7.
「ちょうど一年くらい前かな。理沙が誠くんに告白したの」
理沙はそう言って一瞬浴室の方へと視線を移した。
「その時はね、振られちゃった。好きな子がいるからって。誰が好きなのか知りたくて、理沙一生懸命調べたんだ。
――ねえ、覚えてない? 私が時坂さんにお願いしたこと」
「……お願い」
焼かれるような傷の痛みを堪えながら、私は中学時代を回想する。
といっても、正直覚えていることは少ない。
ただひたすらに毎日が同じ事の繰り返しで、私の仕事はクラスのあの席に存在し続けることだけだった。
普通に見えることを心がけ、クラスメイトを真似してノートを取り、決まった時間に食事をし、毎日同じ時間に下校していた。
それはまるで時計の指針だ。
延々と同じ軌道を周り続ける時間の奴隷。
立ち止まることすら許されず、ただ同じ速度で歩み続ける事だけを課された歩兵だ。
学校での私は、ただ時間が早く過ぎる事だけを願っていたように思う。放課後になれば翌日の朝までは自分ペースで時を紡げる。サテライトに顔を出して射撃の練習をして、柳に護身術を教わり、あの白い地下で医者の真似事をする。
それは私の魔女を殺すという目的に合致した、充足感のある時間だった。
だから、私は完全にルーチン化していた学校の出来事をあまり覚えていない。
通学路ですれ違った人の顔を覚えていないのと同じだ。興味のない事柄は記憶されないし、したとしても直ぐに忘れてしまう。
「悪いけれど、記憶にないわ」
言い終えた瞬間に拳銃のグリップで頭部を殴られた。
一撃では終わらず、何度も、何度も、何度も、何度も。
「理沙お願いしたんだよ。もし誠くんが――誠くんが――」
衝撃に耐えつつも思慮を巡らせる。
マコトクン。
それはつまりあの浴室で死に掛けていたマコトクンのことだろう。だが私には彼についての記憶がない。向こうは私の名前を呼んでいたし、同じ学校に在籍していたのはどうやら事実のようだけれど。
理沙は私の頭部からグリップを退け、代わりに足の裏を私の顔へと落としてきた。煙草の火を消すようにグリグリと踏みつぶされる。
「誠くんが、告白しに来たら、嫌われるくらいハッキリ断ってねってお願いしたじゃない!」
俺、時坂のことが好きだ!
「あ」
夏――
そう、ちょうど一年ほど前だ。
夏休みに入る直前だったと思う。周りは受験のための予備校をどこにするかとか、夏休みは何処に行くだとか、そんな話をしていた。
校舎裏――
放課後に「ちょっと来てほしい」と声を掛けられた。学校で誰かに話しかけられることが久しぶりすぎて、返事に窮している間について行くことになってしまったのだ。
蝉の声――
とてもとても暑い日だった。
校舎から聞こえてくる人間のざわめきが、蝉の大合唱に打ち消されていた。あんなに小さな生き物なのに、どうしてこれほどまでに自己主張が出来るのか不思議だと考えた。
湿った土と蒸発する水の香り――
朝方まで雨が降っていたのだ。そこかしこにある水溜りに空が映っていた。太陽がいくつもあるようで、まるで空を万華鏡に閉じ込めたかのようだった。
樹のざわめき。木漏れ日――
校舎の裏は山に通じていた。
そこから涼しい風が吹き下ろしてくるのだ。風を受けて鳴く木々の声が鮮明に蘇る。
その中に私と彼が立っていた。
俺、時坂のことが好きだ!
