第3話
「いい人に会えてよかった。落ち着いた良い宿だわ」
シェリルの言う通り、男が案内してくれたのは、家族ぐるみで経営しているこじんまりとはしているが、温かい気遣いに満ちた居心地の良い宿屋だった。
陽気な主人とその妻の心のこもった手料理がうまいのも、野営ばかりで過ごしてきた彼らにはうれしかった。大皿に盛られた温かく美味しそうな料理を前にして、シェリルとラグが歓声を上げる。
外套を外したロセッタに何も言わないのもありがたかった。静かに果実酒を嗜む彼女の獣相に、もちろんぎょっとする客もいないではなかったが、彼女の腕に光る銀の腕輪を見ると、安堵して再び仲間との談笑に戻った。
獣の子らは、魔獣を呼び寄せる交感能力のため、街や村を守る自警団によって殺傷されても文句は言えない。それがルオンノータルに生きる人間の不文律であり、常識である。
その常識を覆す唯一が、ロセッタのする腕輪だ。何の変哲もない、簡素な蔦模様を施した銀の腕輪は、交感能力を完全に制御できる魔獣使いの証であり、獣の子らたる彼らが世界を自由に行き来するための通行証のようなものでもあった。
魔獣を呼び寄せさえしなければ、彼らは優秀な戦士であり魔獣の御者でもある。旅商人の中には、傭兵よりも賃金を安く抑えられるという理由で、彼らを護衛に雇いたがる者も多々いた。
ロセッタのことが必要以上に騒がれないのは、そんな旅商人の利用することの多い店という事情も幸いしていた。もしかしたら、件の大男は、ロセッタの外套の下を見抜いていたかもしれなかった。
久々に屋根のある家庭的な雰囲気を楽しんでいる三人をしり目に、シオンの心は晴れなかった。冴えない顔をして沈み込んでいる彼を、ラグが心配そうに覗き込む。
「……まだ、痛いの?」
罪悪感をたっぷり含んだか細い声に、ふと我に返ったシオンは、シェリルとロセッタにも穴のあくほどにじいっと見つめられていることに気付いて、照れくささのために赤くなった。
「へ、平気だって。そんなに心配されるほど、やわじゃねえよ」
照れ隠しにラグを軽く小突いて料理に手を伸ばそうとした彼は、同じように手を止めたシェリルと目が合った。
「おい、おっさん!」
「おじさん!今の話、詳しく聞かせて!」
商売仲間たちとワイワイと騒がしく酒を飲み交わしていた行商人風の中年男は、勢い込んで席に乗り込んできた若い男女に目を白黒とさせた。
「ああやって息の合ったところは、若夫婦に見えなくもないんだがなあ」
「わかふうふ、って、何?」
いきなり飛び出していった二人に半ば呆れたようにロセッタの口をついて出た呟きに、料理を口いっぱいに頬張ったラグが大皿から顔を上げて、きょとんと首を傾げた。
「……あれは、確か、一月前の夜中のことだったなあ」
行商人は酒で口を湿らすと、彼らに一月ほど前に起こった変事を語りだした。
シェリルたちが訪れようとしていた大祭殿跡は、この街からほど近い丘の上にあり、十年ほど前から傭兵団の根城として使われていた。
傭兵、と言えば吟遊詩人たちの格好の題材で、傭兵出身の英雄は数多く、シェリルのような若者には煌びやかに見える存在だが、その実は、家督を継げぬ貴族の次男、三男、食うに貧した農民など社会のはぐれ者が行きつく先として最も多い職でもある。
仕事にありつけるうちはいいが、窮すれば山賊に化したりと犯罪に走りかねない、犯罪者予備軍。傭兵に対して、そんな辛辣な目を向ける者もいる。
悪評高い傭兵ではあるが、また、一方で立身出世しやすいのも、この職の魅力である。
大祭殿跡を根城にした傭兵団の団長もそうした出世組の一人で、ジャドレックとエイルリーフの二国の境界というこの地の旨味を利用して、時にはジャドレックに、時にはエイルリーフに擦り寄り、さらには、この二国の隙を伺おうとする諸国からの援助を受けて、一国の騎士団並みの規模を持つ傭兵団を築き上げた。
隣在するポルトロもこの傭兵団を大いに歓迎し、傭兵団が睨みを利かせることで治安も向上したことから、行商人たちも安全な交易路を求めて、この街を利用するようになった。
この十数年、街は傭兵団のおかげで、発展を続け大きくなったと言っても過言ではない。
