合ったタイトルを探す。すると、先日と同じように窓からコンコンコンとノックの音が聞こえた。


「またか……」


 誰が訪ねて来たのかなど、確認するまでもなく分かる。


 俺は窓に近付いて扉を開け、顔を覗かせていた煌森先輩に声をかけた。


「今、相手をする気分じゃないです」


「ボクにしては珍しく、打算抜きで気分転換に誘おうと思って来たんだ」


 珍しくと言ったその言葉の通り、先日と同じような俺をからかおうとする雰囲気を感じない。


「ちょっと出掛けようじゃないか」


「どこにですか?」


「それを言ってしまっては期待が半減するというものだ。着いてからのお楽しみ……と言いたいところだが、キミも知っている場所だよ」


「……分かりました。待っていてください」


 特に断る理由も無いし、ちょうど予定も無かった。


 それに俺は、峰倉とは違う。気遣ってくれる人の温情を無下にするほど、人間味を捨てたつもりは無い。


「あぁ、それと」


 俺が窓を閉めようと扉に手をかけたところで、煌森先輩は俺の鞄に視線を向けた。


「その様子では、貰った手紙はまだ読んでいないのだろう?」


「はい」


 もはや、何故手紙の件まで知っているのかは問わなかった。この先輩なら村で起こった事を全て知っていても不思議ではない。


「どうせなら持って行こうじゃないか。キミと、彼女の分も」


「峰倉のも?」


「あぁ。村を歩くから、もしかすると会えるかもしれないよ」


「……」


 正直、会いたい気持ちと会いたくない気持ちは半々だった。


 いつまでも峰倉宛の手紙を手元に残しておくのは気が休まらない。しかし、今はどんな顔をして会えば良いのかも分からない。


「……そうですね」 


 結局、会わないためのお守りとして持ち歩くことを選んだ。





 煌森先輩に連れ出され、言葉少なに二人で歩く。週に五回は利用している通学路を進みながら、目的地に見当がついたので訊いてみた。


「もしかして、学校に行こうとしているんですか?」


「そう。正解だ」


 水車小屋を通り過ぎて山を登り始めると、その先にはもう高校の校舎ぐらいしか知っている場所が無い。


「鍵は開いてるんですか? てかそもそも、勝手に入って大丈夫なんですか?」


「土曜日ではあるけれど、出勤している教師も幾人かいるから開いているよ。大丈夫かと言われれば、学生が学校に入って悪いことなど無いだろう」


「授業も無ければ制服も着ていない。見つかったら何を言われますかね」


「その時は、忘れ物を取りに来たとでも言いたまえ」


「小芝居の練習でもしましょうかねぇ……」


 あくまでも楽観的な煌森先輩に逆らう気力も起きず、適当に話を合わせて山を登った。


 学校は正門が解放されていて、三台の車が駐車されていた。朝早くから仕事に取りかかる大人に感嘆しつつ正面玄関に近付く。すると、煌森先輩が俺を呼び止めた。


「今そっちは開いていないよ。こっちだ」


 煌森先輩は俺の横をすり抜け、教職員玄関へと向かった。入学初日振りの扉を開けて中に入り、来客用スリッパを履いて校舎内を歩く。


 まさか休日にまで登校するなんて思いもしなかった。平日とは違って静まり返っている廊下は、別世界に来たような感覚に陥る。


 煌森先輩は迷うことなくどんどんと階段を登って行った。二階、三階と通り過ぎ、ついには屋上への入り口に着く。


「ここにも久しく来ていないだろう?」


「……確かに」


 扉を開けると隙間から風が入り込み、淀んでいた気分が少しだけ吹き払われた。


「ふふふっ、良い景色だね」


 屋上に出た煌森先輩は、落下防止用の柵まで近寄って村を眺めていた。


「…………えぇ」


 対して俺は、中央まで歩いて上を向いた。この壮大な空の前では、俺一人の悩みなんてちっぽけなものだと思わされる。

