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完太郎の日記~偵察

作者: 斎賀てるみ

「コーヒー買って来ましたよ、主任」

完太郎は停車中のカローラのドアウィンドーから、助手席の女性に缶コーヒーを渡した。無糖のブラックのあったかいやつである。

そして自分は運転席側に回り込み車に乗り込んだ。

「ありがとう」と返事をしながらも女性の視線はフロントガラスを通した先、交差点の向こう側にあるビルに釘付けになっている。

ここは横浜の、市役所がある官庁街からは少し離れた、オフィスビルや店舗、マンションが立ち並ぶ一帯。

二人の監督官は目の前のオフィスビルの5階に注目していた。

5階に入居している会社が金王エージェンシーという名称である事は確認済みだった。

完太郎の隣で缶コーヒーのプルトップを開けた女性は、完太郎の上司である。労働基準監督署の主任を務める佐々木瑞穂。高橋完太郎はこの春から横浜市内にある労働基準監督署に配属になっていた。


現在時間は午後9時過ぎ。

監督署では通常の業務は終了し、窓口は閉まっている時間である。

しかし、労働基準監督官の仕事には、あえて時間外の夜間の時間帯に抜き打ちで臨検をかける手法がある。

夜にしか営業していない事業(飲み屋とか)や、夜間の残業が疑われる民間企業の現場を押さえるために用いられる方法である。

つい先日、市内にあるオフィスの従業員と称する人物から、長時間労働が行われていると言う匿名の情報があったことから、主任の瑞穂と完太郎に仕事が振られた。


情報によれば、金王インフォーメーションサービスは20人程の従業員を抱えるベンチャー企業でIT関連商品の販売を行うIT商社である。

最近の好景気の波の乗って仕事量が増加し、退勤時間である午後5時を過ぎても延々と残業が行われている事が常態化しているという。

ならば実際に夜になっても仕事が行われているオフィスに臨検をかけるのがやり方としては一番手っ取り早い。


ただ、夜間の臨検は、世間から思われているほど効果的ではない。

ある特定の一日に残業している現場を押さえたとしても、たまたま今日は残業していただけですと開き直られればそれまでである。一日の残業が4時間なり5時間なりを超えたとしても、それだけで法律に違反する事にはならないからである。

常態として長時間の残業が行われているかどうかが問題なのであって、その裏付けを取るために肝心なのは会社が保管している勤務記録を押さえることだ。だが、違法残業をやらせている会社はタイムカードの打刻時間を誤魔化すなどして本当の勤務時間記録を残さない場合がある。

