第7話
長年のわだかまりを、氷を解かす春の陽射しのように優しく溶かしていくシオンとヴィルカノン三世は、今、ようやく、本当の親子と呼べるものへとなりつつあった。そんな温かな光景を、不意に、凍てつく吹雪にも似た冷徹な嘲笑が一蹴にする。
「何たる茶番!雛を追って来てみれば、こんな馬鹿げた茶番劇を見せられるとはな」
「てめえは……っ!」
神殿の天井付近にある採光窓の辺りで佇んでいるのは、忘れもしないあの紫銀の髪の男だった。ただならぬ気配を漂わせた突然の侵入者に、将兵たちは王家の人々を守ろうと、一斉に抜刀して防御の構えを取った。そんな彼らの殺気など意にも介さず、男はあの時と変わらぬ酷薄な笑みを浮かべた。
「まあ、いい。得ることがなかったわけではないからな」
そう呟いた男の体が瞬時に消える。その場の誰もが慌てて辺りを見回すが、男の気配も姿も見つけることが出来ずにいた。
いったい、どこへ。唖然とするシオンの目の前で、いきなり彼を守護していた将兵たちが、不可視の力によって吹き飛ばされた。彼らは曲がりなりにもジャドレック軍上層の位を拝命する練度高い将兵たちである。その彼らですら反応できぬ速さと力を見せつけた恐るべき男は、シオンが気付いた時には、もう彼の目と鼻の先に迫っていた。
「な……っ!」
「あの時、無謀な娘の陰に隠れて震えていた若造が、あの目障りな男の息子だったとは、見抜けなかったな」
男の眼がギラリ、と獰猛に輝いた。手にしていた神剣を抜く間すら与えられず、男の拳をもろに腹に食らったシオンの体は、神剣の間へと通じる硬い樫の扉に叩きつけられた。
「シオン!」「殿下!」
ずるずると声もなく崩れ落ちるシオンの姿に、ラグたちの悲鳴が飛んだ。しかし、その悲鳴は、男にラグの所在を知らせる合図にもなった。
氷水晶の瞳が獲物を見つけた狂喜の色に輝き、口の端に獰猛な笑みを刻む。
見つかったことに青褪める少年に歩を進めようとした男は、瞬間、背後に強烈な殺気を感じた。獲物の収獲を一旦諦め、彼は即座に蹴りを繰り出し背後からの攻撃に応戦する。優雅にすら思える見事な蹴りによって、ラウルが放った拳が逸らされ不発に終わる。高速に過ぎる動きに遅れて、男の長い紫銀の髪がふわりと舞った。
最初の攻撃が逸らされることは織り込み済みだったラウルは焦ることなく、間髪入れずに二撃目として、痛烈な蹴りを放った。練達した武人の目ですら追うのが精一杯の、凄まじい速さと威力を伴った体技の応酬が繰り広げられる。
「貴様、雛の聖天騎士か……!」
「まあな」
互いに決定打を欠き、いったん距離を離した二人の間合いを、ラウルは不敵な笑いを浮かべつつ、じりじりと詰めていく。しかし、紫銀の男はそんな彼を軽くせせら笑う。
「融合したばかりの騎士など、私の敵ではない。失せるがいい!」
叫びとともに膨大な風の精霊力が瞬時に男の手の中に集い、ぎゅんっと唸りを上げて凝縮すると、逆巻く風圧の渦となってラウルに向かって襲いかかった。
この程度の攻撃ならば、今の彼には余裕で避けられた。当然、避けようとしかけた彼は、男の浮かべる笑みから滲み出る悪意に、不信を抱いて躊躇する。
「……これが、お前と私の歴然とした経験の差だ。お前には、見捨てられまい」
凄絶な、と言える笑みを浮かべた男に、ラウルはようやくその時になって、男の意図に気がついた。彼が避けようとする術力の線上には、王と王妃、ジルナーシュ王子がいた。
「卑怯者が……ッ‼」
襲い掛かる風の鉄槌を抱きかかえるようにしてその身で受け止めたラウルは、辛うじて軌跡を逸らしたものの、術力を打ち消すことまではできず、神殿の巨大な柱の一本に激突し、崩れ落ちてきた瓦礫とともに埋もれていった。