 少し曇りぎみの天気だったが、雲の隙間から差す陽光の輝きは幻想的だった。


「ここから見える風景は、いつも素晴らしいね」


 俺がしばらく感慨に耽っていると、煌森先輩が声をかけてきた。


「悩んでいる時なんかは、ここで深呼吸をするだけでも気持ちが晴れるものだよ」


「先輩もこの景色が好きなんですか?」


「もちろんさ。少し複雑でもあるけどね」


「どういうことですか」


「ボクが死去したのは小学六年生の時だから、残念だけど高校には通っていないんだ。出来ることなら、皆とこの景色を一緒に観たかった」


 そうだ……。俺とは普通に接しているから忘れそうになるが、この人はすでに生きていないのだ。


 短慮な発言を悔やみ、謝罪の言葉を口にする。


「すみません……」


「気にする必要は無いよ。ボクが勝手に悔いを吐露しただけだ」


「そう言えば、どうして高校の制服を着てるんですか。体格だって、とてもじゃないですけど小学生のものではありませんよね」


「ボクは生きていれば高校三年生だったから、気分をキミと合わせたかったのさ。それとも、小学生の幼い姿のほうが好みだったかい」


「勘弁してください」


 仮に小学生から小難しい口調で語りかけられては、俺は間違いなく無視する自信がある。


「先輩。気を悪くさせるのは承知していますが、一つ訊いてもいいですか?」


「なんだい」


 俺は先ほどの失言ついでに、この人にしか語れない話を聞こうと思った。


「死ぬって、どんな気分ですか……?」


「……!」


 いつも余裕の笑みを浮かべている煌森先輩が、険しい表情を浮かべて俺を睨み付けた。


「……っ」


 初めて感じる先輩の鬼気に当てられ、俺は一歩後ずさる。


「…………いや、すまない」


 そんな俺の様子を見た煌森先輩は、自身が想像以上に気を荒らげていたことに気が付いたらしい。謝罪の言葉と共に首を振り、いつもの表情を取り戻した。


「先輩が謝ってはいけません。先ほども言いましたが、良くない発言だと分かっていて言ったんです」


「……そうかい。けれど、やっぱり謝っておくよ。ボクはキミの問いに、怒りを表す資格なんて無いんだ」


「どういうことですか?」


 煌森先輩は腕を抱き、目を瞑って語り始める。


「山崩れに巻き込まれたあの時、ボクはとても怖かった。岩や木々に全身を傷付けられ、土に生き埋めにされてしまったんだ」


 腕を掴んでいる手に力がこもり、空想の制服にシワが寄る。


「吐いた息は僅かな隙間に流れていき、吸おうとしても土の重みで肺が膨らまなくて叶わない。ボクはまさしく、絶望の縁にいたよ」


 目元は悲痛な思いに歪んでいる。


「やがて酸欠になって苦しくなり、出血も伴って思考力が奪われた。身体から命が失われていく感覚を味わいながら、救助が間に合わずに死んでしまった」


 一言毎に表情が険しくなり、演技では表せない緊迫感を抱かせる。


「けれど」


 しかしここで煌森先輩は目を開き、両腕を広げて自身の存在をアピールした。


「ボクはこうしてここにいる。神様に目をかけられたおかげで、まだこの世に留まっているんだ。この世にいるのだから、死んで旅立つ気持ちを語れはしない」


 つい先程までと打って変わり、いつもの余裕そうな笑顔を浮かべていた。


「これまで偉そうなことを言いはしたが、実際にはキミを教え導けるほどの立場ではないのさ」


「……先輩はどうして、そんなに笑っていられるんですか。つらいとか……考えないんですか?」


 煌森先輩の話は、先輩なりに納得して語られているのだろう。

 けれど死んでしまったというのに、いつも笑みを浮かべていられる心情が分からない。


「それはもちろん、後悔に苛まれる毎日だ。けれど、過去を悔いたって過去が変わる訳ではない。なら、前を向いて出来ることをするしかないじゃないか。今ある命を、守る為に」


