第3話
神殿の天井が魔狼の衝撃波によって、大小の瓦礫となってガラガラと降り注ぐ。誰もが必死になって逃げ惑う混乱の極致の中、大量の出血のために意識を失いかけているシオンを、ベセルドたちが必死に介抱し続けていた。
「だめだ。止血はできても、切られた腕がなければ繋ぐことができん」
大神官が汗に塗れた皴だらけの顔を、無念そうに歪める。
「そんな……!兄上は剣士なんですよ!利き腕を失うなんて、そんな……酷い、酷過ぎます!」
「私だとて、なんとかしたい!が、再生は創造を司るという光皇陛下の御業。わしらではとても……」
ウデ?サイセイ?
……ああ、そういえば、俺、あいつに腕を切り落とされたんだっけ。混濁していた意識を次第に取り戻し始めたシオンは、じくじくとした痛みでぼんやりする頭で、他人事のように記憶を振り返る。
「…………っく⁉」
その時、新たな痛みが彼を襲った。ずくんずくんと脈打つ痛みを訴える傷口に、焼けた火箸を思い切り押し付けられた。そんな感覚すら覚えるほどの凄まじい苦痛が彼を責め苛む。
熱い!
右腕がドロドロに溶かされていくような、神経すべてを炎の舌に焙られているような、壮絶な痛みに彼は絶叫を上げた。
「うぁああぁあああっっ‼」
耐え切れない痛みと熱とから逃れようと、彼は必死に体を動かして暴れた。が、その体は、がっちりと押さえられて身動きすらできない。
「ぃや、だ。……だ、誰、か……」
もう、嫌だ。誰か、助けて!恥も外聞もなく泣いて喚いて許しを請おうとしたシオンの耳に、それは届いた。
「もう少しよ、頑張って、シオン!しっかり押さえてて!これ、結構痛いんです」
「……シェ、リル?」
懐かしい声、懐かしい声の主の名を思い出した彼は、はっと目を見開いた。
「殿下!」「兄上!」
意識を取り戻したシオンを、汗塗れだが安堵の色に満ちたベセルドとジルナーシュが覗き込む。気づけば、あの恐ろしい激痛が嘘のように消えていた。
つ、と右腕を目の前に掲げる。失われたはずの肘から先は、元通り、いや、それ以上の染み一つない、綺麗な腕が存在していた。
「あの方が、兄上の傷を癒してくださったのですよ!」
呆然と腕を見つめている彼に、ジルナーシュが慌てて恩人を指し示す。
「シェリル!」
ラウルと何やら話をしていた彼女が、元気よく彼に手を振る。
「シオン、ありがとね!後は任せて、休んでて!」
そう言って、ラウルに再度振り返った彼女に、シオンは青筋を立てて怒号を飛ばした。
「この馬鹿!ふざけたこと抜かすな‼」
「シ、シオン?」
「ここまでコケにされて、俺に指くわえて待ってろって言うのか⁉冗談じゃねえ、俺も行くからな!」
「だって……」
シェリルはシオンの剣幕に驚くと同時に、困った顔をした。彼はジャドレックの王太子だ。自分たちと違って背負うものがある。彼にもしものことがあったら、ジャドレックの人々にどう詫びればいいことか。
「殿下」
「止めるなよ、フィルダート!お前が何と言おうと、俺は行くからな!」
「御冗談を」
「え?」
「御冗談を、と申し上げました。剣帝の御子ともあろう御方が、女性を戦わせて陰で震えていたとあっては、このジャドレック、世界中の笑いものとなりましょうな。あの御方も、軟弱者の息子を持ったと、さぞかし嘆かれることでしょう」
言い終える間もなく、フィルダート公の脇に控えていた騎士見習いの少年たちが、鎧や剣などの装備を差し出す。あれほどの混乱の中でよくぞ、とも言うべき手際の良さに、シオンがにやりと笑う。
「なあ、帰ってきたら、青春時代とやらの話をたっぷり聞かせてもらうから、首を洗って待ってろよ」
「……ご武運を。必ず、お戻りくださいませ」
装備を引っ提げ、シェリルに向かって駆け出したシオンに、フィルダートは深々と敬礼を捧げた。
「ディセルバ、行って!」
シェリルの声に、ラウルが重々しく頷いた。
「お前、やっぱり、ディセルバだったのか!」
「ベセルド……」
ジャドレックとポルトロの傭兵団は、幾度となく小競り合いと和平とを繰り返していた。ベセルドとディセルバは、この四年、お互い敵になったり共闘したりといった関係だったが、双方の有能さは認め合い、和平時には酒を飲み交わすほどの仲だった。
なぜ、言わない、と咎めるように恨めしい顔をする男に、偽り続けたラウル、こと、ディセルバは、なんとも言えぬ寂しい表情を作った。
「……すまん、ベセルド。お前の知っていたディセルバという男は死んだ。もう、奴のことは忘れてくれ。俺は人間とは違う化け物になっちまったんだ。だから……」
くるりと背を向けた彼の姿が、幻影のようにゆらりと歪むと、猛烈な黄金の霊気の中へと消えた。
