十五日の早朝・女神との遭遇
ギードの朝は夜明け前の散歩から始まる。
「ついて来るの?」
「はい、ギード様」
何故か眷属志望である闇の精霊もどきが、子狼獣人の姿で追いかけて来る。
(まあいいか。この精霊たちのお陰で早く向こうと繋がったし)
好きにさせておくことにした。
結界の壁を確認する。
エンが昨日通って来た穴は、ギードの触手が僅かながら残っているが、だいぶ潰されていた。
「やはり出て来たか」
許可なく異物が入って来たことを感知したのだろう。それが何であるかも。
「手を出して来なければこのまま黙って出て行くつもりだけど」
修復しようとするのは、閉じ込める意志があるということか。
「ま、もう遅い」
ギードは黒い笑みを浮かべ、もう一度触手を動かす。一度貫通した穴は確実に脆い。
「タミちゃんが通れるくらいには拡げないとね」
一気にいくにはまだ足りないモノがある。
今はまだ塞ぎ切らないよう修復の邪魔に留めておく。
触手で拡げた穴に支柱を打ち込んで安定させる。
空が白み出したため作業を一旦終わらせ、借家に戻ろうと歩き出したギードは足を止めた。
「ザン、影に入れ」
それは小さいが鋭い声だった。
一瞬ぽかんとしたザンは、はっとするとすぐにギードの影の中に沈む。
昨夜エンに「眷属ならばここで待機するのだ」と教えられた場所だ。
ザンの身体はその外側がほぼギードの魔力で出来ているため、まだ眷属ではないが問題なく入れた。
(これは『女神』か)
ギードが展開している闇の領域。そしてそれを隠すように広がる闇色の森。
その上空に『神』の気配があった。
(このまま借家に戻るのはまずいか)
ギードはエルフの身軽さで木々を駆け上る。
森の高い木の上に立つと、気配のある場所をじっと見据えた。
目の前の空間が歪み、半透明の翡翠色の女性が姿を現す。
睨み合ったまま二つの影は動かない。
女性の影のほうが先に動いた。
「初めてお目にかかりますね。闇のハイエルフ殿」
しっかり観察していたようで、『女神』がギードの正体を言い当てる。
「おや、それはそうでしたね。初めまして、ギードと申します」
不安定な場所のため、礼は軽くに留める。商人としての顔は不要のようだ。
「聞きたいことがあるの。ここでは落ち着きません。どこかでお話を」
ギードもまた彼女を観察している。
「……いいでしょう。自分がいない間に妻に手を出さないのであれば」
「そんなことはいたしません」
穏やかそうに見えるが、怒気を含んだ声になった。
どこか、といってもこの結界の町の中では場所も限られる。
ギードが選んだのは小熊亭だった。
「『女神』様ならどこでも大丈夫でしょう。自分が小熊亭の部屋へ入ったらおいでください」
『女神』が頷くのを確認して、ギードは森から出る。
(エン、聞こえるか?)
(はい。ギード様)
タミリアたちに朝食には戻らないことを伝えてもらう。
(もし、そっちで何かあったらすぐに連絡を)
(承知いたしました)
ギードは小熊亭に向かいながら、エンと念話でタミリアたちの護衛を頼んでおいた。
小熊亭の女将に朝食を一人分頼み、三階の部屋へは自分で運んでいった。
ギードは小食なので、簡単なパンとスープくらいである。
部屋に入り準備が済むと「どうぞ」と誰もいない部屋の中で一声だけ発した。
『女神』の気配が現れた瞬間、ギードは防音と気配遮断の結界を張る。
今のギードは収納も魔力も眷属たちと共有で使える状態になっている。
一体でも眷属が身近にいるのは何をするにも心強い。
向かいの席にはギードの影収納から取り出した王国の高級な酒を用意しておいた。
ギードは気負わずに『女神』と相対する。
「何故この町の神殿へ来なかったのですか?」
印象を良くしようとするのか、『女神』は穏やかな笑みを浮かべている。
「申し訳ございません。何しろ妻があの状態でしたので、こちらも混乱して忘れていました」
ギードは白々しく答え、カップに酒を注いで『女神』の前に置く。
丁寧に勧めた後、「自分も失礼して」と食事に手を付ける。
相手は『神』である。
その強大な力で自分など簡単に潰せる。
(まあ、そんなことする気はないだろうけど)
長い間、この土地で『大神』と対立をしているなら、緊張状態が続いていただろう。
出来るだけゆったりと、落ち着いた時間を過ごしてもらおう。
小熊亭の女将が用意してくれた魚介のスープは美味しい。
「本当にこの町は魚も野菜も美味しいですね」
町を褒められて『女神』の頬が緩む。
「しかし、残念でなりません。この食材に魔力が残っていれば、誰も困らずに生活出来ますのに」
町中の食材には『女神』の手が入っている。魔力を抜かれているのだ。
何故わざわざそんなことをする必要があったのだろう。
住民たちは毎日の食事で自分たちの生活に必要な魔力を蓄えることが出来たはずなのに。
『女神』は、顔を背けた。
「獣人たちは魔力を使うことに慣れてはおりませんから」
ギードの唇が黒く歪む。
『女神』は、自分が住民の魔力を管理していたことを認めたようなものだ。
「なるほど。それは『女神』様も大変でしたでしょう」
労わるように『女神』を見つめる。
お疲れのようですね、というギードの言葉にカップを持つ女神の手が震える。
「私はやはり、他の『神』には劣るのでしょうね」
優劣というのは本来『神』には存在しない価値観だったはずだ。
各自に役割があり、それぞれの美しさや威厳がある。『絶対者』であり、民にとっては『唯一』の者だ。
比べるモノではない。
「『女神』様、そのようなことを誰がおっしゃいましたか?」
『女神』は一度だけ、はっとギードの顔を見たが、また目を逸らしてしまった。
「……た、民の声を聞いただけです」
「それはおかしいですね。この町の住民は他の『神』など見たことはないでしょう?」
『神』には縄張りがあると『泉の神』から聞いている。
王都なら『湖の神』、商国なら『泉の神』と、その土地に住む者はその土地の『神』しか知らないはずだ。
ギードは軽い食事を終わらせ、お茶を自分で淹れる。
「それにしても、自分はエルフの森を出てだいぶ経ちますが」
まるで立場が逆転したように、ギードは『女神』に憐れむような視線を向けた。
「こんなところでお会いするとは思いませんでした」
顔を逸らしたまま、『女神』の目だけがギードへと動いた。
「ねえ、『エルフの森の母なる木の女神』様」
「……ど、どうしてそれをー」
ギードの目の前にいるのは、引き籠もりと言われている『エルフの森の女神』だった。