「ラウルっっ!」
悲痛な叫びを上げて、ラグはラウルの消えた瓦礫の山へと駆け寄ろうとした。が、その行く手はふわりと降り立った紫銀の男に阻まれる。
「何が一番大切なのかを選べない。そのくせ、何もかも選び取ろうと欲をかく。この場合、どんな犠牲を払おうともお前を守らねばならぬというのに、なんとも愚かな男を選んだものだな、雛よ。さあ、参ろうか」
「やだ!お前となんか、絶対、どこにも行かない‼」
男をぎっと睨み据えて、抵抗の意思を見せる少年に、男は苦笑する。
「聞き分けのない子は嫌われると、あの娘に教わらなかったか」
「お前がシェルのことを言うなっ!あっ!」
抗議の言葉も終わらぬうちに、男は暴れるラグを苦も無く小脇に抱え込んだ。
「やだ!放せっ!放せったら!」
非力なラグの抵抗をせせら笑っていた男が、ふと、笑いを止め、ちくりとした痛みを訴えた頬の辺りに手を置いた。彼は微かに血がついた指先を不思議そうに見やる。
「……人んちで、ずいぶんと派手に暴れてくれるじゃねえかよ」
男の先制攻撃で倒れ伏していたはずのシオンが、白銀の輝きをけぶるように揺らめかせる神剣を、ピタリと男に向けていた。彼はすう、と剣を中段に構えると、殺気のこもった視線を鋭く男に射込んだ。
「シオン!」
心強い味方の復活に、ラグが喜びの声を上げる。
「とっとと、ラグを放せ!でないと、今度はその程度の傷じゃ済まなくなるぜ」
シオンの言葉に反応したものか、神剣が彼の闘気を感じ取ったものか、刀身が白熱したかのような強烈な輝きを帯びる。
「……神剣ガンダルヴァか。確かに厄介な代物ではあるな」
神剣の立ち昇る白銀の輝きを前にしても余裕を見せる男に、シオンは神剣の一撃を振り下ろす。が、男は何事もなかったかのようにその一撃を避けると、シオンの懐に一瞬で入り込む。その動作に一歩遅れて、背後で神剣の一撃による激しい破壊音が響き渡った。
シオンの切り札をあっさりと躱した男のニヤリとした笑いに、咄嗟に身を引いたが、男はそれを許さず、空いている手で、神剣を握るシオンの右腕をがっちりと抑え込んだ。
「……くっ!」
捕らえられた右腕は、いくら引いても押してもびくともしない。却ってぎりぎりと絞めつけられる圧迫感が増すばかりだ。男の底冷えするような氷水晶の眼が、間近にあるというのに、もはやどうすることもできない。
「使い手が二流なら、防ぐ手段などいくらでもあるのだよ。……こんなふうにな!」
「うっ、ああぁぁあぁあッ‼」
見えざる何か、不可視のものが、男の叫びとともにキュルッと回転する音を立てたのをシオンが耳元で聞いた途端、ガンッ、と腕から脳天へと突き抜けるような激痛が彼を貫いた。壮絶な激痛に絶叫を上げた彼の体は、止めとばかりに放たれた男の蹴りによって遥か後方へと吹き飛ばされた。
何が自分の身に起きたのか、痛みで意識が朦朧となった彼には、いまだ理解できていなかった。
「…………いや」
事態を最初に理解したのは、男の小脇に抱えられたまま身動きもままならないラグであった。ラグは、男が手にしている信じがたいものに、凄絶な絶叫を上げる。
「いやあああああっ‼」
恐怖によってこれ以上はないほどに見開かれた、少年の翡翠の瞳に映り込んでいるのは、風の精霊の見えざる刃によって、肘からすっぱりと切断された血塗れのシオンの右腕だった。その手は、未だ意思を持っているかのように、神剣をしっかと握りしめていた。
「やだ!やだ‼いやあああっ‼シオンっ!シオンっ!シオーン‼」
「殿下ぁぁっ‼」