彼は唐突にそう言った。
本当に唐突だったのだ。
何の前置きも何もなく、ただただ真っ直ぐに私の目を見つめて。
私は、戸惑った。
相手が名前も知らない男の子だったから、という訳ではなく、単純に異性が好きという感覚が、好意を抱くという感情が、理解が出来なかったからだ。
もちろん私のような人間でも『恋愛』という現象は理解しているつもりだ。ただそれは生命が自らの遺伝子を後世へ伝える、種の保存のためのメカニズムという概要だけであって、人間特有の恋愛感情に関しては本当に全く理解できないでいた。考えてみようにも思考の取っ掛かりすら見いだせない。
ただそれでも、好意を相手に伝えるのはとても勇気のいることだというのは聞いたことがあった。
彼は勇気を出したのだ。
頑張ったのだ。
それはとても理解出来る。頑張らなけれはならない状況というのは、往々にして苦痛を伴なう。
それはとても大変なことだ。
だから私は彼に対して、とても申し訳ないと考えた。
私は、彼が何の為に勇気を振り絞っているのか、それすらも理解できなかったのだから。
すみません。あなたの気持ちがわかりません。
どう答えていいのか分からず、迷った挙句、私は正直に答えることにした。
こんな欠陥だらけの私を好きだといってくれたこの人に、せめて正直に話すことだけが、私に許される唯一の回答だと考えたからだ。
ごめんなさい。わからなくて、ごめんなさい。
そう頭を下げる私を見て、彼は「時坂らしい」と苦笑していた。
「やっと思い出したみたいだね」
理沙の声で意識を引き戻された。
そうだ、記憶に耽っている場合ではなかった。
「私にしては珍しく、はっきりと思い出したわ。そう、あれが誠くんだったのね」
私は再び理沙を見つめる。
「でも申し訳ないのだけれど――思い出したのは彼のことだけよ。貴女のことは全く思い出せないわ。私、本当にそんな約束したのかしら?」
そう言った瞬間、彼女の相貌が鬼のように歪んだ。
憤怒、憎悪、嫉妬、嫌悪、ありとあらゆる負の感情を乗せたような金切り声を上げ、私の頭を踏みつけようと大きく足を上げた。
――――そして、それで十分だった。
私は頭に打ち下ろされた理沙の足を払い、立ち上がりざまに彼女の拳銃を持つ手首を捻り上げた。
「なっ!?」
暴発する拳銃。弾は私の頬を掠めて飛んでいった。
指から引きちぎるようにして拳銃を奪い取り、理沙の鳩尾を思い切り蹴り飛ばした。全体重を乗せた前蹴りは理沙を壁へと叩き付けた。
間髪入れずに二回発砲する。
弾丸は難なく理沙の両肩に吸い込まれ、骨を打ち砕く。
「う、ああ! ぎゃあああああああああああああああああああああああ!!」
「煩い」
額へ右足を叩き込むと静かになった。
「あ……あぐ、……そんな、そんな、なんで動けるの……」
「【傷を治したからに決まっているでしょう。】」
理沙の両目がこれ以上ないというくらいに見開かれる。
気がついたのだろう、先ほどまで私の身体を覆い尽くしていた裂傷がほぼ塞がっていることに。まあ本当に塞いだだけなので完治にはほど遠いが、今は動くだけで十分だ。
「そんな、じ、自分の傷は治せないって、さっき、車で」
「なぜ貴女に本当のことを喋らなければならないのよ」
別に彼女が魔女憑きだと疑っていた訳ではない。
というか全く疑っていなかった。『治せない』と言ったのは、まあ、私がたまたま適当に答えていただけという……ただの偶然だ。
「そんな、騙したのね、狡い!」
「貴女にだけは言われたくないわね」
思わず嘆息してしまった。どっと疲れてしまう。
「でも貴女が嗜虐的な性格で助かったわ。おかげで治療の時間が稼げた」
「……じゃあ、今まで話していたのは、治療のための……」
「ええ。そうでなければ貴女が私を嫌う理由なんて聞かないわ。
言ったでしょう、私は意味がない事はしない主義なのよ」
なるべく時間を稼ぎたくて、彼女が一番長く話し込みそうな『私への憎悪』についての話を聞いてみたのだ。結果としては想定通りだったけれど、それでも、まさか自分の昔の記憶まで思い出すとは思わなかった。これは予想外のおまけだ。
