第1話
どこまでも続く濃い緑。初夏の日差しを浴びた木々の葉が、むせ返るような匂いを振りまいている。普通の状況なら心和む風景になるはずなのだが、彼はいささかうんざりしていた。
微かな水の匂いを頼りに、街道を外れて森の中に踏み込んだまではよかったが、森中にむせ返る緑の匂いに邪魔されて肝心の水の匂いを見失い、すでに、何時間も森を彷徨っている。
こうなってくると、普段から着慣れた革鎧や腰の剣までもが重く鬱陶しく感じられる。まったく手入れをしていない、くすんで傷み伸び放題になったぼさぼさの髪を、彼はいらいらと搔きむしった。
「ついてねえなあ」
一人愚痴てはみるものの、気になりだした喉の渇きはますますひどくなっていく。この辺りだと最低でも三日は歩かないと、人の住んでいるような場所にはたどり着けない。水だけでなく、手持ちの食料だって乏しい。呑気に構えていては行き倒れになってしまう。
どうしたものかと途方に暮れ始めていた彼の耳に、突然、森の静寂を破ってけたたましい女の悲鳴が響き渡った。
「どうやら、まだツキは残っているようだな」
彼はニヤリと笑うと、「水音」と女の悲鳴が聞こえた方角に向かって駆け出した。
悲鳴が聞こえた場所に近づくにつれて、背の高い下草や倒木に足を取られるようになり、木々も水辺が近いことを示すかのように細く低くなっていく。彼は期待に胸を躍らせながら、迷うことなくどんどん歩を進めた。
「この辺りだった……か?」
がさがさとまとわりつく背の高い茂みを掻き分け、さらに一歩を進めた次の瞬間、彼の体は支えを失って宙に浮いていた。踏みしめたはずの青々と茂った草の下、と見えたのは張り出していた低い崖で、その下には清い水を湛えた美しい泉が彼を待ち受けていた。
皮肉なことに、彼はあれほど待ち望んでいた水の中に、思い切り全身で突っ込む羽目になった。
「……ついてねえっっ!」
やり場のない怒りを水面に叩きつけて、派手な水しぶきとともに立ち上がると、腰ほどの水をざぶざぶと掻き分け、やっとのことで岸にたどり着いた。
浅い泉であったものの、旅用の厚く長い外套と装備の重みで危うく泉と心中するところだった。
「こんなことで死んだら、笑い話にもなんねえよ……」
情けない気持ちを口にしながら、濡れそぼった外套の留め金を外そうと肩に伸ばした手が、ぴくり、と止まる。そのまま流れるような動きで、腰の剣帯に収まった剣の柄に手を伸ばし、鋭い刃を背後に向かって一閃させた。
命のやり取りなど日常茶飯事の傭兵を生業にしてきた青年の鍛えられた本能と経験の成せる技である。
彼の背後に音もなく迫っていた気配は、鋭い斬撃を辛うじて躱すと、間合いを取ってひらりと地に降り立った。
白地に黒い虎斑模様という変わった柄の大山猫が、そこにいた。大山猫は炯々と青光りする眼で彼を睨み、上体を低くして威嚇の唸りを上げる。
彼もその敵意を受けて、二撃目を放とうと構えを取る。その瞳からすう、と温度が失せ、数年来危険と背中合わせに生きてきた傭兵らしい不敵で冷たい刃にも似た輝きが宿った。
両者は位置をゆらりと変えつつ、じりじりと間合いを詰めていく。
張り詰めた空気を破って先に攻撃を仕掛けたのは、彼の方だった。大山猫に向かって猛然と突進し、下段に構えた剣をすい、と斜め上に跳ね上げて、山猫の眉間を狙った鋭い一撃を放った。山猫が彼の予測通り、彼に相対しようと襲い掛かったなら、この攻撃は成功していただろう。
しかし、大山猫は彼の刃が届く寸前に発せられた女の悲鳴によって、予測に反する行動を取った。くるっと瞬時に向きを変えると、声を発した女の元へと全力で走り出した。
標的を不意に失ったことで姿勢が乱れ、鋭い斬撃は空しく虚空を薙いだ。
「なんてことすんのよっっ!」
きんきんとした金切り声が彼に向けられる。大山猫を庇ってきつい表情を見せているのは、彼とあまり変わらないくらいの年頃の娘だった。少しつり気味の大きい瞳が、さらにきりりとつり上がって彼を睨んでいた。
