6.
「ッ!」
思っていたよりも『呪詛』の発動が早い。
日のあるうちは大丈夫だと思っていたのだが、どうやら見込みが甘かったらしい。
ともかく出血しすぎる前に傷を魔法で塞がなければならない。ここには外部から補える血液がないのだから。
慌てて理沙へ駆け寄ろうと立ち上がり、いや立ち上がろうとして、足に激痛が走り、そのまま膝を落としてしまった。
いったい、なにが。
そう思って見下ろすと【私の右足が血まみれだった。】
視界に入ってきた光景が理解できずに血に濡れたふくらはぎを呆然と見下ろしてしまう。手で血に触れると、当然のように激痛が走る。
なんだこれは。
理沙がやったのか?
先ほど飛びかかられた時に刃物で斬りつけられでもしたのだろうか。
いや、そんなはずはない。
というか、一本の刃物で出来るような傷ではない。
これはもっと、そう、切り傷というよりはまるで皮膚を内側から引き裂くような――
――内側から?
そこまで考えた瞬間、ある一つの可能性が意識を過ぎった。
いや、しかし、その考えはあまりにも不自然だ。
いや、筋道が通っていない。
むしろ支離滅裂とさえ言える。
だって彼女にはそんなことをする理由が無い。
そもそもいつから『そう』だというのだ?
混乱する私の目の前で、ゆらりと理沙が立ち上がる。
「臭い。時坂さんの血、凄く臭い」
頬を伝う血液を、汚泥かのように払いながらそう言った。
――彼女の顔の血は、【私の足が裂けた時に飛び散った、私の血液】だったのだ。
「あなた、まさか」
呟く私の目の前で、理沙が傷のある右手で空を薙いだ。飛んできた血の滴を反射的に腕で受けると、その腕の皮が弾けるように引き裂けた。
喉から苦悶の声が漏れる。
――――血液によって引き裂かれる肉体。
血液で出来た、刃の牢獄。
それは、昨晩嫌になるほど目の前で見せられた光景だった。
「……あなた、だったのね。あなた本人が魔女憑き」
「そう呼ばれてるみたいだね。こうして時坂さんを這い蹲らせることが出来たんだから、この能力、魔法だっけ? 手に入れてよかったかな」
そういって自らの血に染まった手を向けてきた。
血液を付着させることで対象に傷を負わせる――昨晩からの状況を総合すると、どうやら理沙が得た魔法はそういった類のもののようだ。
なるほど、この右足の傷がどうして出来たのか不思議だったが、今理解出来た。
さっき扉へ向かって走ろうとした時に、あの血液のべったり付着した手で触られていたのだ。
しかし、そうだとすると納得ができないことがある。
「では昨晩の騒ぎは自演だった、とでも? あれは放っておけば死に至る傷だったはずよ。たまたま私のような治癒魔法を扱える者がいたから助かったけれど、普通であれば命を落としていたはずだわ」
「たまたま? ふふん、そんなの【知っていたからに決まってるじゃない。】
魔女様がね、教えてくれたんだ。
私の願いを叶えるには、ああするのが一番いいって。
ほんと言ってた通りだったよ。時坂さん、理沙が自分で傷を作っているとも知らずに、必死になって傷を塞ごうとし続けて。馬鹿みたいに延々延々――まるで私に奉仕する奴隷みたいだった。ああ、思い出すだけでも気分いい。本当に最高の見世物だったよ」
そういった彼女の顔は、本当に愉悦に満ちていた。
まるで――そうまるで、それが心からの望みだったかのように。
その表情には、見覚えがあった。
魔女と契約を行った魔女憑きが、願いを叶えた瞬間の顔だ。
「まさかとは思うけれど……そんなくだらない願望を叶えるために、魔女を頼ったの?」