現に今回の密告者の情報によれば、タイムカードを定時に打刻した後、深夜にわたる残業を行わせているとの事だった。

実際に残業が行われている現場まで足を運んでその目で確認するしかない。

佐々木と完太郎のコンビは、そのため現地まで偵察にやって来たのだ。それはさながら刑事による張込みのようなものだった。


オフィスの明りが見える地点に車を停めて、張り込みを始めてからすでに3時間以上が経過していた。

問題のオフィスはカーテンが閉ざされており、内部の様子は窺い知れない。

が、その時、

「見て、高橋君」

佐々木主任が完太郎の脇を小突いた。

これまで何の動きもなかったオフィスの窓に、複数の人間の影がはっきりと映った。

さらに注視していると、カーテンが細目に開けられ従業員らしき男性が顔を出した。

外の様子を見ているのだろう。こちらに気が付いている様子はない。

「踏み込みましょう」主任が言った。

「え?」

17時に打刻されたタイムカードを押さえて、現在残業している従業員の氏名と付き合わせれば退勤時間を誤魔化していることが判明する。一気に片が付けられると言うのだ。


「署長の指示は今日は様子見にとどめろってことじゃなかったですか」

「そんなの臨機応変よ。目の前で違反が行われているのを黙って見過ごせと言うの?」

通常この手の偵察を行うときは、何日かにわたり偵察を行い、外から見て残業が行われていることを現認する。

そうやって実態を把握し、最後に相手に対して動かぬ証拠を突き付けるのだ。

たった一日の偵察で強硬手段にでるのは異例中の異例だ。

「オフィスにいるのが管理職だけだったらどうするんです? 残業違反は取れませんよ」

「そんなわけないでしょ! 複数の人間が仕事してるのを現認しているのよ! あれが全部管理職だって言うの?!」

「現認って、あくまでも窓越しに外からって事じゃないですか」

「だから踏み込んで確認するんでしょ! ここまで来て怖じ気づいたの?!」


主任は自分の言っている事が矛盾しているのに気づいていないのか。

なぜこんなに焦って事を運ぼうとするのか。完太郎には不思議で仕方なかった。


「…午後10時を過ぎても、残業が確認されたら深夜労働と言うことになるわ。そうしたら、踏み込みましょう。決めたわよ」

完太郎は答えなかった。

午後10時以降の時間帯の労働は、法律上深夜労働と言って通常の残業の倍額の割増手当ての支払いが必要になる。

この会社で深夜手当が支払われた実績はおそらくこれまでにない。絶対にやっていない事を今日この日だけやったと言うのは常識的に考えて通らない。深夜残業の現場を押さえれば、向こうは絶対に言い訳ができないだろうと主任は踏んだのだ。


それにしてもたった二人で、中の様子も碌にわからない現場に捜査目的で踏み込もうと言うのだ。リスキーなことこの上もない。

にもかかわらず瑞穂の決意は固いように見受けられた。

完太郎は血の気が引いて行くのを感じていた。

その時である。

「あ、主任」

消えた。

オフィスの明かりが消えていた。

今の今まで煌煌と点っていた明かりが消え、ビルの5階は真っ暗になっていたのだ。

そんな馬鹿な、と言った表情で佐々木瑞穂はフロントガラスにかじり付いた。

しかし、消えた明かりが再び点灯する気配はなかった。

タレコミ情報によれば、この会社では「連日の深夜労働」が行われているという事だった。

しかし、今日一日の偵察で深夜残業が認められなかったと言うのは、どう説明がつくと言うのか。

たまたま今夜は「早め」に仕事を終わらせただけなのか?

こちらの張り込みに気が付いたのか?

それとも、匿名の情報自体がガセネタだったのか?