娘の髪と服からぽたぽたと滴り落ちる滴を見て、先ほどの悲鳴の主は彼女なのだと知れた。それと同時に、自分自身もまたずぶ濡れのままでいることも思い出す。
「そんなに大事なら、首輪と鎖でもつけて目の届くところに置いとけ。躾がなってねえぞ」
目の前の生意気そうな娘と同じ失敗をしでかした苛立ちと、ずぶ濡れの不快感に襲われながら、彼は舌打ち混じりに剣を鞘に戻した。彼の悪態に、娘はさらにきりきりと眉をつり上げる。
「なんですって!」
「だいたい、女一人でこんな山奥をうろうろしてたら、山賊や魔獣に襲われたって文句も言えやしないぜ。こんなとこで何してんだよ、お前」
青年の台詞に、彼女はうっと詰まった。そうして、そわそわと目をそよがせる。彼女、シェリルとて好き好んでこんなところにいるわけではなかった。早い話が……。
ああ、そういうことか。その様子を見て取った青年は、意地悪くにやり、と笑った。
「……迷子、か」
「なっ、何であんたにそんなことっ……!」
彼の言葉が図星だったらしく、シェリルの顔がかあっと真っ赤になった。英雄譚に憧れていた彼女が、お使いもろくに出来ずに迷子になっただなんて、恥ずかしくて言える訳がない。が、根が正直すぎる彼女にそれを隠すことなど出来るはずがなかった。
くるくると表情を変えて慌てふためくシェリルをしり目に、青年の頭は打算的に動いていた。
路銀も残り少ない。この女を村に連れ帰ってやれば、何日かは凌げるかもしれない。よし、そうするか、と彼が思い定めた時、不意に鼻先を何かが掠めた。
「ティラグ!」
「何だよ、そりゃあ」
シェリルが上げた驚きの声に、彼の訝し気な声が重なった。彼女の視線に合わせて目線を向けた先には、非常にぼんやりした小さな光の玉が、ふわふわと木々の合間を縫って森の奥へと消えていくのが見えた。
「光の精霊の一種よ。見たことないの?」
「……お前、術士なのか?」
「そうよ」
こんなド田舎の、しかも迷子の娘が術士と知って、彼は驚いた。
まだ、天地も定まらぬ創世の時代。空に浮かぶ二つの月、黒き月と白き月の破片を集めて、神々はルオンノータルを創造した。そして、何もない無垢な大地に生命を根付かせるために精霊を創造したという。
精霊はそれぞれ、光、闇、風、火、水、土の六種の力に変化し、神々の命ずるまま、ルオンノータルの地を包み込み、世界を存続させる源となった。
後に人間を見捨てて白き月に逃げ帰ってしまったと伝えられる神々より、人々は自然そのものである精霊を敬い尊んでいる。
偉大なる自然たる精霊たち。その精霊たちと意思の疎通の出来る素養を持つ者を「語る者」と呼ぶ。さらに、その「語る者」で、精霊を使役することができるようになった者を「術士」と呼ぶのである。
神々が世界から立ち去った後、苦境に立たされた人々は、術士を中心として精霊の助力を受け、魔獣や天災に抗い文明を築いてきた。
しかし、精霊たちを認識できる「語る者」たる素養を持つ者は少なく、数少ない彼らしか「術士」になることは出来ない。そのため、今日では、多くの「語る者」の素養を持つ者は、国や精霊祭殿などに半ば親元から攫われるようにして幼い頃から強制的に召し上げられ、長じて「術士」となると、戦や政争に利用されて一生を終える。
また、数少ない貴重な存在ゆえに、金になる彼らを巡って盗賊や術士狩りといった悪党によって潰された村や町が数え切れぬほどあるとも聞く。
ところが、今、彼の目の前にいる娘は、彼にしてみれば常識外の人間だった。警戒心がまるでない。さらっと正直に自分が術士だと言ってのけるあたり、悪どい連中にとって自分がどれだけ金になる存在なのか、まるでわかっていないことを暴露して余りある。
(この物騒な時勢に、これか。この女の村って、どんだけド田舎で平和ボケしてんだよ)
