第3話
村への帰途に就いたティルトの目に、松明の灯火が揺らめき近づいてくる。
「ティルト?ティルトじゃないか」
「マシウスか。もしかして、みんなでシェリルを探しているのか?」
「いや。俺はてっきり、お前と一緒だとばかり思っていたが」
マシウスはティルトがシェリルと連れ立っていないことを意外に思ったが、それ以上は何も聞かなかった。オランジュは彼女に用事を言いつけたことを、村のみんなに話していないのだろうか?
まったく人騒がせな。一体何を考えて……。今日、何度唱えたか知れない台詞をつぶやきかけたティルトは、それを中断した。
「何かあったのか?」
マシウスのただならぬ表情に、ティルトは胃のあたりにざわめきを感じ始めた。
「鍛冶屋の親父んとこのピュルカとマールが遊びにいったまま戻ってこない。大方、遊びに夢中になって、森の中ででも迷子になってるんじゃないかと思うんだが。今、みんなで探してるところだ」
二百人にも満たない小さな村だ。すぐに顔と名前は一致する。仲のいい姉弟で、威勢の良い姉の後を必死でくっついて回っている幼い弟の姿をよく目にしていた。
「俺も手伝おう。この辺りだって野犬が出ないわけじゃないからな。早く見つけてやらないと」
「頼む」
ティルトはマシウスと別れ、それぞれ道を外れて森の中へとその身を沈めた。
足元も見えないくらい暗い森の中を幼い姉弟の名を呼びながら、ティルトは複雑な思いを隠せなかった。シェリルが用事とはいえ、ついに憧れの外へと飛び出していった日に、まるで時期を図ったかのように子どもが行方不明になる騒動が持ち上がる。村に絶えて久しかった不測の事態だ。
変化。
そんな言葉がティルトの頭をよぎる。そう、これは、変化だ。この一連の出来事は、時に忘れられた村が長い長い眠りから覚める予兆なのかもしれない。
もし、そうなのだとしたら?
ティルトの足が、はた、と走ることをやめた。池や沼に落ち着いて動きを失っていた水でも、ほんのちょっとしたことがきっかけで流れ動き始める。時には奔流や濁流となって。止まっていた時間が長ければ長いほど、その反動は大きい。
また、胃のあたりがざわざわとざわつき始めた。嫌なことが起こりそうな予感ばかりがする。ティルトは我知らず空を仰いでいた。
ルオンノータルの地に、神はいない。
かの神々たちは人間を見捨てて帰ってしまったのだと言われている。あの皓皓と冷たく輝く二つの月のひとつ、白き月に。
それでも、ティルトはそんな非情な神にさえ祈らずにはいられなかった。
(災厄の神よ。どうか、この村を忘れたままでいてください……)
だが、それは空しいものでしかなかった。既に、時と災厄の神は、目覚めた後だったのだから。
生臭い臭いと生暖かい風とにピュルカは目を覚ました。目をこすって辺りを見回し、真っ暗になった森に驚く。弟と森に遊びに来て、そのまま寝過ごしてしまったらしい。
(お母さんに怒られる!)
