第7話
「おい、やめろ!お前、何をするつもりだ!」
意を決して激しい猛風の只中に飛び出したシェリルに、シオンが制止の声を張り上げた。それに応えて、彼女は優しく笑う。いや、優しく笑ったかのように思えた。強い風が彼女の鳶色の髪を激しく弄り、その表情は彼には良く見えない。
「今、術の暴走を止められるのは、あたしだけだもの。努力するしかないじゃない。……ねえ、シオン。もしものことがあったら、ラグのこと、お願いね」
「お前……。お前、死ぬ気なんだな⁉そうなんだな、シェリル‼」
「ラグを失ったら、あたし、死ぬほど後悔するわ。もう、後悔することは絶対したくないの」
己の心の赴くままに。ああ、そうだ。そうだった。シェリルならやるだろう。自分の命を賭してラグを救うなんて、あの子どもを失うくらいなら、この女は平気でやってのけるんだ。
彼女が死ぬとわかっているのに、ただ見ていることしかできない自分が、歯がゆいほどに口惜しい。
しかし、そんな苦しい彼の胸の内をよそに、シェリルは自らの許に、精霊の力を呼び込み始める。彼女の周囲の温度が急激に下がり、青空から一変して、泣き出しそうになっていた空がついにぽつぽつと大粒の雨を落とし始める。それと同時に、気温差から生じる霧が発生し、彼女の小柄な姿を彼の視界から包み隠していく。
「やめろ!やめろって、言ってるだろうが!シェリル‼」
彼女の姿は、濃くなった霧の中に溶け込んでしまってすでに見えない。それでも彼は彼女の名を呼び続けた。
シェリルは空を見上げた。雨の音が忙しくなってきた。この霧が雨の勢いに消されてしまわぬうちに術を完成させなくてはならない。彼女は術を虚空に編み始める。
滴るものの象徴。
満ち満ちたるものの象徴。
すうっと伸ばされたシェリルの指が、手足が、舞を舞うように動き、水の精霊を讃える紋章陣を描き出す。霧の姿をした水の精霊力は、舞い踊る彼女の術力に呼応して、自然精霊力から高位精霊力である「封印」へとその姿を変えていく。
彼女の額を幾筋もの汗が滴り落ちたが、それを拭う余裕すらなかった。こんな高度で大掛かりな術を編み出すのは、シェリルも初めての経験だ。しかし、彼女はそれを懸命に制御し続けていた。
「……ラグのこと、頼むわね」
霧の向こうの彼に、彼女は静かに、そう告げた。
「……お前は、俺のこと、信用しすぎる。俺は、お前が、ラグが嫌いだ。なんだって、お前らはそう、人の心に、当たり前の顔して、信じてるって顔して、ずかずか入ってくるんだよ!」
言葉の最後も終わらぬうちに、シオンは寄りかかった瓦礫からずるずるとずり落ちるようにして座り込み、手で顔を覆い隠した。
「俺のことなんか、何一つ、知りもしないくせに。……俺を信用なんてするな!俺は極悪人だ。お前みたいなお人好しに信用される価値すらない罪人なんだ……」
微かな嗚咽とともに、とても十八の青年とは思えぬ、ひどくしわがれた、憤ろしい声が彼の口から漏れた。
「いつまでも逃げてちゃだめだよ、シオン。自分からも、周りからも。もっと自分を信じてあげて。もっと自分を許してあげて」
それが、彼女の最後の言葉となった。
水の高位精霊力「封印」とラグが呼び込んだ風の精霊力の一部を説得して変化させた風の高位精霊力「精神」を縒り合わせるために、シェリルは手と手をきゅっと祈るように結び合わせ、術を完成させる。
『守魂の縛霧』
『魂喰らい』の術式を正確に読み解いたシェリルが作り出した、魂や精神に打撃を与える術に有効な封印精霊術が発動する。
水の精霊力を使役した霧状の姿を模した術力は、狂おしい唸りを上げて強風をまき散らす『魂喰らい』に襲い掛かった。二つの高位精霊力は凄まじい勢いで激突し、互いに互いを消滅させようと凌ぎを削る。濃霧が『魂喰らい』の青白い球体を押し包んだかと思えば、球体から発する刃のような暴風が濃霧を切り裂いた。
激しい精霊力の影響は周辺にも及び、見えざる牙が瓦礫や土砂を巻き上げて地上に容赦なく叩き落し、大粒の激しい雨が大地を叩き、大量の土砂をともなって丘を滝のように流れ下る。
シオンとロセッタはお互いの身を庇いつつ、降り注ぐ瓦礫や土砂をやり過ごして、辛うじて建物の形状を残す祭殿跡の遺跡へと飛び込んだ。
彼らが廃墟の壁と思しき大きな一枚岩を背にして身を丸めた瞬間、それまで以上の爆風と閃光が彼らを襲った。体をさらに出来得る限りに丸め、必死にそれに耐えた。