これから向かおうと算段していた村に不安を抱き始めた彼の内心をよそに、シェリルは大山猫を伴って、ティラグとやらが消えた方向へとどんどん歩き始めていく。
「おい、ちょっと待てよ」
慌てて後を追った彼は少しよろめいた。崖上は平坦な草むらだったのに、崖下の泉付近の足場は意外に悪く、大きな石ころや倒木といったものが、草の根の隙間から意地悪そうに身を乗り出していた。足場の悪さに舌打ちしながら、彼はシェリルに追いついた。
「おい、待てって。何か変なものでもいたらどうすんだよ」
「だーいじょうぶよお。ティラグは精霊の中でも一番臆病なんだもの。危険なところには絶対現れやしないわ」
恐れを知らぬ娘がそう言って振り返った時、彼女は尖った頭を突き出していた石につまずいて、ぐらりと身体を傾けた。彼は咄嗟に彼女を受け止めたが、彼女の体が想定以上に軽く、勢い余ってそのまま地面に倒れこんだ。
「ちょ、ちょっと、大丈夫?」
「……心配してるんなら、早いとこ退いてくれ」
彼の腹の上に尻をつく格好になったシェリルは、はっと気づいて慌てて飛び退き、恥ずかしそうに顔を赤らめた。気まずい沈黙の中、二人はお互いをしばし見つめあう。
「ふぅーん」
飛び退いた後、少し間合いを空けていた娘は、やおらにずいっと彼に顔を近づけた。大きな焦げ茶色の瞳の中に映る自分が見えるくらいの近さに、彼の方が焦って顔を仰け反らせた。
「な、なんなんだよ!」
「……嫌な奴かと思ったら、案外、良い人なんだ」
にこっと笑った彼女の笑顔は、彼の「冷徹であれ」を信条とする傭兵の仮面を一瞬にして取っ払った。この不意打ちで、彼の顔は年頃の初心な青年の素顔を晒して、頬どころか首まで赤く染まった。
こいつ!慌てて仮面を取り戻して表情を立て直し、何か言い返してやろうと思ったが、咄嗟にうまい言葉が出てこない。
そんな慌てる彼の様子がおかしかったのか、娘はけらけらと大きく笑い、まだ倒れたままでいる彼に手を差し伸べた。
「名前、まだ言ってなかったね。あたし、シェリル。そっちが、ギー」
シェリルの紹介を肯定するかのように、大山猫が小さく甘えたようにアォンと鳴いた。
「……シオンだ」
シェリルと名乗った娘に助け起こされながら、シオンもシェリルを改めて観察した。明るい鳶色の髪に焦げ茶色の大きな二重の瞳。勝気でうるさそうなのが難点だが、黙っていれば、まあ、かわいいと思える顔立ちである。
(まあ、それなりに、かわいいとこもあるようだし……)
出会いは最悪だったが、差し引いてやってもいいか。娘に対する悪印象が好転しかけた彼に、シェリルが不思議そうに問うた。
「シオン?シオンだけ?傭兵なんでしょ?二つ名とか持ってないの?」
「…………は?」
「だって、傭兵って、みんな、迅雷のエリオンとか、白銀のレイフだとかって、二つ名を持ってるものなんでしょう?」
一瞬、凍ったかのようにシオンの思考が止まった。そうして、しばしの間を置いて、ようやく気を取り戻すことに成功した彼は、こめかみをひくひくとさせつつ、ゆっくりと大きく息を吸い込んだ。
「馬鹿か、お前は!簡単に二つ名名乗れるほど、傭兵は楽な商売じゃねえんだよ!だいたいそんな伝説級の英雄がごろごろそこいらにいるわけねえだろうが!その年になってまで、吟遊詩人の与太話を真に受けてるんじゃねえよ!この田舎娘‼」
怒涛の悪態に思わず仰け反ったシェリルに、ふんっ、と荒い鼻息を残して、シオンは彼女に背を向けずんずんと前に歩き出した。
「あ、あ、ちょっと待ってよぉ」
先ほどとは逆に、今度はシェリルがシオンを追う形となった。背後を振り返る気すら失せたシオンは、ぼそりとつぶやいた。
「前考撤回だ。あれはいろんな意味で、ダメな女だ」
こういう夢見がちで世間知らずな女に関わると、碌なことにならない。
おそらく、いや、きっと、たぶん。