第3話
倒そうなどと微塵も思わない。竜種を相手にそんな傲慢なことを考えるのは自殺行為だ。なんとか気を逸らして、逃げる時間がわずかでも稼げればそれでいい。
飛び上がりながら意識を集中するシオンの青灰色の瞳が、すうっと細まる。
狙いは一点。竜の翼のその付け根。
竜種の鱗は、滑りやすく鍛えた鋼よりも頑丈である。切れば流され、突けば弾かれる。ギーが先に狙った様々な感覚器が集まる頭部とそこを狙う以外に手がないのだ。
半ば祈るような気持ちで振り抜いたシオンの剣先が吸い込まれるように届き、翼と肩の付け根の部分を切り裂いた。
ギャォォォォン
悲鳴とともに、ぶおん、と太い縄がしなるような唸りが彼の耳に届く。攻撃は成功した。だが、その成功とは裏腹に、シオンは喜ぶ間もなく怒り狂った竜が繰り出した尾にもろに引っかけられ、地面に叩きつけられた。
地面に跳ね返った反動で、げふ、と肺から強制的に空気が吐き出される。今の衝撃だけでなく、先刻受けた背中の傷をも強打したため、苦痛のあまり声すらも出ず、彼はそこに蹲った。
グウォォォォォォン
竜は巨大な顎を天へと突き出し、怒りの深さを知らしめるかのように、長く高らかな咆哮を放った。
痛みと衝撃とで霞むシオンの目に、竜の周りの景色がゆらゆらと陽炎のように揺らめく様が見えた。それがなんであるか悟ったシオンは愕然とし、つかの間、痛みすら忘れて、必死で身を起こそうともがいた。
「……やばいっっ!」
竜の周りに急速に炎の精霊が集う。
精霊を使役できるのは、なにも人間の術士だけではない。魔獣の中には、その身の内に精霊を取り込む因子、もしくは、器官を持ち、精霊を使役できる個体がいる。
特に目の前で暴れている竜種は必ずと言っていいほど、それを持っている。竜種が魔獣の中でも最強種と目される所以の一つであった。
高密度に膨れ上がった炎の精霊力はその姿を具現化させ、竜の顎に集い、爆炎の炎となって吐き出された。
「…………!」
思わず腕を翳して顔を覆う。しかし、彼を飲み込もうとする猛烈な炎の洗礼を寸前で阻止したのは、彼の腕ではなく、ギーだった。ギーは白い疾風と化してシオンの襟首を捉え、岩陰へと引きずり込んだ。
むろん、ちっぽけな岩程度では灼熱の竜炎を防げようはずもない。そこに第三の力が割り込んで、絶体絶命の淵にある彼らを救おうと、その力を振るった。
炎の精霊が練り上げた高温の竜炎に、別の精霊力が激しくぶつかり合う。
水の防壁、と呼ぶに相応しい水の精霊が創り出す、竜の背ほどもある小高い壁がすっくと立ちあがり、竜炎の行く手を阻む。火と水との二つの精霊力の凌ぎあいは、大量の水蒸気と熱を生み出し、凄まじい白煙が唸りを上げて戦場を覆い隠した。
「熱いっ!もちっと、ましな助け方は出来ねえのかよ!」
「助けたんだから、文句を言わないで!」
いくら水辺に近いとはいえ、これだけの精霊を呼び集めるのは、相当な呼びかけと集中力を要するのだから誉めてほしいくらいだとシェリルは憤慨した。
「ちょうどいい。この煙に紛れて逃げるぞ」
「待って、あの子がいない!」
この期に及んで、まだあの獣相の子どもを心配するシェリルの常識のなさに、シオンは声を荒げる。
「馬鹿言ってるんじゃねえよ!あいつは間違いなく、あの魔獣のガキだぞ!あんなもんに関わったから、こんな目に遭ってるじゃねえか‼」
「……でも!」
その時、竜が大地を震わせて、三度目の怒れる咆哮を高らかに上げた。
「ちっ!遅かったか……」
「違う!あたしたちじゃない!」
辺りを白に染め上げていた白煙の切れ間に、あの幼子がいた。無邪気な笑顔を浮かべて、竜に向かって精一杯に両手を伸ばす。
しかし、子どもを見据える竜の眼には、愛する我が子に対する慈愛の感情など微塵も感じられない。その血に飢えた朱金色の眼は、今や沸々と煮えたぎる溶岩のごとき熱い怒りと殺戮の欲望だけが、ぐるぐると渦巻いている。
「怒りに我を忘れてやがる。 あの子ども、やばいぞ」
シオンの言葉が終わらぬうちに、シェリルは子どもに向かって走り出していた。無謀なことをやっていることは、十分わかっていた。でも、心が耐えられなかった。
人間にも、魔獣にも属すことの出来ない獣の子。実の親の手にかかるというのなら、この子どもは、何のために生まれてきたのか。
どんな子だって、幸せになるため、それだけのために、生まれてきたはずじゃないの!