ラグとベセルドの絶叫に意識を浮上させたシオンは、灼熱の激痛に獣のような唸りを発して蹲った。傷口が炎にじりじりと焙られるような耐え難い苦痛をもたらし、脂汗が全身から噴き出してくる。彼の蹲った床からじわじわと血が滲み、彼の白い衣服を赤く染めていく。
「殿下!お気を確かに!……とにかく、止血が先だ!術士を呼べ!大神官様、お早く‼」
「放せっ!放せってば‼シオンっ!シオーンッ‼」
ベセルドたちが重傷を負ったシオンを前に右往左往する様を、小気味良さげに嘲笑する男に捕らえられたラグは、声も枯れんばかりに泣き叫び暴れた。
やがて、彼の悲痛な叫びに呼応して、少年の額中央に淡い光を持つ紋章が、ふわり、と浮かび上がる。どんどん光を強め姿を顕わにしていく紋章とともに、ラグの体もまた淡い白銀の光に染まり始めていく。
「聖光の……紋章……?おお、まさか、本当に…………」
歴史の彼方に失われた聖なる光に、大神官が呆然と呟き、捕らえた少年の異変に、男が鋭く舌打ちする。
「小賢しい!たかが雛の分際で、一人前に光皇の力を使役する気か‼」
男は力の解放を止めようとしないラグに当て身を食らわして意識を奪うと、面倒臭げに辺りを見回した。辺りはすでに、剣を抜き殺気立った将兵たちが、幾重にも男を包囲していた。
「……長居は無用か」
軽く鼻を鳴らすと、不意に男の体が幻影のようにぐにゃりと歪んだ。その瞬間、紫銀の強烈な光が辺りを照らし、猛烈な爆風が取り囲んでいた将兵たちを木の葉のように薙ぎ倒す。爆風を辛うじて避け得た人々も、ただただ身を伏せることでしか身を守る術がない。両手で頭を爆風と飛び来る瓦礫などから守りつつ、緩まり始めた風の隙間から上を見上げた彼らは、とんでもないものを見出した。
紫銀の光沢を持った毛並みと、あの男と同じ、冷酷な色を宿した氷水晶の瞳。体色の紫銀よりもやや薄めの紫をした巨大な翼を持った有翼の魔狼が、翼をゆっくりとはためかせながら顕現していた。
翼は絶え間なく強風を生み出し、薄暗い室内の中のわずかな光も跳ね返す紫銀の毛並みの輝きは、それ自体が荘厳な霊気を放っているようにさえ見える。
「あれが、剣帝陛下が戦い続けてきた魔獣か……!」
国王が、いや、そこにいる誰もが、その魔獣に視線を釘付けにされた。バサリ、と巨大な翼をさらに大きく一閃させて、紫銀の魔狼は、生あるものの魂すべてを打ち砕かんとする咆哮を轟かせた。
恐るべき咆哮は、轟々と唸りを上げる衝撃波という威力を伴って神殿の天井を撃ち貫き、開いた大穴から天へと向かって高く高く飛翔を始めた。しかし、天より襲い来る瓦礫を避けることに誰もが精一杯で、その行動を阻止するどころか追いすがることさえできなかった。
「……くそっ、ラグが連れていかれちまうじゃないかよ」
ようやく瓦礫の底から這い出してきたラウルが、最後の大岩を持ち上げつつ姿を現した。彼は憮然として空翔ける魔狼を睨み据えると、全身に黄金の霊気を纏う。
「あいつと同じ聖天騎士だっていうから、もっと時間稼ぎしてくれるって期待してたのに!」
出し抜けに背後から恨みがましい声が、彼の耳朶を口撃する。
「しょうがないだろう!俺と奴と、どれだけ年季が違うと思ってるんだ……!」
完全に後れを取った挙句に罵られて、さすがにイラッときたラウルは、その声の主に怒鳴り返して振り向き、目を丸くした。
「言い訳なんか、後でしてちょうだい!とにかく、あいつを追うわよ、ディセルバ!」
つるんと白くて丸い竜の卵を小脇に抱えて、元気に捲し立てる鳶色の髪の娘に、その向かうところ敵はなし、とかつて吟遊詩人に謳われし、最強の戦士の称号を戴く男は、呆気に取られて立ち尽くした。
次回、第五章始まります。物語もそろそろ大詰めです。