第8話
「名前は、確か、ラグ、だったな。お前、その球をこっちに持って来い」
ギーに介抱されていたラグが男に言われるまま、よろめきながら、あの爆発の中、ギーが守り抜いた竜の卵を抱えてきた。少年の顔は見事なほどに赤く腫れ上がり、当事者のシオンを陰鬱な気分にさせた。
「これ、どうするの?」
「さっきの暴風、あれは『魂喰らい』だろ?昔、あれが使われた戦を見たことがある。あれにやられた初期は、分離された肉体と魂がまだ近くにいるから、道標さえ作ってやれば帰って来られると聞いた。この嬢ちゃんが術士なら、戻って来れる可能性は高いと思うんだが」
「その目印が、その卵なのか?」
男はその問いに無言で頷くと、シェリルの胸の上に卵を置き、彼女の両手を卵が落ちないように組ませた。じっとその様子を見つめていたロセッタが、訝しげな顔で問うた。
「いったい、それは何なんだ。竜の卵ではないのか?」
「竜の卵?これが?……うーん、言い得て妙だが、あながち間違いでもないか」
そう言って男は苦笑した。ルオンノータル西方に伝わる古い格言に「竜の卵」というものがある。最強種の一つである魔獣、竜が卵から孵ることになぞらえて、先行きの見えない未来のことをそう呼ぶのである。孵ったらばくりと喰われる、そんなとんでもない不幸をもたらすものか、はたまたは、孵ったけれど喰われずに済むという、あり得ない幸運をもたらすものなのか。どっちに転ぶかわからない選択を迫られた場面で、西方の人々は、不安と期待とを込めて、この格言を良く使う。
シェリルの胸の上に座した、謎の白い球体のことを、男はその格言になぞらえたのである。
「お兄さん、これで助かるの?シェル、本当に助かるの?」
背の高い男の服の裾を引っ張って必死に問う少年に、男は優しく笑いかけ、彼の黒髪をくしゃくしゃと撫でた。
「後は、お嬢ちゃん自身と……、そうだな。お前は、何でできている?」
少年は男の言葉の意味がわからず、きょとんとした。
「僕は、何でできているの?」
「さあな、俺も知らん。何でも人に頼るなよ。それはお前自身が考えることだ。それがわかった時、お前は、この嬢ちゃんだけでなく、世界をも救う力を手に入れるだろうよ」
シオンとロセッタの瞳に、同時に冷たい刃の輝きが宿る。この男、ラグの正体を知っている。
「……あんた、いったい、何者だ。単なる旅人にしちゃあ、やけに物知りで親切じゃないか」
シオンの手は、すでに腰の剣の柄をしっかとつかんで、いつでも抜ける体勢を取った。ロセッタなどはもうすでに短剣を抜き放っている。
「おお、怖ぇ。世知辛い世の中だよなあ。ちょっと親切にしてやっても疑われちまう。善良で平凡な旅人を脅かさないでくれ。俺はラウルってんだ」
「ラウル?ディセルバ、じゃないのか?昨日、あんたが紹介してくれた宿で、あんた、死人にされてたぜ」
「他人の空似ってやつだ。俺だってえらい迷惑してるんだ。街の連中に奇妙な目でじろじろ見られてよ」
嘘とも本気ともつかない、男ののらりくらりとした態度に、彼らは警戒心を解かない。そんな彼らにラウルを名乗る男は、顎をしゃくって、丘から街へと通じる唯一の曲がりくねった坂道へと注意を促した。
「そんなことより、知ってるか?街じゃ大変な騒ぎだ。ジャドレックの連中が、血眼になってお前らを探してる」
「ジャドレックの連中が?あんな下っ端が起こした喧嘩程度で、そこまで揉めるか?」
「だろう?俺もおかしいと思ってたんだが、そこの兄ちゃん、あんたを改めて見た時、ピンときた。思い出したんだよ、あんたに年恰好のよく似たジャドレックの人間をさ」
ラウルの穏やかだった目が、厳しさにと変わる。その目に威圧されるかのようにシオンが、よろめきながら二、三歩下がる。
「そいつの名は……」
言うな!頼むから、言わないでくれ!そう叫んで、背を向けて逃げてしまいたい衝動に駆られるが、足が、体が、竦んだように動かない。ただ、あ、う、と言葉にならない短い呻きが口から漏れるばかりである。
真っ青になった彼の表情を無視して、ラウルは、それを、シオンが最も忌避するものを、言葉として紡いだ。
「そいつの名は、リュシオン。確か、そう、リュシオン・エルクライツ・ヴァン・ジャドレック、だ」
それを聞いたロセッタがなにやら考え込む仕草をし、何か思い当たったのか、あ、と声を上げた。
「その名前、聞いたことがある。確か、ジャドレックの狂王子、と呼ばれた……。え?でも、そんな、まさか……」
森の中で、いきなり魔獣に遭遇した。そんな信じられないものを見るようなロセッタの視線が、シオンに突き刺さる。が、それはほんの一瞬で、彼女はすぐに、否定してほしいと懇願する視線を彼に向けた。が、青白い顔をした青年は俯いたまま、彫像のように動かない。何もしゃべらないシオンを見据えたまま、ラウルはなおも言葉を続ける。