まあ、そんなことよりも。
「ところで、もう私の身体を引き裂かないのかしら」
「……」
理沙は私を睨むだけで動かない。
いや、腕を破壊され、拳銃を突きつけられている状態では動けないのだ。
そして彼女に睨まれるだけでは、私の肉体は裂けも爆けもしない。
「本当に、まんまと騙されたわ。貴女の魔法は、やはり血液付着部分を破壊するもの。【ただし過去に付着していた部位も含む】ということね」
あの皮膚内側から爆ぜるような感覚。
恐らくは血液を媒介として相手の肉体を内側から破壊させていたのだ。何度も身体を引き裂かれてようやく理解することが出来た。
逆に言えば繰り返し攻撃されたからこそ気がつくことが出来たのだ。同じ手品を何度も見ていれば、種に気づく可能性が高まるのと同じだ。
それに先ほどの攻撃。
裂けていたのが私の身体の前面部分だけというのも、私が確証を得た理由の一つだ。
前面。
つまりは、昨日の夜に理沙を治療した際に、私は正面から彼女に抱きつくようにして治療を行っていたからだ。
だから身体の前側には大量の血液を浴び、逆に背面は殆ど血液に触れていなかった。そのため先ほど受けた傷も身体の前面に集中することになった。
うつ伏せに倒れたことで気付かれずに治療を行えたのは行幸だったけれど。
「さあ、貴女の魔法は解けたわ。次は私の質問に答えなさい。貴女の親である魔女の名前と、瞳の色は?」
「……ほん……うに………本当に…………」
「なに?」
「本当、に、約束、覚えてないの?
ちゃんと、はっきり断るって言ってたんだよ?
それなのに、誠くんはいつまでたっても、
時坂さんのこと、ばかり、ずっと見ていて……
理沙は、理沙は……!」
震える声で、か細く鳴くように告げる理沙。
私は嘆息混じりに答える。
「全く覚えてないわ。
私、どうでもいい事柄に関しては、本当に記憶力が働かないの」
「う、うううう、ううううう、ううううううううううううああああああぅぅぅ!」
理沙は癇癪を起こしたかのように、自ら後頭部を壁へと叩きつけ始めた。
何度も何度も、低く鈍い音が部屋に響く。
「ころしてやる……殺してやる、殺してやる、殺してやる……!」
呪詛がその唇から漏れる。
溢れ出る感情のせいか、それとも傷の痛みのためか、憤怒の表情のまま、瞳から大粒の涙が流れていた。
「貴女には無理よ。もう両腕も動かないでしょう」
彼女の血液にさえ触れなければいいのだ。
撃ち抜かれた肩からは絶えず鮮血があふれていたが、関節を砕かれているため血飛沫を飛ばすことはできない。
彼女はすでに私に危害を加える手段を失っていた。
「…………」
理沙は口を結んで答えない。
さてどうしようか。
この子のメンタルを考えれば暴力的な尋問に掛ければ質問に答えてくれそうではあるけれど、正直に言えば私の体力も限界に近い。
とにかく出血量が多くて血が足りたい。
あまり長い時間をかけて彼女に質問するのは無理だろう。
かといってただ殴りつければいいという問題でもない。
尋問の最中に血飛沫が舞うような真似は本末転倒だ。
連れ帰ってLSDあたりを使うのが早いか。
被害者が犯人扱いで戻ったら、彼女の面倒を見ていた職員はあまりいい気分にはならないのだろうが、まあ仕方がない。
連絡を取る為に携帯を取り出そうとした――瞬間、理沙が飛び起きた。
両腕をだらんと下げたまま頭から突っ込んでくる。
なんのつもりだろう。頭突き一発でこの局面がどうにかなるはずもなのに。
私は一歩下がり理沙の左足に向けて発砲した。
至近距離からの銃撃に理沙の身体が飛び跳ねるようにして痙攣し、そして、
私の視界が赤く染まった。
それは血飛沫――理沙が口から噴き出した鮮血の霧だった。
細かな粒子となった血液が、私の顔を中心に上半身へと降りかかる。
にいぃ、と理沙が笑う。
その口内は血液で赤黒く濡れており、わずかに覗く覗く舌からは血液があふれていた。
舌を噛んで、血を口に貯めていた――!