人々の目を射るような激しい黄金の光が収束した後に現れ出たのは、巨大な肉体を鋼以上の硬度を誇る鱗で覆い尽くした黄金の翼竜であった。
先ほどの紫銀の魔狼の出現で、聖天騎士の正体に薄々気づいていた人々であったが、人間という種の魂の奥底にまで刻まれた原初の恐怖を拭い去ることなどできはしない。黄金の翼竜とついさっきまで言葉を交わしていた男とが同じものだとわかっていてもだ。彼らは最強種の魔獣を前に、じりじりと後退去った。
竜身と化したディセルバは、憂いに満ちた眼を背けると、シェリルとシオンに騎乗するよう仕草で示す。二人を乗せた翼竜は大きな黄金の翼で陽の光を跳ね返し、その巨体の重量を感じさせることなく、ふわりと舞い上がり空へと飛翔を開始する。
「ディセルバ!」
群衆の中から飛び出したベセルドを遥か下方にして、竜が朱金色の眼をぎょろりと向けた。
「殿下たちを頼む!必ず、帰ってこい!一緒に勝利の祝杯を挙げよう!」
竜は声を張り上げるベセルドに、微かにニヤリと笑んだように見えた。返事を返すようにバサリと大きく翼を一閃させた竜は、空に一条の金色の軌跡を残して、一気に空の高みへと消えていった。
「お前とベセルド、そんなに仲良かったとは、知らなかったな」
「……お前が、それを言うのかよ。お前が行方不明の間、あいつ散々泣いてたんだぞ。殿下ー、殿下ーってな。うっかり飲ませ過ぎると、必ずそれやるからそこだけは堪んなかったぞ」
「……悪かった」
「……ま、まあ、うん、謝るのは、あいつに言ってやってくれ。あいつと俺は、なんていうか、そう、若い者同士気が合ったって奴だ。俺もあいつも、異例の若さで目をかけてもらってたくちだし、おかげで、上司や同僚の揚げ足取りにゃあ、お互い泣かされてたしなあ」
「ふぅん。……で、お前、どういう経緯で、聖天騎士になったんだよ?」
ぐぅるるるう。シオンの問いに、ディセルバがさも嫌そうな低い唸り声を上げた。竜身でそんなことをされると、かなり怖い。怯んだシオンの横では、シェリルも何とも言えない嫌な顔をしていた。
「……な、なんなんだよ」
聖天騎士は、伝説の彼方に消え去ったとはいえ、吟遊詩人の伝える歌や御伽話、伝承の中でも大人気の英雄であり、ルオンノータルに住む男ならば、子どもの頃、必ずと言っていいほどに憧れる存在だ。シオンには、むしろ、彼らの態度の方がよっぽど不思議でならない。しばしの沈黙の後、ディセルバが渋々、といった感じで話し出した。
「聖天騎士ってのは、光皇と契約を交わした魔獣が人間を喰らって融合し、その姿と記憶を得て生まれるものだ。もちろん、喰われた人間もまた、魔獣の肉体と記憶を得る。こいつに会った時、俺のすべてをくれてやるから、お前のすべてを寄越せと言われた。どっちにしろ、その時の俺は、樹海の淵で死にかけて、血の匂いを嗅ぎつけた魔獣どもに喰われる、一歩手前ってとこだったから、ああ、こいつもそんな奴らの一頭か、とそう思ったんだよ。俺はあっさり承諾したよ。どうせ喰われるんだから、どうにもならねえってな」
そこまで語り終えたディセルバは、ぶるりと身震いした。危うく体の均衡を崩しかけたシオンは、眼下に広がる王都の建物の小ささにぞっとした。勘弁してくれ、とばかりに、ディセルバの竜身にしっかとへばりつく。
「……ところが、それはとんでもない間違いだったと、喰われ始めてから気がついた。質の悪いことに融合なんだよ。俺とこいつは同調してるんだ。喰われる苦痛も、喰う満腹感も同時に味わうことになっちまった。わかるか?自分で自分を喰って、苦しみ満たされるって気持ちがさ。当然、意識もはっきりしたまま、壮絶な痛みを受け続けることになる。そのせいで、俺はしばらく正気を取り戻せなかった。……傭兵団の砦を襲っちまったのもその時だ。ディスクードが止めてくんなきゃ、ポルトロも襲ってたかもな」
寒い。シオンは高所ゆえの外気の寒さだけではない寒さに、ぶるりと身震いをした。背筋が凍る、そんな感じの話だ。気づけば己の右腕をしきりと擦っていた。右腕だけでもあの痛みだ。意識も失えずに喰われ続けるなど、想像することすら恐ろしい。
シェリルも光皇たちより得た知識として知り得たが、実際に実体験を聞かされると、それがどれほど凄絶なものであるかが、改めて知れた。
そんな過酷に過ぎる思いをしてまで、あの男は聖天騎士となり、ディスクードに尽くして、尽くし過ぎて、自らの心を壊してしまったのだ。
「ゼフィアス……」
シェリルは、今はまだ見えない、遥か虚空にあるノルティンハーンにいるであろう男の胸中に思いを馳せた。