幸いなことに祭殿跡の平たい一枚岩の巨石は、ぎしぎしと不穏な音を立てつつも爆風に耐え切り、二人を守り抜いた。
唐突に風の音が止んだ。それに続いて、雨の方も止んでいく。
半ば土砂に埋まってしまった体を起こして、シオンは空を仰いだ。時折、ひゅう、ひゅおおお、と風が悲鳴のような音を上げるが、それ以外、今までの出来事が嘘だったかのように、世界は静かな静寂に包まれていた。鉛色の空から厳かな光の柱が幾筋も地上に届き、青空も姿を見せ始めている。遅れて起き上がってきたロセッタが、呆然として呟く。
「助かった、のか……?」
「……俺たちはな」
シオンが力のこもらない返事をすると、彼らの命を守り抜いてくれた巨石の後ろから抜け出した。
焼け焦げた黒い大地と瓦礫のみだった丘の上は、新たな破壊者の手によって、土砂に覆い尽くされ赤茶けた土の色一色に塗り替えられてしまっていた。そんな荒涼とした大地に、黒髪の小さな少年が、ぽつり、と力なく座り込んでいる。
「ラグ!」
シオンとロセッタは、少年の姿が目に入るや否や飛ぶようにして走った。全速力で駆け付けた二人が目にしたのは、呆然と座り込む泥まみれの少年と、顔近くまで土砂に埋まってしまったシェリルの姿だった。
「おい、シェリル!目ぇ覚ませ!しっかりしろ‼」
シオンは慌てて彼女の身体を掘り起こし、叩いたりゆすったりしてみたが、シェリルは死んだように反応を示さなかった。堪りかねてがばりと抱きしめた彼女の身体は、見た目よりもずっと華奢でひんやりとしていた。その冷たさは、彼に残酷な現実を突きつける。
親しい者の、愛しい者の死を悼むことすら、自分には許されない。そう、思ってきた。けれど、こんな突然の別れは辛すぎる。こんな別れは納得できない。
もうどうすることもできないのだとわかっていても、感情がそれを許してはくれなかった。シェリルの身体を抱きしめたまま、泣くことも喚くことも出来ずにいるシオンに、ロセッタが無言で彼の肩に手を乗せた。
悲しみの深さは彼女にしても同じだった。身を挺して愛しい子どもと彼らを守り抜いた勇敢で優しい娘を、言葉にできない感情を込めて黙祷を捧げる。そんな彼らの側に、ギーがどこからともなくふらりと現れた。その足元には泥まみれの竜の卵が転がっていた。
「……ねえ、シェル、どうしちゃったの?……いくら呼んでも、目を覚ましてくれないんだ」
今の今まで、呆然として身じろぎ一つしなかったラグが、その時、初めて我に返ったように、不思議そうに彼らを見上げた。
先ほどの衝撃で混乱して吐いた言葉であろうことは、冷静であったなら彼にもわかっただろう。しかし、限界ぎりぎりまで張り詰めていたシオンの神経を、その言葉は一気に逆撫でした。
シェリルを抱いた拳がきつく握りしめられ、皮手袋がぎゅうぎゅうと悲鳴を上げる。完全に逆上したシオンは、無言のままロセッタにシェリルの身体を託すと、おもむろにラグの胸倉を引っつかんだ。
「シオン⁉やめろ!」
彼の意図に気づいたロセッタの止める間もなく、胸倉でつりあげられた格好になった少年の頬に、手加減なしの平手が炸裂した。
バシッ!
ロセッタとギーが、あまりに痛々しい乾いた破音に思わず身を竦める。そのまま、さらに、二発、三発と容赦ない平手がラグに襲い掛かる。殴られたラグの口の中は切れ、鉄錆臭い生温かい血の感触が広がり、目の前にちかちかと火花が散った。
「シオン!やめないか!」
ロセッタが厳しい非難の声を上げ、ギーが懸命にシオンの服の裾を引っ張って諫めたが、彼の激情は収まらない。制止を無視して、再度振り上げられた手を、逞しい手が捕らえる。
「……気持ちはわかるが、それ以上はやり過ぎだ」
「お前……!」
怒りに紅潮した顔で息を荒くするシオンを、昨夜の金髪の男が険しい顔で見下ろしていた。冷静な光を湛えた男の瞳に、シオンはようやく平静な心を取り戻す。
我に返った彼は、己の手のひらを見つめて肩を落とす。男は気落ちしたシオンの肩を慰めるように軽くたたくと、ロセッタが抱いているシェリルの側にしゃがみ込んだ。
「まだ、この勇敢なお嬢ちゃんを救う方法はある。だから、あんまり思い詰めるな」
「本当か⁉」
その言葉に、誰もが飛びついた。一縷の望みをかけて、彼らは真剣な眼差しを男に向けた。
次話で、第三章 幽霊の街 最終話になります。第四章、題名書いちゃうとネタバレになるので内緒ですが、どうぞ、お愉しみ下さい。