第6話
「なんなんだ、あの男は!」
小男はかんかんになって怒りながら、土埃に塗れてしまった商売道具を拾い上げた。そこにふらり、と現れた一人の男が声をかける。男はこの近所で布地屋を営むダルクだった。
「ダルクじゃないか。どうした、そんな青い顔して」
「なあ、ガモイ。幽霊ってのは、真昼間に現れるもんなのか?」
ガモイは、またか、と思って強く舌打ちした。昨夜、クラーズの宿で飲んだ連中もそんなことを言って騒いでいたからだ。
「まさか、お前もディセルバの幽霊を見たとでも言う気か?まったく、どいつもこいつも、飲み過ぎで頭が酒樽にでもなっちまってるんじゃねえだろうな」
相手になどしていられるか!ガモイはダルクにきつい言葉を吐いて背を向けると、イライラと荷物を店の軒先に敷いた敷物の上に置き、きゅっきゅっと力を込めてそれらを拭き始めた。
ディセルバの小隊は、全滅した。盗賊に返り討ちに遭い、かなりの手傷を負わされて、樹海にしか退路を求められなかったと聞けば、その後の運命は知れていた。
魔獣は常に飢えている。いや、奴らには満足するという感覚すらないのだという。己が領域に入り込んだ手負いの彼らは絶好の獲物だったはずだ。死体など残るわけがない。ただの肉片と化した彼らの遺体とすらも呼べないものも、魔獣に襲われる危険が強すぎて葬ってやることもできない。そんな哀れな彼の幽霊なぞ、生きていてほしいと願う、生者の身勝手な感傷でしかない。ガモイには、それは死んだ者に対する冒涜のような気がした。
もう、ディセルバは、この世にいない。彼は白き月に辿り着き、神々の許で安息を得たのだと思ってやるべきだ。
「……お前、気が付かなかったのか?」
見上げると、紙のように白く青褪めたダルクがまだ突っ立っている。もういい加減に、この話を切り上げたいガモイは、我慢の限界を感じてダルクと向かい合った。
「あのなあ、ダルク。いい加減に……」
「お前とぶつかったあの男だよ。あいつは、間違いなく……!」
カラン、とガモイの手からせっかく綺麗に拭き終えた鍋の蓋が、するりと落ちて転がった。
そうして、ガモイは落ちた鍋の蓋とダルクの顔とを見比べる。ダルクの顔は、今や紙の白さを通り越して、蠟のような白さになっている。
確かに、先ほどの頭巾を目深に被った男の背格好はディセルバに似ていた。言われてみれば、声だってそっくりだった。でも、まさか……。
疲れてるんだ。彼の常識からかけ離れた現実を何とか否定しようとするガモイは、そう思うことにした。ディセルバが死んでから、いろんなことが立て続けに起こり過ぎた。今だって、ここは戦争に巻き込まれるかもしれないと、みんなが怯えているのだから猶更だ。
そうに決まっている。いや、そういうことにしよう。
この一連の出来事は、真っ当な商人として生きてきた彼の想像の範疇を遥かに越えている。ガモイは鍋の蓋を拾い上げ、再びきゅっきゅっと拭く。嫌な気持ちを拭い去るかのように。
ガモイは話し相手にならないとようやく理解したダルクが立ち去った後、ふと、彼の手が止まった。もしかしたら、と、彼はそう思ったのだ。
もしかしたら、ディセルバは生き延びたのかもしれない。あの最悪の状況下、たとえどんな卑劣な方法で生き延びたとしても、誰が彼を責められるだろう。
誰も責めやしない。責める奴なんて一人も残っちゃいねえ。そう、皮肉なことに一人も。あまりに皮肉に過ぎる現実に深いため息をついたガモイの目が、なにやら雲行きの怪しくなってきた丘陵の方に向けられた。
「ラグに近寄らないで!」