それをこの場で考えても仕方のない事だ。

「午後9時10分、消灯」

完太郎はメモ帳に記入した。

「出直しましょう、主任。今夜はもう帰りましょう」

佐々木瑞穂は天を仰いだ。


カローラを監督署の車庫に入れた後、完太郎は佐々木主任に飲みに付き合わされた。

行先は馬車道にあるショット・バーである。

佐々木瑞穂にしてみれば、上司として完太郎を夜の仕事に従事させた事と、先程感情的になってしまった事に負い目があったのかもしれない。

「奢るわよ」

と言う彼女の誘いを、完太郎はおそるおそる承知した。

店には完太郎と瑞穂の二人以外に客はいなかった。

カウンター席に並んで腰掛け、若いバーテンが皿に盛り付けたチーズとビスケットを少しずつ齧りながらグラスを傾ける。

完太郎はジンベースのカクテルを薄めに作ってもらったが、佐々木主任は棚に置いてあるウィスキーを指差してショットで飲み始めた。

ハードボイルドな飲み方だ。


酒が回るにつれて佐々木瑞穂は毒づき始めた。

「じゃあどうすればいいってのよ? 指を咥えて見てろっての?」

「残業がないわけじゃないんですから。取り合えず今後も偵察を続ければ、会社の勤務記録がおかしいことの裏付けになりますよ」

「あの署長のことだし、もう夜に動く必要はないって言いだすかもしれないわよ」

深夜労働の事実が抑えられなかった以上、署長は事件の重要性は低いと見て、調査に手間のかかる夜間の臨検から、通り一遍の監督に方針を変更するかもしれなかった。

「署長は弱腰なのよ。男らしくないんだから…まったく」

完太郎は今の職場に配属になってまだ日が浅いのでよくわからないが、どうも署長と佐々木主任は仲が悪いのでは?と疑った。


「主任がその気なら、俺は何度でも付き合いますよ」

「ありがと、高橋君っていい人ね」

その間も瑞穂はグラスを重ねていた。そして話はいつの間にか堂々巡りをして署長の悪口に行き着くのだ。

「ワイルドターキーを、ダブルで」

またそんな強い酒を。


大丈夫ですか、と言うようにバーテンが完太郎に目配せしたが、ここは笑うしかなかった。

しかしさすがに彼女の身体が心配になって来た。明日も仕事はあるのである。

佐々木瑞穂はグラスの酒を次々に飲み干すばかりで一緒に出された水には全く口をつけていないのだ。

「そんなに飲んで大丈夫ですか?」

「らいじょーぶらって! おねーさんにまっかせなさーい」


全然大丈夫じゃなかった。

店を出た時には彼女はぐでんぐでんに酔っ払っていて、まだ終電には間があるが、車を拾うしかなさそうだった。

主任の住まいは戸塚のマンションのはずだった。完太郎が住んでいるのは大船の公務員宿舎なので、戸塚より少し先になる。彼女を降ろしてからそのまま車に乗って自宅まで向かえばいい。

タクシーはすぐに捕まったが、彼女は座席に座るや否や眠り込んでしまった。


戸塚に着いて、完太郎は隣の席の佐々木瑞穂を揺り起こした。

「主任! 主任! 起きてください、戸塚に着きましたよ!」

何とかマンションの場所を聞き出したが、このまま彼女を放置して帰るわけには行かなかった。やむなく完太郎も一緒に車を降りた。

マンションの玄関先にある共同の郵便受けの名札を見て、佐々木瑞穂の部屋が2階である事を確認した。


女を背負って部屋の鍵を開けた。

玄関先に放り出して帰ろうかと思ったら、背中の佐々木瑞穂は「あっち」と指差した。

部屋まで連れて行けという事らしい。はいはいわかりました…と。

奥まりの扉を開けた。部屋の明かりをつけるとそこは寝室だった。フローリングルームの壁際にセミダブルのベッドが置いてあり、他にドレッサーなどの家具はあるが、女性らしい小物はあまり置かれていない。どちらかというと殺風景なイメージの部屋だった。

完太郎は自分の首っ玉にしがみついている瑞穂を引きはがすようにして、ようやくベッドに横たわらせた。

苦しそうな喘ぎを漏らし、身悶えする彼女をそのまま放置して行くのも気が引けて、完太郎はその場にとどまっていたが…。

帰ろうか、と思ったその時、彼女の口から思いがけない言葉が漏れた。

「ねえ、脱がせて…」

そう聞こえた。

完太郎は瑞穂の顔を覗き込んだが、ベッドに横たわる彼女は目をつむり、軽い寝息すら立てているように見える。


もしかして…誘ってる?