「ッ! そうやってすぐ上から見下す! だからアンタが嫌いなの! 中学の時も、ずっと、ずっとそうだった! さらに何? 理沙のことを覚えていない? ふざけないでよ! 理沙がどんな気持ちでアンタのこと見てたのか知らないくせに!」
「知らなくて当然よ、私は貴女ではないもの。それにしても理解できないわ。そんなことのために【自分の寿命の半分を魔女に差し出すなんて】」
魔女は人間へ魔法を与える際に対価を奪う。
それは契約者の寿命だ。
まだ若いとはいえ、いや若いからこそ、大量の寿命を魔女へと捧げているはずだ。それが二十年なのか、三十年なのかは知らないが。
「……アンタには一生掛かってもわからないよ。絶対にわからない」
そう呟く彼女の瞳は暗く陰鬱で、それでいて口元には薄く嗤いを貼り付けていた。
私は嘆息した。彼女の言動は本当に理解不能だった。
「まあ、理由なんてどうでもいいわ。あなたが魔女憑きなのであれば、私のすることは一つしかないもの」
そう。
その他の事柄など全ては些事だ。
一体彼女がいつ魔女憑きになったのか、私をこの家に連れてきた理由はなぜなのか、分からないことはいくつもあるが、それは全てを片付けた後にでも考えれは済むことだ。
大切なのは、絶対に譲れないのは、たった一つだけ。
「魔女憑きは、殺す」
呟くと同時に私の髪が赤色に変化した。自分でも抑えきれない興奮のためだ。
こればかりは生理現象のようなものなのでどうしようもない。
それに利点もある。肉体が魔女側に近づくためか、身体的な触覚が多少鈍くなるのだ。つまり痛みを感じにくくなる。これは今現在のように傷を負っている時には有難い特性だ。
「へんなの。茹でた海老みたい。まー、殺したいならやってみればいいよ?」
振るわれた腕から飛び散る血液。それをソファーの陰に転がり込んでやり過ごす。
脚部のホルダーからグロックを引き抜いて呼吸を整える。
相手が魔女憑きであればいくら鉛玉をご馳走しても問題はない。
それに彼女の魔法が付着した血液を媒介に破壊を起こすのであれば、真正面から立ち会えはそれ程恐ろしい魔法ではない。
なにしろ血飛沫と弾丸だ。
例え同時に攻撃したとしても、私の身体が裂けるより彼女の頭蓋に穴が空く方がずっと早い。
と、殺すのはまだ駄目なのだ。
彼女を魔女憑きにした魔女について聞き出すのが先だった。魔女絡みの話になると直ぐに頭に血が登るのは私の悪い癖だ。
狙うのは頭ではなく四肢。まず攻撃が出来ないように両腕を、その後に逃げられないように両足を撃ち抜く。
話を聞くのはそれから。
殺していいのはさらにそれから。
深呼吸――
ソファーの上から上半身を出して狙いをつける。理沙との距離は三メートルもない。目を瞑ってでも当たる距離だ。
銃口を向けられても理沙は動かない。笑みを貼り付けたまま私を見下ろしている。
銃をオモチャだと思っているのだろうか。
構うものか、右肩を狙い引鉄を引く。
乾いた音か響いた。
「くっ――」
私の手からグロックが零れ落ちた。
音速で飛翔した弾丸は大きく的を外れて壁に穴を穿っていた。
理沙は何もしていない。
にも関わらず【私の両腕の皮膚が弾け飛んでいた。】
「理沙の魔法は血液を付着させた部分を破壊するモノ――
――そんな想像でもしてた?」
床を転がったグロックを拾い上げながら、理沙は、にやあり、と顔を歪ませた。
「ッ!」
立ち上がって距離を取るより、理沙が駆け寄ってくる方が早かった。
思い切り蹴り飛ばされて、部屋の奥へ戻されてしまう。また出口が遠のいた。
いや、それよりも、どういう事だ。
血液は彼女の魔法に関係ないのか?