「あははははははははははは、死ねえええええええええぇぇぇぇぇぇぇええぇぇ!!」
理沙の絶叫。
グロッグ19の発砲音。
それらはほぼ同時だった。
次いで、どしゃ、という音が部屋に響いた。
――眉間を打ち抜かれた理沙が仰向けで倒れた音だ。
脳漿をカーペットにぶちまけ、ブリッジに失敗したような格好で息絶えていた。
「ぐ、あっ……!」
次いで私も床へと崩れ落ちた。
銃弾が眉間を貫く直前に、理沙の魔法は発動していたのだ。
顔が焼けるように熱く、右目は完全に視力を失っていた。
なんとか見える左目を動かし、窓ガラスに写る自分の顔を確認して愕然とする。
顔面右半分の皮膚が吹き飛んでいた。首から胸にかけても同様だ。
「ひど、い、けほ、ゲボッ、ゲホ!」
自嘲を咳が打ち消した。
それはやがて吐血に変わる。
どうやら彼女の血飛沫を吸い込んでしまったらしい。
喉や食道、肺に至るまで傷を負ってしまったようだ。
「はぁ…………もう…………帰ろ」
と口にしたつもりが、唇や歯が吹き飛んでいるのでまともな言葉にならなかった。
とにかく疲れた。
結局殺してしまったし。
これだけ頑張って何も収穫がないなんて、膝を抱えて落ち込んでしまいそうだ。
スマホを取り出そうとして、ポケットに何も入っていないことに気が付いた。
見回すと浴室の前に落ちている。どうやらバタバタしている間に落としてしまったらしい。
異常に重たい身体を引きずって廊下を歩くと、倒れ伏す誠くんが目に入った。
そうか。彼があの時の男の子か。
近づいて怪我の様子を伺う。
彼と、浴室に沈んでいる女性こそが、今回の案件の純粋な被害者というわけだ。
女性の方は完全に手遅れだが、誠くんはまだ息がある。
赤色の触手を伸ばして彼の両手足の傷を診る。やはり健が切断されていた。このままでは生涯不自由な暮らしを強いられることになるだろう。
――魔女憑き絡みの事件の被害者は、なるべく救済する。
これも私が自分に誓った、大切な決まりごとだ。
私は彼の手足の傷を修復した。
少なくともこれで元の生活に戻ることが出来るだろう。
先ほどは何の収穫もなかったと思ったが、こうして被害にあった人を助けられたのだから、完全に無駄足ではなかった。
そう思うことにしよう。
そう思わなければやってられない。
「ぅ……う?」
ふと、誠くんの意識が戻った。
うつろだった瞳にやがて光が燈り、
「ひ、っ!?」
驚愕に見開かれた。
その視線が私の顔――特に右半分に注がれていることに気付き、ああ、しまった、と遅ればせながら気が付いた。
いまとても酷いことになっているのだった。それこそ他人には見せられないような、普段見えないところまで見えてしまっているスプラッターな顔に。
「と、と、時坂、なのか? それ、そ、その顔」
そこまでが限界だったようだ。視覚的な衝撃のためか、漂う血液の匂いのためか、誠くんは空嘔吐きを繰り返す。
これ以上、彼に負担を掛けるのは申し訳ない。
私は黙って立ちあがり、離れたとこにあるケータイまで歩こうとして二、三歩歩いて、
気が付くと床に膝をついていた。
「あれ」
立ち上がろうとするが身体が思い通りに動かなかった。
酷い咳が出て、信じられないくらい大量の血液を吐き出した。
思ったよりも肺の損傷が激しい。
あ、これ。
やばいかも。
そう考えた直後、私の意識は身体が床に倒れるより早く、暗闇へと落ちていった。