第5話
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「しぇる……」
幼子・ラグは早くも泣きべそをかいていた。シェリルの姿が見えなくなってから、大分、時を経ている。なのに、彼女が現れる気配は一向になかった。
たった三日しか経っていない。けれど、惜しみなく愛情を注いでくれたシェリルの存在は、大人たちが考えている以上にラグの心を占めていた。
「しぇる」の側で、「しぇる」の感情に触れるのは、なににもまして心地よかった。なのに、「しぇる」は、いない。
「しぇる……」
彼は再び涙声でつぶやくと、抱え込んでいた卵をぎゅう、と抱きしめた。
「おやおや、男の子がめそめそしてるんじゃないよ」
扉が開く。シェリルが来たのかと期待したラグの長い耳がぴん、と跳ね上がった。が、次の瞬間、しおしおと耳は垂れ下がった。扉を開けて彼の顔を覗き込んできたのは、兎の耳に似た茶色いふさふさの長い耳を持った、ぽっちゃりとした人の好さそうな初老の女だった。
「しぇる、ドコ?」
たどたどしい言葉遣いで、必死に娘の名を呼ぶ幼子に、女はにっこりと笑みを浮かべると、大きな手でくしゃくしゃと彼の黒髪を撫でた。思わずよろけてしまいそうになるくらい力強い撫で方ではあったが、その手を通じて、温かい感情を感じた。
「そんなにあの娘が好きなんだねえ」
会いたい。抱きしめてもらいたい。
心の奥底から湧き上がる、「しぇる」を求めるこの気持ちが、「好き」というものなら。
好き。大好き。とっても、とっても好き。言葉が感情に追いつかないくらいに。
言葉にできない想いがもどかしくて、ラグは懸命に首を縦に振る。そんな健気な子どもの様子に、けれど、女は気の毒そうに告げた。
「人間だってのに、いい娘だったんだねえ。でも、もう会えないんだよ。獣の子らの子どもは、獣の子らの中で育つんだ。大丈夫、あの娘がいなくったって、同族の子どもが沢山いるし、あたしがあんたの面倒をみるから、寂しいと思う暇なんかあるもんか!」
ラグの表情が凍り付いた。流れるようにしゃべる女の言葉で理解したことは、ひとつ。
たった、ひとつ。
「しぇる」が自分の元からいなくなってしまうこと。会えなくなるということ。
「…………イヤ」
ココン。
軽い音が木の床を叩く。ラグの腕から白い大きな球がするりと滑り落ちていた。シェリルたちが竜の卵だと言ったそれは、ころころと力なく床の上を転がっていく。
「坊や、落ちたよ」
卵は転げて、女のつま先にこつん、と当たった。彼女はそれを拾い上げ、子どもに手渡そうと、立ち尽くす小さな肩に手を伸ばした。
途端、びくり、と跳ねるように幼子が顔を上げ、怯えた表情を女に向ける。大きな翡翠色の猫目が、悲しみでゆらゆらと揺らいでいた。
「坊や……」
その揺らぐ瞳のあまりの美しさに、女は息を飲んだ。
「…………イヤ‼」
鋭い絶叫とともに、子どもの額から浮かび上がった紋章から、強烈な閃光が迸った。光は鋭く真っ白な輝きを四方へと走らせ、瞬く間に、幼子を、女を、すべてを飲み込んでいった。
強烈な風とそれ以上に圧倒的な光の爆発が、突然、何の前触れもなく町全体を押し包んだ。ほぼ同時に、ずずっ、ずずっと軋むような音を立てて地響きが断続的に続く。長きに渡る歳月に耐えてきた堅固な石造りの建物が、その不気味な地鳴りに怯えるように、ガタガタと小刻みに揺れた。
「いったい、何が起こった⁉」
不意に窓から襲い掛かった強烈な光で目が痛い。早く視界を回復させたくて目をごしごしと擦りつつ、慌てて窓に近寄ろうとしたシオンは、ふと足を止めた。
シェリルが、泣いている。
底抜けに明るい彼女が、声を殺して泣いていた。
「……ごめんね、ラグ。ごめんなさい、ディスクード。あたし、約束……したのに……」
そう、誰に言うともなく掠れた声で呟くと、彼女は部屋を飛び出した。
彼女が向かうのは、間違いなくあの幼子の許だ。黄金竜との戦いを中断させた謎の光と、全く同質の光を窓の外に見たシオンは、彼女の行く先を確信した。
「……いくら、約束だって言ったって、泣くことはないだろうに」
騙した奴より騙された奴の方が悪い。誰も彼もが生き残るために平気で嘘をつくのが、今の世の中の当たり前だ。そんな世間を何年も一人で生き抜いてきた青年の胸に、彼女の涙がずきりと痛い。