緊迫した場に、シェリルの気丈な声が飛んだ。
「シェル!」
彼女の声に、ラグが安堵の声を上げる。そのまま彼女に駆け寄りたかったが、足が、体が震えて言うことをきかない。ほんの少しの距離がひどくもどかしかった。男の興味が、ラグからシェリルへと移る。
「なるほど、今度の形成主はお前か。なんともかわいらしい形成主を選んだものだ」
「形成主?」
獣の子らの里でも聞いた言葉だ。シェリルは訝しげな顔をした。
「お前はあの御方の声を聞ける。私は聞くことができない。……それだけのことだ」
それだけのこと、と言いながら、彼女を見つめる冷ややかな視線には、穏やかならぬものが滲み出し、彼女に見えない圧力を加える。
「冷たい御方だ。七百年以上も御側に仕えている私には、一言も声をかけてはくださらぬというのに……」
嫉妬、憎悪……。そして、悲哀。
シェリルは男の複雑に揺れる感情を感受した。術士に相手の心を知る力などないが、もともと感受性の強い彼女の「語る」素養が、あまりに強い男の感情に反応したのかもしれない。
暗い憎悪を滲み出させる冷酷な視線は、彼女の隣にいたシオンをも貫いていた。ともすれば、萎えそうな気力を奮い起こし、恐怖のためにカタカタ震える手で、懸命に腰の剣の柄に手をかける。たったそれだけの動作で、汗が額から幾筋も滴り落ちる。
自分は臆病ではない、はずだ。それなのに、なぜ、こんなに恐怖を感じるのか。彼にはわからなかったが、剣士としての本能が、目の前の存在がいかに恐るべき存在であるのかを感じ取って、やかましいほどに警鐘を鳴らし続ける。その心の警鐘こそが、シェリルを庇い、前に出ようとするのを躊躇わせる。今まで彼を幾多の場面で救ってきた実戦経験が、ここでは完全に仇となっていた。
そうして、彼らが対峙してどれほどの時が経っただろうか。たいした時間ではなかったはずなのに、シェリルたちにはそれが永遠のように感じられた。
すべてが動きを止めた張りつめた場に、突然、そよ、と一筋の風が舞い込んだ。
「くぅぅ…………っ‼」
ぎりぎりと歯を嚙みしめて、ラグが震える足でゆっくりと立ち上がる。込み上げる恐怖を懸命に飲み下し、そして、それと闘いながら、彼は一大決心をした。
シオンができないなら、僕が、シェルを守る‼
震える手を祈るように重ね合わせ、彼は精霊を呼び込み始めた。
来て、来て、来て!僕を、シェルを助けて!少年の懸命な願いに応じて、風の精霊が集い始める。風は風を呼び、程なくうねる乱流となって膨大な精霊力を帯び始める。
巻き起こる激しい風に艶やかな黒髪を弄らせ、少年はさらに精霊を呼び集めようと、天に向かって小さな両の手を高く掲げた。
乱流はもはや嵐のごとくと化し、シェリルたちは立ってすらいられずに、大きな瓦礫の陰へと避難を余儀なくされた。
やがて、精霊ヘの呼びかけに集中するため閉じていた瞳を、彼はカッと見開いた。
次の瞬間、激しい乱流は悶えるように凝縮し、その渦巻く中心に淡い青白い発光体を出現させた。
「ほう……。『魂喰らい』か」
「『魂喰らい』……⁉」
男とシェリルの声が同時に交錯する。男は卑下すべき憎悪の対象が生み出した高度な術式を即座に理解したための感嘆の声を、シェリルは男の呟いた術名におぞましさを感じての悲鳴を。
二人の精霊使いの実力の差が、歴然と表に現れた瞬間でもあった。
シェリルは、遅まきながらそれに気づき、ぎりりと唇を噛んで、一心に術式を理解しようと目を凝らした。
光の精霊が高位精霊力として「空間」を司るように、風の精霊も自然精霊力以外に、高位精霊力として「精神」、ひいては「魂」を司っている。精神や魂に影響を与える力を持つのだ。
