第4話
「殿下、少しは落ち着いたらどうです。お茶も入ったことですし」
イライラと室内を歩き回るシオンとは対照的に、捕らえられてからも終始冷静なフィルダートがのんびりと茶器に手を伸ばす。
「ずいぶんと余裕だな、フィルダート。こんな時に呑気に茶など飲んでいられるか!」
「こんな時だからこそ、冷静であれ、とお教えしませんでしたかな?」
「…………っ!」
かつての師に未熟さを指摘されて、シオンは言葉に詰まる。しんと静まった室内に、こぽこぽと茶が注がれる微かな音だけが流れ、フィルダートが茶を口にしようとした時、部屋の扉が重苦しく開かれ、司祭長のカーナルクが姿を現した。非常に微かではあったが、フィルダートの太い眉が不機嫌そうに持ち上がった。
「リュシオン殿下、フィルダート公、査問会の時間でございます」
努めて厳かな声でカーナルクが告げると、彼の後ろに控えていた衛兵たちが、ずかずかと入り込んで取り囲み、彼らを引きずり出そうとした。ガッ、と乱暴に肩をつかまれたシオンが、さすがにむっとしてその腕を振りほどこうとした時、今まで平静でいたフィルダートの表情が一変した。
「無礼者!殿下は罪人ではないぞ!貴様らに手を出される謂れなどない!その手を離さんか‼」
現在は一線を退いているとはいえ、何千という兵を号令一下で統率してきた猛将の雷鳴のような一喝に、その場にいた者たちは震え上がった。怯えた羊の眼を向ける彼らをじろりと一瞥すると、フィルダートはシオンを促して歩き始める。
「堂々として居れば良いのです。査問会など、奴らのつまらぬ時間稼ぎに過ぎぬのですから。……殿下?」
見れば、シオンが下を向いて、堪えきれぬ笑いに身を震わせていた。
「……いや、ベセルドと一緒に叱られていた子どもの頃を思い出した。年を食ったと思ったが、変わらないな、お前の怒声は」
くつくつと笑うシオンに、フィルダートは苦笑した。二人は昔のわだかまりを払拭しようとするかのように、厳めしい顔つきをするジルナーシュ派の将兵たちの間を、笑いながら通り過ぎた。
連行された王宮に併設する神剣神殿は、一般的には神を信仰せず、専ら精霊を信仰するルオンノータルにおいては、非常に稀な神を祀ったものである。
神話の時代、神々が去りし後の人間を憐れんで、自らの目を刳り抜き剣と成したという、白き月の神ハイランダーに捧げられたものであり、神器として神剣ガンダルヴァを祀っている。
七百年もの長き歴史を刻み込んだ神殿内は、荘厳な気配に満ちていた。その重厚な気配を味方につけて、三十人ほどの反リュシオンで結束した貴族たちの視線が、彼らに無言の圧力をかける。
中央に設えられた被告席と思われる席に腰を下ろし、シオンは前方に座するイゼリア公爵を見据えた。
「これより、王子リュシオンの査問会を執り行う」
王が認めた称号である「王太子」と呼ばずに、単なる王子と呼ぶところにちくりとした悪意を感じる。ま、どうせ、これからもっと酷えこと言われるんだろうな。そう思うと、シオンは憂鬱になり、はふ、とため息をついた。
そんなうんざりしたシオンの心境をよそに、イゼリア公の右手に座したクライフ伯爵が、シオンの罪状を述べる。
「リュシオン殿下。殿下が四年もの間、修行と偽って諸国を遊興しておった旨、我らが知らぬとお思いか?」
白々しい。シオンの目がすうと細まった。何もかも捨てて、何もかも忘れてしまいたかった。抱えきれぬ罪悪感に苛まれた彼に、次々と襲い掛かってきた刺客たち。中には、グロイアルの血縁者までがいた。それらをやり過ごすたび、自分がどれほど憎まれているのか、何をしでかしてしまったのかを痛感させられた。
しかし、そんな修羅の日々で培われたものが、壇上で刺客を放ったことなど知らぬげにのうのうとした顔で座る連中に対して、却って、シオンに余裕というものを与えてくれる。
シオンは軽く口元を笑いに歪ませると、揃えていた足を払うようにして組み、冷たい眼差しで彼らの糾弾の答えと成した。
怯えるでもなく、むしろ、逆に凄みを増して威圧してくるシオンに、クライフは一瞬たじろぎ、悟られぬよう慌てて、二、三ほど咳をした。
「……四年もの間、確たる理由もなく、王太子としての任を放棄したこと。これは我がジャドレック国民に対する裏切りに他なりません。かような無責任な者に、次代王たる資格なし!この上は、自ら、王太子の資格、いや、王位継承権自体を返上し、汚名を注ぐ誠意を我らに御示しくださるよう、通告する次第であります」
ジルナーシュ派で固められた聴衆から、雷鳴のような拍手と賛同の声が上がる。これは、査問会とは名ばかりの、一方的な弾劾裁判であった。
王太子資格を返上する旨が書かれた国王宛の書面を前に、シオンは苦い顔をする。