ずっと昔に無くしてしまったと思っていた、優しい、懐かしいなにか。それを彼に思い出させる。
「ディスクード、だと?……あの娘は、いったい何者だ」
「長老?」
ぶるぶると小刻みに震える老人の顔は、若干青褪めて見える。ロセッタが心配そうに小柄な老人の顔を覗き込んでいた。
「わしのことなど構うな!それより、あの娘を追え、早く!」
老人のただならぬ慌てぶりに、シオンとロセッタが一瞬視線を交錯させた後、外へと飛び出す。後に取り残された老人は、肩を落とすと力ないため息をぽそりとついた。
低く唸るように地響きと微かな揺れが断続的に足元から伝わってくる。シェリルは黄金の翼竜を退けた、あの時と同じ光の只中にいた。
しかし、術士の彼女には違いがわかる。わかりすぎるほどに、わかってしまう。あの時の光は、慈愛と包み込むような優しさに満ちていた。
だが、今は。
悲しみと寂しさ。ひしひしと心に迫る孤独。
絶望の淵に深く深く沈み込んだ閉じた心。今のラグの心そのものの光。
シェリルはぎり、と歯を嚙みしめた。彼女はあの幼子の支えになると誓った。ディスクードの許へ、ノルティンハーンへと送り届ける道を選んだはずだ。
それなのに、ほんの一瞬でもラグを手放そうとした自分の弱さを、彼女は今、痛烈に恥じていた。獣の子らと人間の確執などどうでもいい。そんな困難があるかもしれないのを、お前は承知で引き受けたのではなかったか。
己を責めながら、為す術もなく光の中に立ち尽くす彼女の脳裏に、ふと、幼馴染みのティルトの面影がよぎった。
自分をごまかすようなことはするなよ。
何度でも家出すればいいだろ?俺にも連れ戻せないようになったら、一人前だよ。好きにすればいい。何度もティルトに見つかっては連れ戻され、落ち込んで立ち直れなくなっている彼女を、彼はそうやって慰めてくれた。
一見頼りなさそうに見えて、その実、村の誰よりも彼女を理解していてくれた彼を、今にして思うと、彼女は一番頼りにしていたのだ。そんな彼の諭すような口調は、尻込みする彼女に勇気を与える。
シェリルは、ラグがいるであろう、眩い光の向こうを見据える。
刺すような痛みが胸を貫く。痛いほどの悲しみに、彼女はラグがどれほど自分を慕っていたのかを思い知らされる。そうして、思う。自分はそれに見合うだけの愛情を彼に注いでいただろうか、と。
まだ、やり直すことはできるだろうか。わずかな可能性に彼女は賭け、強い決意を胸に、深く息を吸い込むと、光の中心に向かってゆっくりと歩き出した。
中心に向かうにつれて、光は物質的な圧力を伴いだし彼女の歩みを重くする。すでに自分の足元すらもおぼつかないほどの光が、辺りの空間を埋め尽くしていた。
「ラグ、あたしよ。どこにいるの?」
途端に、耳を塞ぎたくなるほどの地鳴りの音が間近に響き渡り、今まで以上のものすごい圧力がシェリルの体を押しつぶした。思い切り地面に叩きつけられて、一瞬、息が詰まる。それでも、彼女は腹這いになって、中心にいるはずの幼子の許へと地面を這いずって進む。
圧力は、裏切った彼女を拒むラグの拒絶の心だ。
ならばこそ、どんなにみっともなかろうと、どんなに圧力が強まろうと進むのをやめるわけにはいかない。ごまかしのない、自分の本当の気持ちを知ってもらうために、彼女は地を這いずる。
光の圧力は、そんな彼女を責めるように際限なく力を増し続け、彼女の体を地に縛り付けようとする。ぎりぎりと体にかかる圧力に気を失いそうになりながら、気力を振り絞って叫んだ。
「ラグ!お願い、出てきて!」
霞む視界の先に、ぼんやりと小さな人影が浮かぶ。
「しぇるハ、ボクヲ、ステタ」
幼くたどたどしい声は、余計に冷たく彼女の心に鋭く刺さる。
「ボクハ、イラナイ?」
「違うわ!」
まるで世界中からいらないと拒絶されたように、か細く震える声に、シェリルは即座に否定する。
「ドウシテ、ステル……?」
体を押しつぶそうとする光の圧力は変わらない。が、もうそんなものはどうでもよかった。切ない声を上げるラグを、彼女はすぐにでも抱きしめたかった。両手両足を振り回し、全身を使って、光の奔流を流れに逆らって無我夢中で泳ぐ。
届け、届け、届け!
