一日目の夜・長すぎる夜の始まり
宿に戻ったギード夫婦とハートは、一旦三階の部屋に入った。
ハートは二階の階段のすぐ脇の部屋に宿泊している。忙しい時は店を手伝ったりするため、出入りしやすい部屋にいるのだ。
「下の食堂で夕食にしましょうか」
ギードはそう言った。
目立つのは困るが、今は服も普段着になっているし、今朝と違い気配を消す魔法も使っている。大丈夫だろう。
「わあい。ハートさんも一緒に行きましょうよ」
「はい。喜んで」
何故かタミリアがハートの腕を掴んでいた。
荷物を置いて、三人で下へ降りる。
外は薄暗くなり始め、食堂のほうも客がぼつぼつと入り始めていた。
女将には断りを入れて、食堂の隅を選んで座る。狸のような獣人の女性が食事を運んで来た。
この町の食堂は、料理を選ぶことは出来ない。ほぼ、お薦め料理のみである。
港町らしく魚を中心とした料理で、ハートとギードは特に文句は無い。
「タミリアさんは、お魚は苦手ですか?」
ハートは昼食も一緒だったので、タミリアが「また魚だ」と呟いたのを聞いてしまった。
「うーん。嫌いじゃないけど、肉がいいなー」
そう言いながらもタミリアは軽く二人前以上は食べている。
「甘い物も好きだしね。これで我慢して」
とギードは食後のお茶を飲みながら、懐からお菓子を取り出す。
タミリア用にこれだけはいつも懐に入れているのだ。
「わぁ、ありがと」
そしてギードは、うれしそうにそれを頬張るタミリアを笑顔で見ていた。
ハートは改めて、目の前のふたりは長い付き合いなのだろうと感じた。
ハートと別れ、ギードたちは部屋に二人っきりになる。
特に何もすることがないので寝ることになった。
話をしようと思っても、ギード自身が今は何も言う気力が無い。何を言えばいいのか、わからない。
(とりあえずのことはやった。あとは明日にしよう。そうしよう)
ギードは、二つの寝台を動かして引っ付けた。
「え、えっ、それは」
うろたえるタミリアにギードは笑って首を振る。
「何もしないから安心していいよ。タミちゃんは寝相が悪いから、こうしておかないと寝台から落ちちゃうからね」
そうして毛布を一つ持って、ギードは部屋にあった長椅子に横になる。
「おやすみ」
挨拶がわりの口付けなど望めるはずもなく、ギードは目を閉じた。
「お、おやすみなさい」
見知らぬ男性と二人っきりの状態、だからだろうか。タミリアは部屋の明かりを自分の側に一つ残している。
それでも、タミリアはギードとの共同生活を嫌がらなかった。
「出来るだけ、記憶を失くす前と同じような生活にしたほうがいいと思うんだ」
食堂でのギードの言葉に、タミリアは少しでも早く記憶を取り戻せるならと、それを受け入れた。
「気に入らないことがあれば遠慮なく殴ってくれていいよ」
ギードは笑っていたが、ハートはぎょっと驚いて食事の手が止まった。
タミリアはそれが特別なこととは思えなかった。全く違和感なく、すんなりと、
「ん、わかった」
と答えていた。
(あのエルフは側に居ても嫌じゃない。大切にしてくれてるのもわかるし)
本当に夫かどうかわからないと思いながらも、このエルフには何をしても大丈夫な気がする。
タミリアはあまり深く考えるのは止めた。
◆ ◆ ◆
ハートは一人の部屋で、寝台に横になっている。
「本当にあの人たちが黒獏先輩の言う『嵐のあとに来る恐ろしいもの』なんだろうか」
天井を見上げてため息を吐く。
ハートは先日、勤めていた店の先輩従業員に突然、
「君は次の嵐の後に来る『恐ろしいもの』に影響されるだろう」
と告げられた。
良く当たるという彼の占いの結果らしい。その影響で店が被害を受ける前に、ハートを解雇するべきだと経営者の秘書に進言されてしまったのだ。
秘書はとりあえずは様子を見ると言って、ハートを長期休暇ということにしてくれた。
そうしてハートは、以前働いていたことのある小熊亭に泊めてもらいながら、嵐が無事に通り過ぎるのを待つことになった。
嵐は来た。
町にたいした被害はなかったが、明け方、薄明るい空に稲妻が走ったのは獣人たちにとっても初めて見る光景だった。
すっかり明るくなると、ハートは自分を拾ってくれた漁師のおじいさんが海辺へ行くというので同行する。
自分が行かないことで『何か恐ろしいもの』がやさしいおじいさんに降りかかってしまっては申し訳ない。そう思ったのだ。
「あの爺さんはね、海で行方不明になった息子が帰って来るんじゃないかって思ってるのさ」
古い知り合いらしい宿屋の女将から、そんな話を聞いたせいかも知れない。
そして、ふたりは砂浜で倒れている人影を見つけ、駆け寄った。
男性と女性らしい。まずはやはり女性を、と声をかけたところで後ろから不機嫌な声が聞こえた。
ふたりを押しのけたエルフの男性は足元をふらつかせていたが、女性に怪我がない様子を見て安心したようだ。
……しかし、ちょっと目を離したすきに、さっきまで薄い金髪だったはずのエルフは、ハートと同じ黒髪になっていた。
かなり驚いたが、エルフは魔法を使うというから、そういうものなのかも知れない。
ハートはおじいさんに頼まれて白狼先輩を呼びに行く。変わった漂流物があった場合は、まずは領主に報告しなければならないのである。
そうしてハートの怒涛の一日が始まった。
タミリアという人族の女性が自分と同じように記憶が無いことがわかって驚く。
(これは黒獏先輩の占いの通りなのかな?。でもギードさんたちはそんなに怖くはないけど)
エルフの男性のほうは黒髪で背も低く、山の上の神殿にいる銀青色の髪のエルフのような脅威は感じない。
「あっちのエルフの方がよっぽど恐ろしいと思うな」
ギードという黒髪のエルフは時々怖い表情はするが、基本的には妻を心配している優しい夫だ。
「タミリアさんは何ていうか、頼りになるお姉さんみたい」
記憶を失くしているのに、どっしりと構えていて安定感がある人だ。
この世界に来て初めて見た同じ『人型』だが、自分とはやはり違う世界の人だと感じている。
それでも彼女は女性だ。
「私が何とか力になってあげなくちゃ」
ハートは明日も忙しくなりそうだと、目を閉じた。