王位などジルナーシュにくれてやっても構わなかった。むしろ、その方が肩の荷が下りる。しかし、弟はまだ十二。いくら年以上に聡明だとはいえ、宮廷を牛耳る老獪な奴らに食い物にされるのは、現状で明らかだ。それを見過ごすほどには、彼はまだこの国を捨て切れてはいなかった。
「さあ、殿下、潔くご決断を!」
シオンの苦い顔に、勝利を確信したクライフ伯爵が署名を迫った。書かなければ無理やりにでも、というつもりか、彼らの背後に詰めていた将兵たちの幾人かが立ち上がる音がする。このままじゃ、まずいな。どうするか。追い詰められてはいたが、フィルダートが無言の圧力で周囲を牽制しているおかげで、シオンは他人事のように状況を眺めつつ、打開策を模索していた。そんな中、その声は、一筋の矢のごとく神殿内に飛び込み、突き立った。
「その儀、不問にございます!殿下は、ルオンノータル再生に力をお貸ししている英雄にございますぞ!」
神殿の大扉が乱暴に開かれたかと思うと、ベセルドを筆頭に五十人ほどのリュシオン派の貴族、将兵が雪崩れ込んできた。
「おのれ、慮外者めらが!神聖なこの場をなんと心得るか!」
顔を真っ赤にして、老エントウッド候がしわがれた声を精一杯に張り上げた。それに対してベセルドは怯むでもなく、不敵な笑みを向ける。
「無礼は粗野な武人の常なれば、平にご容赦願いたい。……今一度、皆様方に申し上げる。この査問会は、無意味なものである、と。殿下は、国を出ておられる間、世界を救う大儀のため、身を尽くしておられたのですから」
「なんだと⁉」
査問会に出席していた貴族たちが、予定外の事態にざわざわと騒ぎ出す。当のシオンも何のことかわからず、物問いたげなフィルダートの視線に肩を竦めて見せた。
その騒ぎの中でも、唯一冷静に見えるイゼリア公が、平坦な口調でベセルドに説明を求める。
「……それは、いかなる大儀か?」
「私からご説明いたしましょうかな」
リュシオン派の人垣の中から、神官衣を纏った白髪の老人が現れた。その姿に、カーナルクが悲鳴めいた声を上げる。
「大神官様!禊の儀に赴かれたはずでは……」
「儀式は恙なく済んでおるよ。それよりも、なにやら、私抜きでずいぶんと面白い集まりをすると聞き及んだのでな、急ぎ駆けつけた次第よ」
ふふふ。人良さげに笑う大神官に、この古狸め。と、この場の誰もが思ったことだろう。シオンの母はかつて大神官の側仕えを務めており、実の娘のように可愛がっていた。その息子であるシオンについても同様で孫のように見守っている。ジルナーシュ派にとっては、頑固者のフィルダート同様、実に目障りな爺ぃだったのだ。苦虫を嚙み潰したような面々を無視して、彼は後方に手招きをした。
「さ、こちらへお出でなされ」
入口に詰めかけたリュシオン派の人垣のさらに奥から、大神官の手招きを受けて現れたのは、十歳くらいの小さな黒髪の少年だった。
真っ白のやや大きめな神官衣を纏い、翡翠の色鮮やかな瞳が印象的な整った顔立ちをしている。首を伸ばして様子を伺ったシオンは、少年を見た途端、思わず大声を上げそうになって、危うくそれを飲み込んだ。
突然現れた不思議な少年に、ジルナーシュ派の貴族たちは訳がわからず一様に首を捻るばかりだ。あまりにも大勢の人々の不躾な視線を浴びて、少々気後れした風情の少年を、つい、と前に押し出すようにした大神官は、思いもかけぬことを口にした。
「この御方は、新たなる光皇ラグナノール陛下であらせられる。リュシオン殿下は、四年もの間、陛下をお守りし、かの聖地ノルティンハーンへと導く助力をしておられたのだと、証言してくだされた」
少年の正体とあまりにも衝撃的な内容に、場は一瞬、しん、と静まり返り、その後、神殿を揺るがしかねぬほどの叫びと悲鳴とが交錯した。シオンの排斥を叫んだ時よりも騒然としたざわめきに包まれた中、シオンはフィルダートに物凄い形相で詰め寄られていた。
「このように重大なことを、どうしてもっと早くに言わんのですかッ!」
「おっ、落ち着け、フィルダート!こっちにだって、いろいろと複雑な事情があるんだ!」
口角から泡飛ばすフィルダートを宥めつつ、シオンは、あの馬鹿ガキ、余計なことをしやがって!と、ラグに向かって悪態をついた。
「静まらぬか!そのようなちっぽけな子どもが、光皇だという証拠がどこにある!」
イゼリア公の一喝に、我に返った者たちは、慌てて、証拠だ、証拠を見せろと捲し立て始めた。すると、黒髪の少年の後ろに、偉丈夫、と称しても差し支えない大男がぬうっと現れ、少年の傍らに立つ。
「俺が証拠だ」
少年の白い衣服と合わせたのか、白の騎士の儀礼服を纏った豪奢な金髪と琥珀の眼の大男が、光皇を名乗る少年の肩に手を置いた。
「貴様、何者だ」
金髪の偉丈夫は、不敵にニヤリと笑う。
「聖天騎士」
その男、ラウルの簡単な答えに、シオンはぎょっと目を剥く。周囲もまた、そのとんでもない名称に驚愕し、神殿内は、先ほど以上に、しん、と水を打ったかのように静まり返った。