「たとえ自分自身が死んでいようとも、ですか」


「そうだよ」


 僅かな迷いも無く、即答された。


「……真っ直ぐ過ぎて、直視出来ないです。俺は、命あり方を分かっている先輩が羨ましい」


「おかしなことを言うね。キミはボクに何かを言われるまでもなく、命のあり方については分かっているはずだ」


「そんなことありませんよ」


「そうだろうか」


 煌森先輩は俺から視線を外し、振り向いて落下防止用の柵に飛び乗った。

 柵の上で器用にバランスを取って立ち上がり、こちらに向き直って俺を見下ろす。


「何をしてるんですか。危ないですよ」


「危ないというのは、こういうことかい?」


 そしてあろうことか、天を仰ぎ見てゆっくりと後ろに倒れ込んだ。


「!!」


 煌森先輩の後ろには落下を妨げるものは何も無い。簡潔なまでの、飛び降り自殺だった。


 俺はすかさず近寄り、右手を伸ばして煌森先輩の左腕を掴む。


「いきなり何やってんですか!」


 咄嗟の判断で間に合ったことに安堵する間も無く、俺は声を荒らげて怒鳴りつける。しかし煌森先輩は俺の緊迫感など余所に、楽しそうな顔をしていた。


「あははっ、ボクはもう死んでいるんだよ」


 ……それは分かっている。以前も確認したが、掴んでいる左手には体温を感じない。それどころか、体重も無いのか重さも全く感じない。


 頭では理解していても、身体が勝手に動いていた。


「だとしても、目の前で落下されたら反射的に助けもしますよ」


「ほら、命のあり方を分かっているじゃないか」


「……いいから、引き上げますよ」


 身体に力を込めるまでもなく、右手を軽く引き上げるだけで煌森先輩を救出出来た。この人に対して救出という言葉が正しいのかどうかは分からないが。


「目の前で誰かが命の危機に晒された時、キミは迷わず助けに入る。それは、人生を捨てていないという証拠だよ」


「……違いますよ。目の前で死なれて、今後一生のトラウマになるのが嫌なだけです」


「けれど、キミは行動した。思惑は人それぞれかもしれないが、結果だけ見れば同じだ。行動したからこそ、子供も助けられた」


 煌森先輩は水車小屋の方向へ身体を向け、視線だけ俺に合わせて言葉を続ける。


「手紙、読んでごらんよ」


「……」


 俺は無言で上着の内ポケットから封筒を取り出し、「きじょうさんへ」の七文字を見つめる。


「キミにはそれを、読む資格と義務がある」


 封筒の上部を丁寧に細長く破り、中から手紙を取り出して文面を読んだ。


 ーーーーーー


 この度は息子の危ないところを助けていただき、本当に感謝しております。


 病院で診てもらったところ、後頭部と右足首に軽い打撲があるのみでした。


 これほどの軽傷で済んだのは、きじょうさん方が助けてくれたおかげです。


 現場検証も進んでいて、事故に関する詳細も確認出来ました。


 もしあなた方の助けが無かった場合、息子は命を落としていてもおかしくはありませんでした。


 今回は短い文面のみでのお礼となりましたが、いずれ回復した息子と共に挨拶に伺います。


 重ねて、本当にありがとうございました。


 ーーーーーー


 手紙には、子供の無事と感謝を表す言葉が書かれていた。


「読んでみて、何かを感じたかい」


「……改めて文面にされると、何て言うか……達成感みたいなものがあります」


 達成感という言葉は、何となく違っている気がしていた。人を助けたいと思う気持ちは当たり前で、打算も損得もありはしない。


「子供を助けられて良かった……ってのもありますが、自分が人を見捨てるような人間じゃないって分かったことに喜んで……? いる、んだと思い……ます」


「自身が抱いている感情を表す言葉が見つからないかい? そうさ、それでいい。尊い命、などと言われたりもするが、ボクはその表現があまり好きではない。尊いの本来の意味は、きわめて価値が高い、非常に貴重である。だ。なんだか、命を物のように扱っている印象を受けてしまう」


