十三日目の朝・同調
夜明け前、ギードはいつもの散歩に出かける。
昨夜も感じたが、ギードがこの土地の魔力と混ぜ合わせた闇の魔力が、借家の近くまで来ていた。
「森がこれだけ活性化すれば無理もないか」
雑木林はすでに小さな森になりつつある。
町外れのため、まだ町の住民たちは気づいてはいないが、神殿ではとうに気づいているだろう。
「何も言ってこないのがちょっと不気味だけど、ま、気にしない」
やることはやらねばならない。
ギードはいつも通り触手を伸ばしていく。
空が白み始め、ギードは自分の作業領域から出る。
地面に足を着くと、何だかいつもと違う感じがした。
「ん、なんだ?」
薄暗い森に目を凝らす。
明るくなり始めたはずの森でも、葉の茂り具合で光が届かないことはある。
「いや、暗いんじゃなくて、黒いのか」
顔を上げると確かに枝の葉の隙間から見える空は明るくなり始めている。
それなのに、ギードの周りだけが地面や木々が黒いのだ。
「あー、闇の精霊か」
作業領域の周りに黒い精霊の玉が集まっていた。
ギードは首を傾げながら、いつものように地面に手を当て、地下に潜らせている魔力線を探る。
「おや?。動いてる」
ギードが結界の壁の地下部分に埋めた魔力線は、壁の傷に伸ばしている触手と違い、単に埋めているだけだ。
今、眷属たちがいないギードは出来るだけ魔力を節約している。
これだけ魔力の濃い土地なので、地中ならばギードの魔力線は勝手に魔力を吸収する。
そして十分に動ける量の魔力を溜めたら動き出す手はずだったが、思ったより早い。
「さすがにここまで深いとは思っていなかったけど」
地中の魔力まで『神の結界』の影響が強いようだ。
その魔力を吸収して、さらに地下へと動き出しているのがわかる。
それでも、地下から汲み上げた温泉は魔力がほとんど感じられなかった。
「湯に浄化作用があるのか、地下水脈は結界の影響がないのか、どちらかだな」
土に手を置いたまま考え事をしていると、ふいに温い風が吹いた。
それは商国になる前の荒れ地の森で、幻想の巨木の根元の精霊たちを起こした夜。
『泉の神』、当時はまだ『木の神』だったが、その『神』に囚われていた精霊たちを開放した。
あの時の、死者となった精霊の塊が発する匂いに似ている。
「自分に救えというのか」
確かに、この結界の中には『神』によって命を奪われた住民や、漂流者がいるだろう。
何より精霊が生まれては消えを繰り返している。
その死者たちの遺恨と意志を持たない精霊の魔力が地中に溜まっていたのかも知れない。
「お前たちもかわいそうにな」
先日、ギードは土の精霊たちに祈りを捧げた。それをあの精霊の玉たちがどう感じたのかはわからない。
しかし、今ここにいる黒い精霊の玉たちは、明らかに意志を持ってギードの側にいる。
「わかったよ。やってみよう」
下手をすれば魔力が尽きて倒れるかも知れないので、ギードは地面に腰を下ろす。
まあ、倒れるつもりはない。今はまだ倒れるわけにはいかない。
「こっちの体力のぎりぎりで我慢してくれ」
やさしく声をかけ、ゆっくりと目を閉じる。
薄い朝もやが立ち込め始め、その中で低く豊かなギードの祈りの声が流れる。
その白いもやが真っ黒になるほど、黒い精霊の玉が地面からあふれ出した。
「ふむ」
一旦言葉を止め、ギードはその精霊の玉に向かって方向を指し示す。
「お前たちが行くのはこっちだ」
ギードの触手によって拡がっている結界の壁に穿たれている綻び。
何もないように偽装された支柱を外してやると、黒い風はその綻びに吸い込まれた。
まるで喜ぶように、風が唸り声を上げる。
黒い笑顔を浮かべ、ギードは祈りを再開した。
借家ではハートがギードの帰りを待っていた。
「ギードさん、遅いですね」
朝食の時間はとっくに過ぎている。
ハートは不安になり、タミリアを起こした。
「んー、パンケーキまだ?」
「まだです。っていうか、ギードさんがいないんですってば」
タミリアが寝ぼけ眼のまま起き上がる。
「いつもの散歩?」
タミリアもギードが早朝に外から帰って来るのは知っている。
「散歩っていうか、あの、何かやってるんですよね」
たぶん、と言いながらハートが言葉を濁す。
それが昨夜ギードが言った内緒の部分なのだろう。
タミリアは着替えて部屋を出る。顔を洗って身支度を整えた。
「私、外を見て来る。ハートさんは朝食の用意をお願い」
「で、でも、ギードさんがどこにいるかー」
ハートは窓の外の雑木林を見る。もうあの穴は跡形もない。
タミリアは脳筋特有のにやりという笑顔を浮かべた。
「ギドちゃんの気配ならわかるわ」
そう言って、タミリアは裏口から出て、雑木林の中へ入って行った。
ハートはぽかんとして見送り、敵わないなあと頭を掻いた。
雑木林は以前より木が増え、足元の草も茂って歩きにくくなっている。
突然大声を上げたり、ギードのいる場所に入り込んだらきっと邪魔になるだろう。
タミリアはギードがエルフの耳で自分の声を拾ってくれると信じているので、声を張り上げるようなことはしない。
「ギドちゃん。ギドちゃん」
小さな声でギードの名を呼びながら、気配のあるほうへと歩く。
木々や下草が緑というより黒っぽくなったと思ったら、目の前が少し開けた。
「ギドちゃん?」
うずくまる影を見つけて近寄ると、それはやはりギードだった。
「ちょっと、ギドちゃん」
「あ、ああ。タミちゃんか」
ずいぶん疲れた顔をしているギードを、タミリアは心配そうに覗き込んだ。
「何かあったの?」
「いや、別に」
心配させないように無理に浮かべるギードの笑顔に、タミリアは少し苛立つ。
「大丈夫なら、家に帰ろう。お腹空いたし」
「うん、そうだね」
ギードがよろけるので、タミリアが身体を支えて立ち上がらせた。
「悪いね」
「いいの。昨日はおぶってもらったし」
タミリアがギードに肩を貸すようにして、ふたりはゆっくりと歩き始める。
ギードたちが去った後の結界の壁周辺には、まだ黒い精霊の玉がうごめいていた。
それらはギードの触手を押しのけるように、結界の綻びの中を駆け巡り、外へ外へと出口を探す。
溢れた黒い闇の精霊たちは、地面の底に沈んだギードの魔力線にもまとわりつき、さらに地下へと押しやる。
黒い森の拡がりに、神殿では『女神』も目を見張っていた。
「これはもう私では止められない」
翡翠色の女神は、ただその暗闇の行方を眺めているしかなかった。