肩をつかんで軽く揺すってみたが、目を開ける気配はない。

そのまま時間だけが過ぎて行く。

完太郎は決心した。

薄手のブラウスのボタンを上から順番にはずす。

胸をはだけてから、ジッパーをおろし、タイトスカートを脱がせた。下着の色は上下ともに白であり、清潔な印象を受けた。

ここで両足のソックスを脱がせ、素足にさせる。ここまで脱がせた衣類は、皺にならない程度に軽くたたみ、フローリングの床の上にまとめた。

女はまだ目を開ける様子がない。

下着姿の彼女に毛布をかけて部屋を出て行くことも出来る。

しかし、ここまで来ればもう後には退けない、と完太郎は思った。

佐々木瑞穂の上半身を抱きかかえるようにして背中をまさぐり、ブラジャーのホックを外した。

女の細身の肉体には不釣合いな程の大ぶりな乳房が目の前にあらわれた。

完太郎の心臓が早鐘のように鳴っている。

心なしか女の頬が紅潮しているようにも見える。

酔っているせいか…それとも…発情しているのか。

完太郎は瑞穂の豊かな乳房にむしゃぶりつきたい誘惑にかられながら、再び女の身体をシーツの上に横たえると、最後に残った一枚の下着に手をかけた。

その時…。

「だめっ!!」

女の手が完太郎の手をはねのけ、下着を押さえた。

瞬時にベッドの上を壁際まで後じさり、裸の胸を隠して身を硬くした。

見開かれた女の目には怯えの色が宿り、唖然とする完太郎と睨み合う形になった。

「……」

「……」

先に目をそらしたのは瑞穂の方だった。

「ごめんなさい…」

女の後れ毛が首筋にかかり、だらりと肩を落とした年上の女性は、その時ひどく弱々しく見えた。

「明かり、消して」

瑞穂は再びベッドに身を横たえると目を閉じた。


完太郎は自らのネクタイをほどき、シャツを脱ぎ捨てると、部屋の明かりを消した。

夜の帳の下に女の息遣いが聞こえる。

完太郎はもうためらわなかった。

女の腰をまさぐり、下着に指をかけると、一気に膝下まで引き摺りおろした。

「ああっ…!」

女が短い悲鳴をあげ、あとは静かになった。

完太郎の唇が瑞穂の唇を塞いだのだ。



どれくらい時間が経ったのか。

疲れきった裸の身体をベッドに横たえる男と女の姿があった。

「よかったんですか? これで」

「何言ってるのよ今更」

それもそうだ。後悔するんだったら最初から部屋に入ったりしない。

「高橋君、私ね…」

彼女は淡々と語り始めた。

その口調は仕事の時の彼女のもののようだったが、どこか寂しそうだった。

「いい人がいて、その人のためなら何でも出来るって思ったわ」

仕事一筋だったように見えた佐々木瑞穂に、そんな浮ついた面があったのだろうか。

もちろんそんなイメージも今夜を境にガラリと変わったわけだが。

そんな完太郎の内心を見透かしたのか、

「軽い女だなんて思わないでね。私は真剣だったのよ…あの人のこと」

「……」

それにしても彼女の恋人なんてどんな男なんだろうか。想像もつかない。

「署長よ」

完太郎は耳を疑った。二人の上司である監督署長の木下には妻子がいるはずだ。

不倫の関係にあったという事か。

「そうよ、私は署長の女だったの」

「だった?」

「彼には部屋の鍵を渡してあったわ。それで時々この部屋で会ってたの。

それが先月になってもう君とは会えないだって、鍵を返して来たわ」

「……」

「奥さんに疑われたみたい。ずるいわよね、私最初から奥さんと別れてなんて一言も言ってないのに」


監督官としての、署長への対抗意識かと思いきや、意外や意外、男と女のドロドロしたわだかまりが二人の間にはあったのだ。


「私は空き家になっちゃったってわけ。だから問題ないでしょ、あなたを部屋に入れても」

もし、署長との関係が続いていれば、他の男に隙を見せるような事もなかったということか。

だから今夜の事も、寂しかったから?

「ねえ、私って操が堅いでしょ?」

彼女はおかしそうに笑った。完太郎はつられて笑わないわけには行かなかったが、乾いた笑いにしかならなかった。


「朝になったら出てってね。ごめんなさい、あなたに鍵は渡せない」

「わかってますよ」

その後、明け方になって完太郎が部屋を出て行くまで、ベッドの中の佐々木瑞穂は完太郎に背中を向けたままだった。


日が昇り、出勤の時間になった。

完太郎が眠い目をこすりながら机の上の書類をまとめていると、隣の席に佐々木主任が現れた。

まずい…。目を合わせられない。

しかし佐々木瑞穂はそんな完太郎のナイーブな気分にはお構いなしに、まわりに聞こえる大きな声でこう言った。

「高橋君、今夜付き合ってくれる?!」

ギクリ!

まさかそんな大胆な…。それに昨日の今日だしいくらなんでも…。

周囲にいた職員たちもあっけにとられて耳をそばだてていた。

「例の金王インフォーメーション、今夜も偵察をかけるわよ。昨日は尻尾を押さえられなかったけど、今日こそは絶対証拠を掴んでみせる。今署長にも許しを貰ってきたわ!」

ああ、そのこと…。

完太郎は肩透かしをくった気分に拍子抜けしながら、いつもと変わらない佐々木主任の言葉に吹っ切れた思いがした。


「はい! 喜んでお付き合いします!」

完太郎は元気にそう答えた。


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