圧力の海を力の限り泳ぎ切ったシェリルの手が、ついに、ラグの手をつかんだ。
「……獣の子らのラグは、人間のあたしといるよりも、この町で暮らす方が幸せなんだって言われたの。……あたしもその方が、ラグは幸せになれると思った」
ラグの幸せなんて、建前だ。それを理由に、これから巻き込まれる何かから逃げ、ラグへの責任を放棄できることを喜ぶ卑怯な自分が、この心のどこかにいた。
「でも、ラグの思ってる幸せって、そうじゃないのね」
「ウレシイ、タノシイガ、シアワセ。デモ、しぇる、イナイト、ウレシクナイ、タノシクナイ」
悲しみを堪えるような震えが、つかんだ手から伝わってくる。
「……そうね。あたしたちが考える幸せが、ラグの幸せだなんて、勝手な思い込みなんだわ」
「イッショニ、イテ」
村人とは違う、精霊と「語る者」だった自分。こんな優れた力を持ちながら、小さな村に押し込められて暮らし、オランジュのように老いていくだけの人生など耐えられなかった。
旅に出れば、もっと大きなことが出来るに違いない。それこそ吟遊詩人に謳われるような英雄にだってなれるかもしれない。そうして、何度家出を繰り返したことか。
でも、現実はどうだ。こんなに自分を慕ってくれる子ども一人守ることもできない非力な自分が痛感させられただけだ。
「ラグ、あたしは、あなたが無邪気に慕ってくれるような心の綺麗な人間じゃない。あなたが思い出させてくれなかったら、平気であなたを捨てるような卑怯な人間なの」
弱い自分をシェリルは生まれて初めて自覚した。そんな己の弱さを曝け出す彼女の手に、ぽつり、と温かい滴が、ラグの頬から伝い落ちる。
「……しぇるト、イッショニ、イタイ」
「……あたしで、いいの?」
幼子は同じ言葉を噛みしめるように繰り返す。
「しぇるト、イッショニイタイ」
シェリルの返事はない。代わりに、眩く白銀の煌きを宿したラグの額の紋章の上に、ぽつり、とシェリルの涙が落ちた。涙が紋章に触れ合った途端、それは、きらきらとした虹色の輝きを放った。
「……うん。あたしも、ラグと一緒にいたい」
二人はどちらかともなく、お互いを確かめるように強く抱きしめあった。悲しみと孤独の色を宿していた光が、慈愛のこもった優しい光へと変わっていく。それはさざ波のように周囲に伝播し、広がっていった。
強烈な光が徐々に薄らぐ中、ラグの足元に転がっていた白い球体が、ふわりと柔らかな光を放つ。
『時は、満ちた。今こそ、絆を結ぶ時』
幼子の頭の中に、厳かな声が響く。その声を受けて、ラグはシェリルから、つっと体を離す。
「しぇる、キズナ、チョウダイ」
「絆?」
長いこと光の只中にいて、目がおかしくなったのだろうか。目の前にいるはずのラグの体がぼんやりと光ってよく見えない。
「ウン、キズナ。キズナヲ、チョウダイ」
「絆……って?」
何度も同じ言葉を繰り返すラグに困惑したシェリルの脳裏に、その光景は突然に広がった。
どこまでもどんよりとした黄昏の空。その鉛色の空の下、迫りくる暗闇を挑むようにして見つめ続ける、迫る暗闇よりなお暗い漆黒の髪の青年の姿。背後から差し込んでくる朝日が逆光となって、はっきりとした姿は見えないが、あれは、確かに……。
「ああ、そうか。そうなのね。だから、あなたは、ラグだったのね」
すべての得心がいったかのように、シェリルは笑った。そうして、愛しい幼子を抱き寄せて、その耳元に顔を近づけ、彼女と彼との絆、約束の言葉を囁いた。