第7話
それは、六百年ほど昔の話。
ある村に一人の子どもが生まれた。本来ならば祝福されるべき子どもは、生まれ落ちてすぐに親の手によって、魔獣が出没する樹海の淵へと捨てられた。
獣相を持つ子どもに待ち受ける当然の運命だった。
しかし、その子どもは運よく魔獣に拾われ、過酷な自然環境を生き延びた。長ずる中で、子どもはごく自然に交感能力を制御する術を身につけた。養い親に比べ、貧弱な人間の身体を持つ獣人の彼にとって、それは生き残るために欠かせない能力だったからである。
やがて、彼の中に疑問が生まれる。
なぜ、自分はこんなにも貧弱な体なのか。身近にいる魔獣や獣よりも人間に近い身体を持つ己に違和感を持ち始めたのだ。
疑問を抱え、日々を過ごすある日、彼は樹海の中で子どもを拾う。自分と同じような獣相を持つ子どもを。姿も性状も異なるものたちがひしめく樹海で、常に孤独を感じていた彼は、初めての同族に出会い歓喜した。
彼はとうとう知ったのだ。自分と同じ種がこの世界に存在していることを。
赤子との出会いを転機として、彼は広大な樹海を歩き回るようになった。捨てられた獣相の赤子、自分のように樹海で何とか生き延びている者を探すために。
やがて、二つの月が幾度大地を巡っただろうか。月日を経るにつれ、彼の周りには幾百もの同胞が集い、樹海の淵にひっそりと村を作るまでになった。
彼は同胞の囲まれ、幸せだった。
最初に拾った赤子は、いつの間にか成長し、彼の傍らで新たな弟妹を育てることに勤しんでいた。
しかし、大集団へと膨れ上がる彼らの平穏は長くは続かなかった。
人間は獣の子らを恐れる。その背後に見え隠れする魔獣を忌む。彼らを生かしておくわけにはいかないと、樹海周辺の近隣諸国は結託し、獣人討伐を始めたのである。
獣の子らは生来より、人間よりも数段優れた身体能力を兼ね備えている。が、統率のとれた軍隊や騎士団を退けることは不可能であった。
大人だけでなく幼い獣人までもが次々と殺されていく中、わずかに生き残った獣人たちは、森の奥へ樹海の中へと逃げ込み、今、シェリルたちが佇むこの地まで逃げ延びてきた。
絶望的な状況の中、彼らは一人の青年に出会う。
夜の闇よりなお深い漆黒の髪。宝石のように煌めく翡翠の瞳。人ならぬ気配を湛えた青年は、自らを光皇ディスクードと名乗り、獣の子らの窮状を憐れんで、彼らに契約を持ちかけた。
この地に、人間の踏み込めない結界を創造する。その代り、人と争ってはならない、共存する道を模索せよ、と。
彼らは一も二もなく、この取り引きに飛びついた。世界に安住の地を得ることは、彼らの宿願だった。安心して暮らせる場所があれば、人間と争う必要などない。
彼らは青年の申し出を受け入れ、契約の証として、この地に質素ながらも美しい光皇祭殿を築いた。
しかし、この物語は幸せなままでは終わらない。この契約は、世界に思わぬ災厄をもたらすこととなったからである。
広大な土地に恒久的な結界を創造することは、いかな光皇といえども、その身に多大な負担を強いることとなった。その結果、光皇ディスクードは、自らの肉体に致命的なほどの負荷を被り、光皇の力を急速に減衰させた。
今まで光皇の力によって保たれていた世界の天候は乱れ始め、代々の光皇が各地に封印していた古の凶悪な魔獣が次々と覚醒していく。こうして、世界は混乱の渦に巻き込まれた。
「……それが、聖魔大戦の本当の発端ってわけか」
恐るべき真実が秘された獣人の歴史に、背筋に冷たいものが伝うのを感じた。それは、おそらくシェリルも同じだろう。獣人たるロセッタに至っては、それ以上の衝撃に違いない。もしも、万一にもこのことが、人間に知られたら……。
