十二日目の夜・取り戻せない
その夜、領主館では領主である銀狼と灰色狼の息子たちが一室に集まっていた。
その場には、漂流者を監視する任務を負っていた獣人もいる。
重苦しい空気の中、大柄な銀狼は口を開いた。
「それで、お前はどう思ったのだ」
ハクローの次兄である黒灰色の狼獣人が答える。
「俺りゃ、今日一日見てたけども、あれは武人だなあ」
次兄は町に戻ると言葉が崩れる癖があった。
あの人族の女性は隙がない。評判を聞いても、あのサイガに勝ったという。
「ハクローの話では、エルフが商人で、あの妻は護衛ではないかということだ」
領主の言葉に、監視役をしていた黒い猫のような獣人が頷く。
「ほえ、あんな護衛雇えるっちゅうのはでかい商人なのかえ」
「はい。漂着した当時の服が贔屓の仕立て屋にございましたが、店主に言わせると逸品だそうです」
「ふむ」
「銀の短剣もそうだったろ。宝飾屋の羊が手放しやがらねえけどな」
黒灰狼は残念そうに悪態を吐く。
「はい。かなりの高額で引き取ったとかで、あのエルフはやはり商売人で間違いないかと」
銀狼は頷き、ため息を吐く。
エルフという種族だけでもあまり漂流者として前例がなく、その上、記憶を奪うことも出来ていない。
「難しいな」
「領主様、これからどうなさいますか?」
椅子の後ろに立つ黒猫の獣人は、主である領主の指示を待っている。
考え込む領主の代わりに、長兄の息子が口を歪めて笑った。
「決まってるさ。今まで通り、死ぬまで監視だろ」
「しかしながら、記憶もあり、魔法も使えるエルフがそう簡単に死ぬとは思えませんが」
黒猫の獣人は不機嫌そうに耳を倒していた。
「ならば」
白灰色の狼獣人は黒猫の獣人を見上げる。
「神殿のエルフ様の代わりに、魔力を魔石に充填する仕事でもしてもらえばいいだろう」
相手は長寿のエルフである。
「せいぜいこき使ってやればいい」
「そりゃあいい。やっぱ兄貴は頭がいいや」
若い兄弟はにお互いに顔を見合わせ、にやりと笑った。
そんなにうまくいくだろうかと、黒猫の獣人と銀狼の領主は顔を顰めたままだった。
借家に戻ったギードは、タミリアを部屋へ入れて寝かせ、食事の用意を始める。
「タミリアさん、食べられそうですか?」
用意が出来てハートがタミリアの部屋へ声をかけると、
「たーべーるー」
元気そうな声が帰ってきた。
軽めの食事をゆっくりと食べる。
今日はこの家の温泉風呂は無しなので、時間が余っている。
「あのー、一つ伺ってもいいですか?」
「ハートさん。そんな丁寧な言葉使わなくてもいいのに」
元気を取り戻したタミリアがいつも通りの食欲を見せていた。
ハートは姿勢を正した。
「ギードさん、教えてください」
その真剣な表情にギードも飲んでいたお茶のカップを置いた。
「本当にこの町を出るつもりなんですか?」
「ええ、そのつもりですよ」
何の気負いもなく、ごく普通に言い切るギードにハートはごくりと息を飲む。
わかっている、これはいつも通り。
「それは、お二人でということですよね」
「もちろんです」
二人一緒に、二人で生活していた町に戻る。当たり前のことだ。
ハートは自分の場所を知らない。
この町を出ることが出来たとしても、戻ることは叶わない。
「わ、私も連れてってもらえませんか」
無茶なお願いだとわかっていて、俯いてしまったハートにも、ギードが驚いたのがわかる。
「いいんじゃない。一緒に行けば」
タミリアがのん気そうな声で答えた。
しかし、ギードの声が聞こえてこない。
ようやく聞こえた言葉は、少し冷たかった。
「……ハートさん、それ本気で言ってますか?」
「はい」
ずっとひとりでこの町で生きて行く、そう思っていた。
でもこの二人に出会ってから、ここを出て、色んな場所へ行ける可能性があることがわかった。
「あのー、出来れば人が多いところに行ってみたいなと」
自分ひとりぐらい混ざっても目立たない場所へ行きたい。
「だめでしょうか」
身体を縮こませて顔を上げると、何か言いかけたタミリアを制したギードの顔が強張っていた。
「ハートさん。気持ちはわかります」
獣人だらけの町に、人族がひとりだけというのは目立つ。
しかも異世界人だというなら、その生活様式もきっと違うのだろう。
王都の話を聞いて、様々な者がいて、自分がそこに入っても大丈夫だと思ったようだ。
「でも、もう少し考えたほうがいいですよ」
「そ、そうでしょうか」
ギードはハートをじっと見ている。
長い沈黙があった。
タミリアも不安そうに二人の顔を見比べている。
ハートが言わなきゃよかったと後悔し始めた頃、ギードが口を開いた。
「自分は古い本を読むのが好きでして」
エルフの森の奥にある聖域と呼ばれる遺跡に長く住んでいた。
そこには古代エルフの資料が山のように眠っていた。
本とは呼べない、ただ文字を書いただけの紙もあったが、それでもギードには宝物だった。
ギードは頭の中にある紙の束をひっくり返して探していた。
「古来から記憶を失くした者の話はいくつかあります」
ハートは顔を上げ、ギードの目を真っ直ぐに見た。
「記憶を失くした人が記憶を取り戻すことは稀です」
多くは記憶を失くしたまま、新しい生活をしている。
取り戻せない過去を悩むより、そうやって新しい記憶を上書きして生きて行くのが健全だからだ。
ハートはもやもやしながらも頷く。
「それでも記憶を取り戻した例もある」
ギードの声が低く冷たくなる。
「その時、記憶を失くしていた間のことは、その人にとってはすべて無かったことになることが多いようです」
ハートがびくりと震える。
身体は同じだとしても、同時に違う記憶を持った二人が存在するようなものだ。
「例えば貴方のここでの生活は、貴方の記憶が戻った時、全くなかったことになる」
「そうですよね。もう一人の私はそれ以前の記憶だけしかないもの」
記憶を取り戻した時、それまで二人だったのが一人になる。
「ええ、以前の貴方に戻るということは、以前の記憶の時点に戻るということですから」
都合よく、違う生活をしていた自分を覚えている者は少ない。
「で、この町でのハートさんの記憶がなくなる可能性があるわけだけど」
ハートを見るギードの目は冷ややかだった。
「それでもいいの?」
「あ」
忘れる。
お世話になったおじいさんや先輩や、親しくしてくれた友人やお客様。
「……考えてませんでした」
「じゃあ、よく考えてね」
ギードの微笑みは、ハートには冷たいままだった。