 煌森先輩の言う通りだ。命に価値なんて付けられるものではない。


「人生なんて、泡沫うたかたの夢のように儚く脆い。けれど、だからと言って蔑ろにしていいものではない。それは、キミ自身にも当てはまるんだよ」


 感動なんて言葉でも足りない。慈しみなんて言葉でも表せない。

 胸に込み上げるこの思いは、言葉で形に出来るほど簡単な感情ではない。


「命というのは、意味や理解の範疇を越えた先にある。キミは今抱いている気持ちを忘れない限り、決して道をたがえないだろう」


 煌森先輩は目元に優しさを浮かべ、穏やかな表情で言葉を続ける。


「キミはじぶんを殺すより、だれかを助けるほうが似合っているよ」


「……はい」


 俺にもまだ、俺の命を大切だと思っていい権利があるらしい。


 見失っていた心に気付かせてくれた先輩に、熱くなった目頭を押さえて返事をした。





「帰ろうか」


 煌森先輩と校舎を後にし、正門を抜けて山を降りる。


 水車小屋を通り過ぎて十字路に出た時、隣から不意に声をかけられた。


「おっ、弘人じゃないか。休みの日に会うなんて珍しいな」


 声に反応して左側を振り向くと、私服で並び立つ和樹と天音がいた。


「ひろとくん、おひさっ! 元気にしてた? こんな偶然会うなんて運命だよね! 赤い糸はあたし達を引っ張りあっていたんだね!」


 おひさも何も、昨日だって教室で一緒の時間を過ごしたはずなんだがな。


「二人は何してるんだ?」


「春の山は山菜の宝庫だからな。晩飯に出してもらおうと思って一狩り行ってたんだ」


 和樹と天音は肩から籠を下げており、中からいくつか戦利品が顔を覗かせていた。


「弘人は……手ぶらで出来ることったら何だ? 散歩か?」


「まぁ、そんなところだ」


「朝っぱらから一人で散歩たぁ、弘人も老けてんなぁ……」


「一人?」


 和樹の言葉に疑問を抱いた。

 辺りを見回してみると、つい先ほどまで一緒だった煌森先輩が居なくなっていた。


 ……おそらくだが、姿を現せないのではなかろうか。先輩が俺以外の誰かと一緒に居る光景を見たことが無い。


「なんだ、違うのか?」


「いや、……そう、一人だ」


 煌森先輩をどう扱うかは判断に困るところだが、俺は一人だと言ってしまっても嘘ではないだろう。


「今度はあたし達と散歩に行こうよ!」


 などと多少の雑談に花を咲かせていると、俺から向かって正面の道から一人の少女が歩いてきた。


「あ……」


 無意識に漏れ出た声は俺のものだ。


 だがそれも仕方が無いだろう。煌森先輩のおかげでようやく気が晴れたころに現れたそいつとは、他ならぬ峰倉なのだから。

 しかも長い黒髪と溶け合うほどの黒いワンピースを身に纏っており、それが喪服を連想させてドクンと心臓を跳ね上げる。


「……」


 峰倉は我関せずといった様子で徐々に近付き、見向きもせずに左折していった。俺達などまるで存在もしていないかのような扱いだ。


 俺の方向からは右側に当たるその道は、山崩れが起きている件の山へ通じる道だった。

 今日も大切な人達の墓参りに行くのだろう。


「っ……」


 昨晩、シャワーを浴びながら散々悩んだじゃないか。


 俺は何も出来ない。

 俺は何も関係無い。


 だが、


「弘人?」


 俺はせめて、感謝状を渡さなければならなかった。


 和樹の声を背中で聞き、峰倉の背中に声をかける。


「峰倉」


「……」


 今更無視をされたくらいでは怯まないので、前に回り込んで強引に再度声をかける。


「お前に渡さなきゃならん物があるんだ」


 俺は上着の内ポケットから封筒を取り出し、峰倉に向けて差し出した。


「それは何?」


 とりあえずは足を止めて 会話に応じる意思を見せてくれた。


「一昨日子供を助けただろ、そん時の感謝状だ」


「子供を助けた?」


 俺の発言に疑問を抱いたのは和樹だ。

 天音と揃って峰倉の後ろに位置取り、俺の持つ封筒に興味を示していた。


「あぁ、そこの水車が壊れたのは知ってるだろ。そん時に子供が危険に晒されて、俺と峰倉で助けたんだ。この封筒には、親御さんからの手紙が入ってる」


 和樹と天音に事態を簡潔に説明すると同時に、峰倉に手紙の差出人を伝える。


「……あなたねぇ、昨日の話を覚えているかしら」


 峰倉は眉根を寄せて目を細め、怒りを堪えた静かな声を出した。


「あぁ」


 俺は怒りの要因に心当たりがあった。

 感謝を受け取れない峰倉にとっては、この感謝状は扱いに困る代物でしかない。


「なら、これは嫌がらせかしら?」


「違う。俺が持っていたって仕方がないだろ。一応お前に渡すから、あとは好きにしてくれ」


「……そう、好きにさせてもらうわ」


 峰倉は封筒をじっと見つめていたが、やがて右手を伸ばして受け取った。


「これをどう扱おうと、私の自由よね」


 俺は峰倉がとりあえず手紙をしまい込むものだと思い込んでいた。


 しかし、不穏を感じる言葉と共に左手が伸ばされ……、



 封筒ごと真っ二つに破り捨てられた。



「なっ……!」