心で絶叫したシェリルが身を挺して子どもを庇ったのと、凶悪なほどにギラギラと輝く鋭い竜の爪が振るわれたのは、ほぼ同時と言ってよかった。
シアワセ、ネガウ、ココロ。キレイナ、キレイナ、チカラ……
片言のたどたどしい言葉が、ぎゅっと目を瞑ったシェリルの頭の中に突然響いた。そうっと目を開いた彼女は、唖然として腕の中の幼子を凝視した。
子どもの額の中央からキラキラした光が溢れ出している。子どもは驚いた彼女の心を見透かすかのように、ふわりと微笑んだ。
その瞬間。
世界からすべての色が消え失せ、爆発したかのような真白の光が膨れ上がった。圧倒的な精霊力が呼び寄せたわけでもないのに、忽然と発現して彼女たちを包む。
シェリルは、この時ようやく悟った。
なぜ、臆病なはずのティラグが、危険に過ぎる竜の縄張りなんかにあんなに集まっていたのかを。なぜ、あれほどに喜びの歌を捧げていたのかを。
この子どもがいたから、なのだ。
こくり、と息を飲み込む彼女の眼前で、子どもの夜闇を溶かし込んだかのような黒髪さえ色褪せる強烈な白金の光が、雪の結晶にも似た紋章をその額にくっきりと浮かび上がらせる。
やがて、辺りを包み込むまでに光度を増した紋章の光は、動きをやめた竜の正面で四散し、七色の光の細かな礫となって降り注いだ。
降り注ぐ光に触れた竜の眼から灼熱の怒りが消えていき、翼の傷が見る間に治癒されていく。
同様に、シオンもまた光の礫の恩恵を受けていた。手に負った火傷や背中の傷の痛みが、見る間に消えていく様に、ただただ驚くことしか出来ない。
「何が起こってるんだ……」
不可思議な光によって落ち着きを取り戻した黄金の翼竜は、愛し気に大きな鼻面を子どもに摺り寄せた。
しかし、子どもは紋章の光を輝かせたまま、魂を奪われたかのように、表情一つでさえピクリとも動かない。心配したシェリルが、子どもの額に触れようとした瞬間、ぱあっと花開くように、紋章から再び力強い光が生み出された。
「……誰?」
光は子どもの頭上に収束し、一人の青年の幻影を映し出した。
シェリルの問いかけに視線を向けた幻影の中の青年は、目の前の幼い子どもと同じ、漆黒の髪と澄んだ翡翠の瞳を持った端正で美しい容貌をした若者だった。
光の中でぼんやりと淡く揺らめくその様は、繊細な風情の彼の印象をより一層儚げなものに思わせる。そして、その額にもまた、幼子と同じ紋章が落ち着いた白銀の輝きを静かに放っていた。
「慈愛と勇気に満ちた娘よ……」
幻影の青年は、その声すらも爽やかな風を思わせる涼やかで心地良い響きを持っていた。彼は翡翠の瞳に真摯な光を湛えて彼女を見据え、言葉を重ねる。
「君にこの子どもを託したい。この子をノルティンハーンへと導く手助けをしてはもらえないだろうか」
「ノルティンハーン⁉」
それは確か古い古いおとぎ話に登場する城の名前だ。実在すると知って、シェリルは驚きとも喜びともつかない声を上げた。
「彼が導いてくれるだろう」
黒髪の青年の指名を受けて、黄金の翼竜が誇らしげに翼を広げて、承諾の意を示すような仕草をする。
……冒険だ。夢にまで見た英雄たちみたいな冒険が始まるんだ。