「そのまさかだったようだな。狂王子とは、ジャドレックの王太子リュシオンにつけられた悪名だ。奴は四年ほど前、ジャドレックの南西に位置する海商都市グロイアルをそこに住む民人ごと滅亡させた。俺たち、西方の諸国民は大いに震撼したさ。三万もの人間を皆殺しにするなんて、正気の沙汰じゃねえ、とな」
三万!あまりに多い犠牲の数は、人間を憎んでいるはずのロセッタですら、その顔を青褪めさせるに十分なものだった。
「グロイアルを滅ぼしたその後、奴は公式の場に姿を現さなくなる。病弱な父親の暗殺に失敗して逃げ出したとも、神剣の霊気に当てられて気が狂い幽閉されているとも噂されていたが、まさか、こんなところにいたとは……」
「やめて‼」
甲高い叫びが、ラウルの言葉を無理矢理に封じた。腫れ上がった顔に涙をぼろぼろと零したラグが、小さな体を張って、シオンを庇い立ちはだかる。
「シオンは、シオンだよ!昔のことなんて、どうでもいいよ‼」
涙に濡れた大きめの瞳が、ラウルを気丈に睨みつける。それが、さらに潤んだかと思うと、少年は口をぱかりと開いて、うあああと声を放って泣き出した。
「あーあ、泣くな、泣くな。その酷い顔がますます痛くなるぞ」
思いがけない横槍に気勢を削がれたラウルは苦笑すると、泣き続ける少年を軽々と抱き上げた。
「……まあ、お前が何者だろうと構わないが、あの連中はそうはいかんだろうぜ。どうする?」
街からの曲がりくねった一本道を登ってくるジャドレックの兵たちの姿を、ぼんやりと見つめるシオンに、どこからか優しい娘の声がふわりと届く。
いつまでも逃げてちゃだめだよ、シオン。
失ってようやく気付いた彼女の存在の大きさに、シオンは静かにため息をついた。
頂上の入り口で兵を止め、一人の長身の男がゆっくりと近づいてきた。ピンと張り詰めた厳しげな雰囲気さえなければ、浮名の方で名を馳せそうな美男子だ。彼は一行の中からシオンを見出すと、眩しげに目を細めた。
「お久しゅうございます。私を覚えておいでですか?……殿下」
「……幼い頃から側で仕えてきたお前を忘れるほど、薄情ではないつもりだ。……ベセルド、お前はもっと中央の方で出世しているとばかり思っていたのに」
ベセルドは、彼の返事に苦笑した。
「殿下が行方知れずなのをいいことに、弟君を奉ずる連中はやりたい放題ですからね。お陰で私のような融通の利かぬ無骨者は、皆、辺境に飛ばされましたよ。まったく、気の早い。陛下が殿下の王太子資格を剝奪したわけでもないのに、もう、天下を取ったつもりでいる」
「……父上は、まだ、俺に王位を継がせる気でいるのか」
「当たり前でしょう。殿下は神剣にすら認められた正統なる王位継承者なのですから!」
神剣。それを聞いたシオンの顔が苦しく歪む。俯き、微かに震えさえする青年の足元に、ベセルドは片膝をつくと深々と礼を捧げた。
高貴な者に対する最敬礼に、遠くに控える兵士たちがざわざわと騒ぎ出す。それに構うことなく敬礼を続けるベセルドは、懐からあの真紅に輝く紅玉石のペンダントを取り出し、恭しくシオンに向かって差し出した。
「どうか国にお戻りください、リュシオン殿下。イゼリア公や王妃の良いように振り回されている幼い弟君では、到底、剣の王国は支えられません。あなたこそが、王位に就かれるべきなのです」
ベセルドの熱意のこもった眼差しに、シオンは重い塊を飲み込んだかのように、ごくりと息を飲んだ。
「……俺は」
開きかけた口を、彼はすぐに閉じた。言葉にしようにも、複雑な心情をうまくまとめられない。期待に満ちたベセルドの視線が重くのしかかる。いつまでも逃げてはいられないことは十分すぎるほどにわかっていた。けれど……。進退窮まった彼の視線が、無意識にシェリルへと向けられる。思い切りの良い彼女ならどうするのだろうか。
「後悔することはしたくないの、……か」
「……は?」
「いや、なんでもない」
捧げるようにして差し出されたベセルドの手から、紅玉石のペンダントを受け取ったシオンは、日を受けてキラキラと煌くそれを見つめた。
十字の剣が突き立つ、隻眼の魔龍の紋章。
宝石に施された透かし彫りの紋章は、神剣と剣帝が屠ったとされる魔龍ガルガンデュアの姿を意匠化したもので、ジャドレック国民が熱心に敬愛する王家の紋章であった。
「……わかった、ベセルド。お前の顔を立てよう。国に、帰る」
シオンは宝石を覆い隠すかのように、ぎゅっと握りしめた。
次回、第四章 狂王子の帰還、始まります。