術力を編むこともまだうまく出来ないラグが、シェリルを救いたい一心で偶然にも生み出したのは、『魂喰らい』と呼ばれ、魂と肉体とを強制的に分離させ、その対象をやがては死に至らしめる忌まわしい術であり、シェリルは知る由もなかったが、その性質上、良識ある術士の間では禁術とされているものだった。
素養と術制御能力が揃っていなくても、高位精霊力を発現させることは不可能ではない。しかし、その先に待つのは、術の暴走という危険性と、多大な負担による術士自身の破滅しかない。
いくらラグが次代光皇の優れた素質を持っていたとしても、今だ自然精霊力すら制御できない彼が、高度すぎる術である『魂喰らい』を御することは到底不可能であった。
最悪の場合、この場にいるすべてのものを巻き込んで生きる屍へと変えかねない。
「ラグ!風の精霊を解放して!それを放っちゃだめ‼」
シェリルの必死な声は、儚く風に引き裂かれていく。夢中で精霊を呼び集めていたラグは、こつん、と心を叩く何かに気付き、ふとシェリルを見た。そうして、緊迫した彼女の表情に、ようやく自分がのっぴきならない状況に置かれていることを知った。
しかし、時はすでに遅く、風の精霊力は荒れ狂う乱流を養分にして猛烈な渦を巻き、ラグの制御から完全に離れた『魂喰らい』の青白い光は、不気味な輝きを辺りにまき散らしつつ貪欲に勢いを増し続ける。
どうしよう。ラグはおろおろと慌てたが、どうにもならない。けれども、とにかくなんとかしなければと、彼は手を伸ばした。
「あぅ……っ!」
とにかく抑え込もうと乱流の渦に伸ばしたラグの手は、ビシッと鋭く弾かれた。あまりの痛さに手を抱え込み、涙目で信じられないものを見るように渦巻く風の渦を見つめた。
精霊と「語る」ようになって、こんなことは一度もなかった。呼びかけには、みんな喜んで応じてくれた。こんな、こんなふうに、手ひどく拒絶されたことなどなかった!
「止まんない!止まんないよ、シェル!怖いよ、助けて‼」
暴走する風の精霊力に翻弄されて、恐慌状態に陥ったラグは、金切り声でシェリルに助けを求めた。その様子に、紫銀の髪の男は、侮蔑の眼差しをあからさまに見せた。
「自らの力で自滅するか……。仮にも光皇の雛だというのに、なんとも情けないものだ」
「……そんなこと、絶対にさせない!」
冷たい嘲笑を遮り、シェリルが果敢に男を睨みつける。
相手の力量を見極めるのは、今の過酷なルオンノータルで生き抜くための必須条件だ。それを少しでも知る者ならば、男との歴然とした力の差を読み取り、争うなどという愚行を冒そうなどは夢にも思うまい。そこの若い剣士と魔獣使いの女の態度がいい例だ。
ところが、この小娘はたいした力もないくせに、無謀とも言える戦いに挑もうとしている。
「……面白い。これが、あの御方が人間に見出した可能性というものなのか」
彼は実に楽しげに笑う。こんな無謀で小気味良い人間を見るのは、本当に久々だ。すぐに壊すのは、惜しい。そう、実に、惜しい。
「……では、止めてみせろ。雛を救い、私のところまでやって来るがいい。……すべての真実は、ノルティンハーンにある」
言い終えた男は、現れた時と同様に、術力で空間を歪ませ、紋章陣を通って、曇天と化した空の中に溶け込み消えていった。
圧倒的な恐怖は去った。だが、安堵している暇など彼らにはなかった。すでにラグは『魂喰らい』の勢いに押されて悲鳴を上げる気力すら失い、術の渦中で蹲っている。暴走はもう間近に迫っていた。