「……そうだ。事の真相が漏れれば、戦の始まりを作った元凶として、今度こそ我らは人間に根絶やしにされるだろう。それを恐れた我らの祖先は、光皇との繋がりを示すこの祭殿を隠し、代々の長老たちのみが真実を口伝にて伝えてきた。……いつか、ディスクード様の遺志を継いだ新たな光皇が、荒廃した世界を救ってくださる。その御方に尽くすことで、我らの大罪が晴れることを信じてな」
長い長い話を終えた老人は、ほう、とため息をつくと、小柄な彼よりも頭一つ小さな黒髪の少年を見据えた。そうして、彼の前に進み出ると、両手をついて深々と額づいた。
「気の遠くなるほどの歳月、我らは貴方様をお待ちしておりました。……どうか、世界を、我らをお救いくだされ」
「シェ、シェル……」
世界を救えなどといきなり言われたラグは狼狽えた。光皇だの何だのと言われても、彼の中身は世間すらも知らない幼子のままである。老人の畏まった態度に酷く狼狽してしまい、シェリルの後ろに隠れたのは、無理からぬことであった。
そんなラグに代わって、シェリルが老人に問う。
「世界を救うったって、ラグはまだ、ほんの子どもだわ。それよりも、ノルティンハーンをご存じありませんか?ディスクードに言われたんです。ラグをノルティンハーンに届けて欲しいって」
「ディスクード様に会ったと言うのか⁉」
「幻みたいな姿でしたけど、確かに会いました……?」
ここで、さすがにシェリルも首を傾げる。六百年以上前の人間が生きているなんて、あり得るだろうか。
「伝えられてる話じゃ、生死不明のままって言われてるよな。……ってことは、光皇は何らかの形で生きているってことか?」
「……そうかもしれない。ううん、きっと、そうよ!きっと、ノルティンハーンで、あたしを、ラグを待っているんだわ」
「バカ言え、そんな都合のいいことあるわけねえだろ。死んでなかったら、お前みたいな世間知らずになんか頼まずに、さっさと自分で迎えに来りゃいいじゃねえか……ううっ!」
足を襲った突然の激痛に呻くシオンの足には、ラグの小さな足がしっかと乗っていた。
「こんの、くそガキ……!」
「シェルの悪口言わないで!どっちにしろ、ノルティンハーンに行けばわかることでしょ!」
口の悪い傭兵に渡り合う勝気な少年の様子に、思わず吹き出した老人は、続けて豪快に笑いだした。
それは、背負ってきた重荷をようやく下せることを安堵する気持ちを多分に含んでいるような笑い方でもあった。大きな笑いをひとしきり発した後、彼は澄み切った夕暮れの空を見上げた。もう太陽は沈みかけ,黒き月よりも足の速い白き月が、ほのかに輝き始めている。
「ノルティンハーンは、あの空の高みにある」
老人の深い皴の刻まれた節くれだった指が指し示す先に、一同は飛び上がるほどに驚いた。
「空⁉」
思わず見上げた先には、吸い込まれそうな青色から紫苑色へと美しく変化していく暮れかけの初夏の夕空が広がるばかりである。ポカンと見上げる彼らに、老人は続けて語る。
「ノルティンハーンとは、聖天の城。すなわち、天に浮かぶ大きな浮き島そのものなのだ。その昔、何代目かの光皇が、地上の覇権争いに巻き込まれたのを期に、空に浮かばせたものと聞いておる。ルオンノータル中を絶えず移動しておるそうだし、もし、運よく見つけられたとしても、あの空の高みに辿り着く手段があるのかどうか」
そんなとこ、どうやって行くんだよ。痛む足を擦りながら、シオンはラグとシェリルを見た。
「……でも、行きたいんです。あたし、約束を破って後悔するのは、もう嫌なの」
シェリルの真剣な眼差しが老人を見つめる。娘の揺るぎない決意を見て取った老人は、ゆっくりと口を開いた。
「西の山地を越えた先にあるセスデ高原を目指すがいい。そこに、かつて光皇たちが築いたとされる十の大祭殿の一つに当たる祭殿跡があると聞いた。何か手がかりが残っているかもしれん」