 驚きの反応を示したのは和樹だ。俺は、あまりの事態に声すら出せずにいた。


 感謝を受け取れないらしいことは昨日知ったが、それでも目の前で手紙が破られるだなんて想像もしていなかった。


「お前……、なんてことを……!」


 和樹は拳を握り締めて怒りをあらわにし、声を荒らげて峰倉を非難する。


「あやのちゃん……、酷いよ……!」


 天音は声を震わせ、悲しみに表情を歪ませていた。


「何? これはあなた達に関係あるのかしら。私が貰ったものなのだから、私がどうしようと勝手じゃない」


 峰倉はそれぞれの反応にも動じず、かろうじて二人の顔を見れる程度に振り向く。


「だからって、手紙を読みもせずに破るこたぁねぇだろ!」


「それもそうね、読んだ後に破り捨てれば良かったわ」


「ふざけるなよ……!」


 峰倉の煽りに和樹は怒りのボルテージを上げ、今にも殴りかかりそうな自身を必死に抑えていた。


「峰倉……、さすがにそれはやっちゃいけないだろ。温情を受け取らないにしても、捨てるのはやり過ぎだ」


 気を持ち直した俺も和樹達に同意し、予想外の行動を責める言葉を口にする。


「手紙を渡したあなたに、私を非難する権利は無いわ」


「そんな馬鹿な道理があるか!」


 俺が反応するよりも先に和樹が反論し、拳を震わせながらも言葉を続ける。


「お前は変わっちまったよな。人の恩を無下にするようなヤツじゃなかった……!」


「みんな……、みんな心配してるのに……! どうして……!」


 二人が村人を代表して責め立てるも、峰倉に動じた素振りは見られない。


「それらは全て、あなた達が勝手にしている事でしょう。厚情も恩も心配も、勝手に振り撒いて勝手に見返りを求めている。善意の押し売りは、もはや悪意にしか感じられないわ」


「普通に気遣ってるだけで、押し売りなんてしてないだろ」


「する側とされる側には、感じ方に齟齬が生まれる場合があるのよ」


「つまりお前は、善意を善意と分かっていながら無下にしていたのか」


「どうだったかしら。くだらない事はすぐに忘れてしまうから、覚えていないわ」


「人の親切心をくだらない事扱いかよ……!」


「だから何? 心配なんていらないと、幾度も言ったはずよ」


「好き放題言いやがって……。お前は村の人達に恨みでもあるのか!」


「べつに無いわよ。恨みどころか、興味も無いわ」


 和樹と峰倉の言葉の応酬は徐々に苛烈さを増し、穏便に場を収められる状態ではなくなっていた。


「あなた達にはあなた達の思いがあるのでしょうけど、私には私の思いがあるの。お互いに受け入れられないのだから、不干渉で過ごせばいいじゃない」


「またそれかよ……! 峰倉、お前は一体何を考えてんだ」


「あやのちゃんの気持ちが分からないよ……! あたし達じゃ力になれないの……?」


「納得するかどうかは別として、説明ぐらいしてくれよ。相談にだって乗ってやるからさ」


「あやのちゃん……!」


「…………」


 冷然な態度で返事をしていた峰倉だが、急に俯いて黙り込んでしまった。


 二人にはまだ、峰倉を助けようとする気持ちが残っていた。おそらくは、峰倉もそれに気付いたのだろう。


 しかし、


「なぁ……、説明だけでもしたほうがいいんじゃないか?」


「……うるさい!!!」


 俺の追撃を皮切りに、その身に抑えていた怒りを遂に解き放った。怒号はその場に居る全員の心身を震わせ、辺りの山々に跳ね返って村中に響き渡る。


「あなた達には関係無い! 構わないでほしいと言っているのだから、無視してくれればいいじゃない! 私は他人と関わり合いたいとも、心境を理解してもらおうとも思わない。ただ平穏に過ごしたいだけ……。それなのに、どうしてむやみに……って優し…………のよ。もう、誰も…………」


 始めこそ怒号を叫んでいたが、途中から急に威勢を失ってしまい後半はほとんど聞き取れなかった。


「っ……」


 そして小さな呻き声を残し、俺の横を通り過ぎて件の山へと走り出した。


「峰倉!」


 立ち止まるなどとは思ってもいなかったが、それでも声をかけずにはいられなかった。


「何なんだよあいつは」


 和樹が不満の声を上げる。なのできっと気付いていない。


「あやのちゃん……」


 天音が憂いの声を上げる。けれど同じく気付いていない。


「峰倉……」


 俺は呟くようにもう一度名前を呼んだ。この中で俺だけが、二人とは逆の位置にいた俺だけが気付いたことがある。


 それは、峰倉の頬を伝っていた一筋の涙。


 すれ違い様に見たあいつの顔は、怒りではなく悲嘆に満ちていた。


 何度も反復した言葉を、今度は都合の良い暗示として思い返す。


 俺には何も出来ない。

 俺には何も関係………………。





 しかし思考は最後まで続かず、種類も分類も分からない感情が俺を支配する。

 逃げ場を求めて空を仰ぎ見てもそこに太陽の姿は無く、先ほどまで疎らだった雲が一面を完全に覆い尽くしていた。


 空も俺の気持ちも晴れないまま、時間だけは無情に過ぎて行く。

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