シェリルはドキドキと高鳴り始めた胸の辺りに手を置いて、踊り出しそうな心を落ち着けようとした。そうでもしないと、本当に踊り出してしまいそうだ。
「ど、どうして見ず知らずの人間にそんなこと頼むの?あなたの方があたしよりずっと……」
うまく行き過ぎて怖い。少し落ち着いてくると自分が望んだ通り以上の展開に、物怖じしないシェリルもさすがに何とも言えない怖さを感じ始めた。それに、術士である彼女には何となくではあるが、わかるのだ。この青年から感じる、彼女のものとは比べものにならないくらいの強い術士の才を。
「この力は、私のものではない。この子の力だ。しかし、もう既にそれも限界のようだ」
彼の言葉通り、幻影の姿は先ほどよりもさらに淡く儚げになってきていた。時間がないのは確かなようだが、一度感じてしまった怖さは拭えない。シェリルは彼の願いを受け入れるべきか否か、判断に迷った。
「あたし、あたしは……」
憧れていた。
村を出ることを。物語や詩の英雄みたいに冒険の旅に出ることを。けれど、叶いそうになった今、怖気づいた心が一歩を踏み出せないでいる。
不意にぎゅっと温かい何かが彼女の腕を掴んだ。
ドキリとして見ると、彼女の腕の中で身じろぎもせずにいた子どもが、彼女の腕を強くつかんでいた。伝わる温かな感触に、はっとなる。
(なんて臆病なの、シェリル!)
自分で自分を叱咤する。こんな小さな子どもを見捨てるなんて、外の世界に憧れて、英雄に憧れて家出を繰り返していた自分はどこへ行ったの!そう思った時、彼女の心は決まった。
シェリルは小さく笑うと、温かいぬくもりを確かめるように、子どもをぎゅっと抱きしめた。
「……あなたの名前、なんていうの?」
「名前?」
求めていた返事ではなく唐突な質問に、さらに朧げになってきている青年の顔が困惑する。
あら、そんな顔もできるのね。表情乏しく、彫像のようだと思った彼の表情の変化を楽しむように、シェリルはいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「だって、届け物をするのに相手の名前を知らないなんて、お話にもならないわ」
ね、そうでしょう?くすくすと膨らんでいく笑いを言葉に乗せる彼女に対して、断られることを半ば覚悟していたふうに表情を強張らせていた青年は、ポカンと口を開けた。
美しすぎて、儚すぎて、どこか人ならぬものを感じさせていた彼の唖然とした表情は、とても人間らしくて、ますます親近感がわいてくる。
ふふ。ふふふっ。彼をそんな表情にさせたことが嬉しくて。胸に抱く温かいぬくもりが愛しくて。
彼女はとうとう笑いを弾けさせた。
やがて。
やがて、深い憂いを漂わせていた青年も彼女の笑いにつられるようにして、晴れやかな微笑みを浮かべた。曇天の空から覗く一条の陽の光にも似たその微笑みに、シェリルは思わず見惚れた。
「私の名は、ディスクード」
ディスクードの幻影の手が、シェリルの頬を優しく撫ぜるように触れたかと思うと、彼の姿は紋章の光の残滓の中に速やかに消えていった。
後に、彼女が出会うすべての者に波紋を投げかける言葉を残して。
「……かつて、光皇と呼ばれた者だ」