十二日目の深夜・結界の中
「でも、私は以前の記憶を取り戻せるでしょうか」
ハートの顔は悲しみに染まっている。
ギードは大きく息を吸い込み、ゆっくりと肩を落としながら吐いた。
「それは、この町にいる限り無理です」
「ん?、記憶と町と何の関係があるの?」
タミリアが口を挟んだ。
「ここは『神』の結界の中、だという話をしたっけ?」
「ほえ?」
「えー、聞いてないー」
そうだった、ギードはちょっと苦笑いである。
魔力を扱えない状態のふたりには無縁だと思って後回しにしていた。
「わかったよ。ちゃんと話そう」
ギードは温めのお茶を淹れなおす。
「結界、ですか?」
「そう。ここには『神』の結界が張られている」
ギードは目の前にあったお菓子が入った深めの器を、中身を取り出して伏せる。
「こういう状態だ」
そして、その器を指で弾く。
「何も通さない。堅くて、目に見えない」
「へー」
タミリアとハートはその器を見る。
「この結界を通る時に、記憶が奪われるんだと思う」
驚くハートに、ギードは頷いて見せる。
「何故そんなことが必要なの?」
「この町に入る条件、というか、この町に送られる者に記憶があると不都合なんじゃないかな」
タミリアも「なるほど」と頷いている。
「それをやってるのが、『女神』様ってことなんですか?」
「うん。エルフにはそんな力はないからね」
世の中の理を変えるほどの魔力はエルフにはない。
生きている者の記憶を簡単に操るなど、『神』ぐらいしか考えられない。
「だから、この町の結界から出れば、記憶は戻る可能性があると思う」
記憶が戻ると聞いてハートは目を輝かせた。
おそらく何年も前からずっとそうやってこの町は守られてきたのだろう。
「でも、それなら漂流者たちはどうやってこの中に?」
「ハートさんは神殿の『女神』様には会った?」
「はい」
ハートが頷く。
「自分たちが会ったのは『大神』と呼ばれるお年寄りの男性だった」
自分たちは『大神』に会いに行き、ここへ飛ばされた。
それは間違いない。
「この町の『女神』様と『大神』が対立していて、その『大神』が『女神』様に嫌がらせで漂流者を送っている、とハクローは言ってたな」
自分が張った結界だから、『神』にはその中に無理矢理モノを通すくらいは出来るのだろう。
かといって、他の『神』の影響もあるので、結界を壊すことまでは出来ない。
実に傍迷惑な話である。
「んー、それって、この結界に関係している神が二柱いるってこと?」
タミリアの問いに、ギードがこくんと頷いた。
だから厄介なのである。
「自分が見たところ、結界は何層にも重なっていて、簡単には壊せない」
それでも抜け道くらいはある。
「ほんとに?」
タミリアが疑いの目でギードを見る。
「例えば、自分たち以外の者が『神』に供物を捧げたりすれば出られる可能性はある」
「あー、なるほど」
それで『大神』と『女神』の気が変われば、だが。
「結界を張った以外の他の『神』に頼むという手もある」
一柱では無理かも知れないが、何柱かがまとまって力を使えば出来なくはない。
『神』の力関係はわからないが、『神』同士の魔力はそれほど違わないだろう。
例えば人とエルフではかなり違うが、同じエルフ同士であるなら魔力量はそんなに変わらない。
それならば、同じくらいの量の力を加えれば済む話じゃないかとギードは思う。
「『神』様は一柱じゃない……」
「まあね。異世界の常識は知らないけれど、この世界の『神』はそういうことになっている」
ハートにとっては知らないことばかりだ。
ギードがお茶を飲んでいる間に、タミリアが首を傾げて聞く。
「でもさ。どうしてギドちゃんは大丈夫だったの?」
「エルフ、だからですか?」
タミリアとハートが、ずるいという目でギードを見る。
その視線に目を逸らしながら、しばらく考えていたギードは、
「これのお陰だね、たぶん」
と、懐の小袋から壊れた装飾品を取り出した。
「旅に出る前に知り合いからもらって、強力な防御魔法が一度だけ発動するようになってた」
身代わりとなったそれは、見事に破壊されていた。
その装飾品を握り締めたギードをタミリアは心配そうに見ている。
「ギドちゃんはその結界から出るために、何か手を打ってるんだよね?」
そうでないと断言出来ないだろう。
タミリアの言葉にギードは苦笑いで返す。
「そこはまだ内緒、かな?」
作業中のギードにとって、今、口や手を出されるのは困る。
「わかってる。邪魔はしない」
タミリアは両手を上げ、ハートも頷いた。
今夜も美しい月が空にかかっている。
ギードは夜中に目が覚めて、外に出た。
温泉風呂の裏、借家の窓から見えない場所で建物に背を預けて座り込む。
「子供たちもあの月を見てるかな」
眷属たちも心配してるだろう。
しかし、焦ってもどうしようもないこともあるのだ。
「今は、タミちゃんの精神的な支えにならないといけない」
彼女に何かあれば、ギードは何をするか、自分でもわからない。
「まあ、眷属たちのいない今の自分に大したことは出来ないけど」
それでも今、ギードには『大神』とズメイへの黒い気持ちが溢れている。
「必ず、戻る」
それが彼らへの意趣返しになるだろう。
ギードの黒い怒りが周りの闇に溶ける。
この借家の周りにも、今までギードが結界の壁の作業用に拡散していた魔力が及んで来ていた。
ざわりと魔力が動き、その闇の中にさらに黒い魔力の塊が生まれた。
「闇の精霊?」
闇属性自体は珍しくはない。自然の中には必ず闇は存在するのだから。
しかし彼らは臆病なので、あまり姿を見せないと言われていた。
エルフの森でも黒い色は美しくないと嫌われていたので見かけたことがない。
ギードは、気まぐれな『泉の神』によって変化させられたハイエルフだ。
土属性のはずが闇属性になってしまったのは、おそらくギードの中にあった黒い感情が元になっていると思われた。
「同じ嫌われ者同士か」
先日見た土の精霊たちと同じように、ギードの周りに闇の精霊たちが集まって来た。
ギード自身も仲間のように思えてうれしい。
しかし、ここでは精霊たちは生まれてもすぐに消える運命にある。
黒い魔力を溢れさせ、彼らを誕生させてしまったのは自分だ。
ギードは彼らのために祈る。
その低く豊かな声は、借家の結界の中に子守歌のように響いた。
その祈りの声は地中深くの闇にまでしみ込んでいった。
ギードの闇と、この土地の魔力が、何かを誕生させようとしていた。