森に遊びに行ってはいけないと、何度もきつく言い聞かされているのだ。お尻をぶたれるくらいでは済まされないかもしれない。
お仕置きの怖さにぷるっと身震いした彼女は、慌てて地面をまさぐると、弟のマールの小さな手に触れた。どうやら弟も彼女と一緒になって眠り込んでしまったようだった。ピュルカは少しほっとして、マールを起こそうと起き上がった。
ぼたり。
突然、頭の上に大きな滴が落ちかかってきた。それは頭から伝わって頬へと落ちる。触ってみると、生暖かくてべとべとしていた。
ぼたり。
今度はもっと近くから落ちた。ピュルカは思わず頭上を仰いだ。
それは、森の暗闇よりもなお暗く、ピュルカの頭上を覆うかのように存在していた。小山のごとき身体がゆらゆらと上下するたびに、生暖かく生臭い息がふうふうと彼女に吹きかかる。
幼い少女はカタカタと震える手で、弟の手をきつく握りしめた。
そして。ついにそれと目が合った。
赤く血のように濁った眼が、少女をじっと見つめる。その眼を見た途端、ピュルカは全身の血が凍りつく恐怖を感じた。だが、彼女の体はその意思を裏切って、生存本能のままに反射的に動き出していた。
弟の手を引っ張り、それの大きく開いた脇をを搔い潜って、するりと駆け抜けることに成功する。すり抜ける直前に、背中に熱く痺れるような痛みが走ったが、それを我慢して少女は暗闇の森を必死に駆け続けた。何度も転び、茂みに足を取られながらも、彼女の足は止まらなかった。
絶対に後ろを振り向いてはいけない。後ろには、あいつがいる。
立ち止まるわけにはいかない。夜の闇の不気味な静寂が、走り続ける少女を飲み込んでいった。
「ピュルカ?ピュルカなの?」
気が付けば、いつの間にか彼女は自分の家の前にたどり着いていた。彼女の気配を察したのか、家から母親が転がるように飛び出し、少女に向かって走ってきた。
安堵のために足からふっと力が抜け、ピュルカはその場にぺたりと座り込んだ。
この時になって初めて、彼女は背中の痛みを意識しだした。それは次第に耐え難いものとなって彼女に牙を剥く。
駆け寄ってきた母親は、娘をきつくきつく抱きしめる。娘の体はくにゃりとして妙に冷たかった。そんな親子の姿を雲間から現れ出た天空の二つの月の光が、夜の暗闇からくっきりと浮かび上がらせ、さらに母親にとんでもない現実を無情に晒け出した。
母親の悲痛な絶叫が辺りに響き渡る。
ピュルカはどろりとした睡魔に身を委ねながら、母親の視線の先を見た。母親の視線の先には、ピュルカの手。その彼女の手の先には弟の手があった。あの怖いものから逃れる時、絶対に放すまいとした小さな弟のマールの手だ。
しかし、弟の手の先には本来ついているべきものが、なかった。
腕以外の他のものがなかった。
わずかに残された、かつての弟であった小さな腕は、月の明かりに晒されて青白く力ない光を返していた。
母親はピュルカの体をどさりと地面に投げ出すと、無残に喰いちぎられた小さな幼い手を掻き抱いた。呻きにも似た嗚咽が、その口から洩れる。
(お母さん、あいつがくるよ)
地面に放り出されたピュルカは虚ろな瞳で、黒い森を見つめていた。
もう、助からない。彼女は振り返ってしまったから。でも、お母さんは。
(逃げて……)
すでに動くことも、声を出すこともままならない。それでも、ピュルカの必死な想いを受けて、彼女の手は微かに母親に向かって伸ばされた。
時を同じくして、森の闇が音もなく、すうっと伸びた。影は月の光を受けた森の漆黒の闇から、ぷつり、と切り取られ、それの動きに従うように巨大な獣の姿を形作った。
(振り返っちゃ、だめ……)
しかし、少女の願いも空しく、母親は涙に濡れた顔を、月の光が導く方向へと振り向かせた。
そこには血と殺戮とに飢えた魔獣の眼があった。月の光を反射して鈍く光る長い凶悪な牙から、赤黒いものがぽたり、と母親の顔に落ちかかる。
彼女は呆けた顔で、魔獣を見つめた。
しばしの間の後、彼女の中でなにかがぶつりと切れたかのように、小さなくすくす笑いが始まった。笑い声は、やがて大きく甲高くなり、笑い声とも泣き声ともつかぬものに変化していった。
魔獣の黒い影は狂気に陥った母親の姿を静かに覆い隠し、その姿が闇に同化したころ、ピュルカの意識もまた闇に落ちていった。
「ギー、見て、夜明けだよ」
峠の岩屋に差し込んだ清々しい太陽の光に、シェリルは目を細め、朝の冷たい空気を思い切り吸い込んだ。美しい朝日がまるで祝福しているかのように、彼女の旅路を明るく照らしている。
「さあ、行こう」
それは、隣村までの小さな小さな冒険の一歩のはずだった。しかし、それは同時に、時に忘れられた村の時間だけでなく、荒廃した世界の時間をも動かすことになったのを、彼女は、まだ知らない。