先ほどの攻撃を見た限りではそう判断するしかない。
相手の魔法の本質。
それは対魔女憑きの戦闘において最優先に調べ上げるべき事柄だ。
相手の魔法がどんなものなのかを看破出来れば勝率はぐんと上がるからだ。
種の割れた魔法など手品にも劣る。
逆にどんな魔法を有しているのか分からない場合、それはうかつに手を出せない状況となってしまう。
理沙の先ほどの攻撃は、もしかしたら相手を見つめるだけで攻撃が出来るものなのかもしれない。
もしかしたら念じるだけで発動し、視界に入れる必要すらないのかもしれない。
そんな魔法なのだとしたら私がここから生きて出られる確率は相当に低くなってしまうことだろう。
「これってピストルだよね。理沙、本物は初めてみたよ」
理沙は慣れない手つきで拳銃を構えた。当然、狙いは私だ。
「ぱあん」
パン、という発砲音と共に左腕に衝撃が走った。次いで焼けた鉄鐺を押し付けられたような灼熱感、肉が貫かれる激痛。
「ふうん、上手く撃つのって難しいね。お腹狙ったのに凄いズレちゃった。にしても時坂さんは嬲りがいがないね。さっきから全然声上げないんだもん。お姉ちゃんなんてずーっと子供みたいに泣いてたのに」
「……意味がない事はしない主義なのよ」
「つまんなーい。つまんないつまんないつまんないつまんない。ならどこまで我慢出来るか試してあげるよ。悲鳴上げるのが先か、死ぬのが先か」
理沙の言葉が終わると同時に、私の左掌が爆ぜた。
そう、爆ぜたのだ。
彼女の攻撃は切るというよりは身体の内側から弾けるようにして傷を作っていた。
身体の破壊はそれだけに留まらなかった。
胸元が裂け、左股が裂け、脇腹、右手、顔、左脛――内側から肉体が爆ぜる衝撃で、私は操り人形のように右へ左へと踊らされる。
こうして自分の肉体の破壊を淡々と観察していると、理沙の言う通り全く堪えていないように見えるかもしれないが、当たり前だが物凄く痛くて苦しい。
それを表に出さないのは単純に表現の仕方を知らないだけだ。
泣き叫ぼうとしても、そんな声の出し方を知らない。
そもそも私は自我を持ってから一度も涙を流したことがないのだから。
だが感情が表に出なくても攻撃のダメージは着実に私を疲弊させる。
急激な出血のためか何度も意識を手放しそうになるが、新たな衝撃で無理矢理に覚醒させられる。
終わる事のない暴力は、全身へとくまなく歯を立てられ咀嚼されるような感触だった。
――私は、非力だ。
私の魔法はこういった暴力の前ではあまりにも無力だ。
だからこそグロック19という牙をを持つことを義務付けられた。魔女憑きも肉体的には普通の人間と同じ場合が殆どだ。戦闘になった場合でも拳銃という武力があれば十分に相手を無力化出来る。
だが今、その最期の牙すら取り上げられてしまった。
今の私に出来ることは、ただただ不可視の肉体破壊を受け続けることだけだった。
「――ぅ――あ」
どしゃり、という音が聞こえた。
一瞬なにかと思ったが、何のことはない、私が床に倒れ伏した音だ。随分と水っぽい音なのは出血のためだろう。身体が冷えて行く。床に流れる血液は暖かかった。
理沙は倒れた私を満足げに見下ろしていた。
うつ伏せに倒れたので彼女の顔をみるのも一苦労だ。身体は痛まない箇所がないほどに痛いが、身体を魔女に近づけていたおかげだろう、なんとか意識を手放さずに済んでいた。
「んんっ、すっきりしたぁ。理沙ね、時坂さんのことずーっと嫌いだったから、いつか苦しませてやろうって考えてたの。昨日の夜もそうだったけど、長年の夢が叶ったって感じ」
「それは、随分と、陰湿な夢ね」
「なんとでも言えば? 理沙超ご機嫌。だからー、そうだなー、言い残したことがある? ってやつやってあげる。どうどう? 理沙を罵ってもいいんだよ?」
私は口の端で嗤ってしまった。
罵る理由などどこにもない。
だから、
「別に、私から、言う事なんて、なにもないけど……そうね。よかったら、教えてくれないかしら、なんで――私のことが、嫌いなのか」
「え、今更そこなの? ていうか、全く心当たりとかないの?」
理沙はそういって私の頭へ銃口を突きつけてきた。
突きつけられる銃口はどこまでも硬くて冷たい。
「物覚えが、悪いものでね。一つだけ、というならなぜ私を毛嫌いするのかを、聞かせて貰える、と嬉しいわ」
「本当に全く全然検討もつかない?」
「つかないわ。何度も言わせないで」
「ほんっと、時坂さんて最低だよね。まあ、いいよ。思い出させてあげる。思い出す義務が時坂さんにはあるんだから」
「義務?」
首を傾げる私を睥睨し、理沙は訥々と語り出した。