しかし、そんな屈強な傭兵団が、一月前、たった一晩で壊滅に追い込まれた。
魔獣という、ルオンノータル最凶の災厄の到来によって、である。
しかも、とんでもないことに、この魔獣、たった一頭でその惨事を成したのだという。
「ありゃあ、凄かった。黄金色の派手な翼竜が、稲妻だの炎だのを呼び込んで、散々に荒らしまわってさ。一晩中、どんどんピカピカ、地響きまでする始末でさ。街まで襲われたら死ぬしかないって、みんな毛布を被ってぶるってたよ。やっぱり、魔獣ってのは、恐っろしい化け物だなあ」
行商人の話に、あの時の恐怖が蘇ったらしい街の住民らしき男が、ぶるぶると身震いを交えながら話に口をはさんできた。
シオンとシェリルは、その話に、彼らとは別の意味で蒼白になった。
黄金の竜。かつて、シェリルとシオンが出くわしたものと同じ特徴を持つ魔獣が引き起こした惨事。もし、この惨事があの魔獣の仕業だったとすれば……。
「……あいつ、なのか?」
「そっ、そんなはずないわよ。だって、あれは、あの時、ディスクードのおかげで改心したはずだもの」
二人が額をくっつきそうなほどに顔を近づけて、ひそひそと言いあっていると、カウンター越しに黙って作業をしていた店主が、この上ないくらい不機嫌な顔で、怒りを含んだ呟きをぼそっと漏らした。
「強い恨みや妬みのあるところに、魔獣ってのは惹かれるもんだ。あんな薄情な奴ら、罰が当たったのさ」
意外な言葉に、シオンとシェリルが驚いて顔を上げる。それと同時に、あんなにも騒がしかった店内の喧騒がピタッと止んだ。
酒場の誰もが親父を見つめていた。そして、彼らは程なくお互いを眺め、深くため息した。
「……親父さん、あいつのこと、本当の息子みたいに思ってたからなあ」
「いい奴が長生きできねえなんて、嫌な世の中だよなあ」
「まったくだ」
「あいつ」の話が始まった途端、酒場はしんみりとした雰囲気が漂い、誰からともなく一人、また一人と木杯を掲げて祈りを捧げ出した。
「よければ、聞かせてもらえないか?」
シオンが先ほどの行商人に酒を奢ると、商人は舌滑らかに語りだした。
どうやら、大所帯になった傭兵団は、様々な問題を抱えていたらしい。老いた団長の後釜を狙い、水面下で苛烈な副長たちの争いがあった。その副長の一人が、悲壮な死を遂げたのと言うのである。
なんでも、それは傭兵団が魔獣に襲われるわずか数日前の出来事で、盗賊団の討伐に出掛けたものの逆に不意打ちに遭い、率いていた小隊もろとも殺されたという。
そこまで商人が話したところで、待っていましたとばかりに、他の連中がシオンらに身を乗り出し、陰謀だ、盗賊の内通者がいたのだ、裏切りがあったのだ、と口々に騒ぎ出した。
老団長に息子のように可愛がられ、覚えめでたかったその副長を嫉んだ他の副長たちが陥れたと固く信じているらしい。
陰謀等々は置いておくとして、まあ、その副長とやらが、この宿の常連であったことを考えれば、彼らの心情は理解できないこともない。そんなふうに考えて、木杯の酒を口に運ぼうとしたシオンの耳に、そういえば、とシェリルのつぶやきが聞こえた。
「そういえば、あの人、傭兵みたいに見えたわ。ここの傭兵団の生き残りの人だったのかしら」
「ああ、ジャドレックの兵ではなかったしな」
シオンも先ほどの男を思い浮かべて、相槌を打つ。
「どんな男だい?」
彼らの会話に興味を持った客たちが、男の特徴を尋ねてきた。シェリルは素直に男の特徴を話す。
男の立派な体格、金色の髪、腕白な少年がそのまま大きくなったかのような顔立ち。
そして、印象深かった琥珀色の瞳。
シェリルが特徴のすべてを語り終える頃には、店内は水を打ったかのように、しん、と静まり返っていた。酒のおかげで陽気になっていた男たちの態度が一変し、青褪めてガタガタと震える者までいた。
「……どうかしました?」
状況をよく飲み込めていないシェリルに、店内の人々を代表して宿の主人が冷水を浴びせるようなことをぼそりと呟いた。
「……幽霊だ」
「幽霊?」
「……嬢ちゃん、精霊様に感謝するこったな。あんたら、幽霊に助けられたんだよ」