5.
彼女の家は六階建てファミリー用マンションの最上階だった。
車を降りて長いエレベータを上がる間、私は理沙が付き合っているというマコトクンとの惚気話をぼうっとしながら聞いていた。
曰く、凄く優しくて頼もしく、理沙のことだけを見てくれて、理沙のことだけを愛してくれている。理沙の為ならば何でもしてくれる。怪我が治ったら一緒にデートに行くこと。買い物をした後にプールへ行く予定だ云々。
私も女子高生もどきの端くれのはずなのだが、彼女の話を聞いていても何が楽しくて何がそこまで幸せなのかが理解できない。
優しさの影には冷徹な打算が存在するし。
愛とよばれるモノは一瞬で憎悪へと変質する。
こうして好きだ愛だと幸福そうに語らえるのは、それだけ彼女が純粋なのだろう。
それはとても羨ましく感じられる。
いや、妬ましくすらあるだろう。
「私には無理だわ」
「でね、誠くんたら――え? なにか言った?」
「いいえ。なんでもない」
「えー、言ったよ。なにが無理なの? ねぇねぇ」
「本当になんでもないわ」
笑顔を浮かべようと努力してみたが上手く出来たかは自信がない。
というか、
「え、いきなりどうしたの。お腹でも痛いの?」
理沙が不思議そうに言っていたので、たぶん失敗だ。
ふむ、自然な笑顔を作るにはどうすればいいんだろう。コツとかあるのだろうか。今度鏡の前で練習してみようかしら。
「ここだよ」
理沙が歩みを止めたのは六階最奥の角部屋前だった。
マンション最上階の角部屋――恐らくそれなりに高額――を姉妹だけで使っていたということは、彼女はそれなりに裕福な家庭で育ったのだろう。奔放な性格もそのためかもしれない。
「お邪魔します」
ドアを潜ると綺麗に整頓された靴が私を出迎えた。家の玄関に沢山の靴が並んでいるというのは新鮮に感じる光景だった。私は履き潰してから次の靴を買う人間なので、うちの玄関には基本的に靴が少ない。
「どうしたの、ボーっとして」
「ん……。いえ、私の家とは違う匂いがするな、と思って」
住んでいる人間の匂いとでも言えばいいんだろうか。以前に巌本の家に行った時も同じようなことを感じたが、その時とは漂っている匂いが明確に異なる。
「あるよねー、他人の家の香りって。ちなみに理沙の家はどんな香りなの?」
「えっと……女性らしいというか……どこか馴染みがあるというか……」
正直に評すればあまり好きではない匂いだった。
女性が住んでいるためだろうか、どこか香水のような香りが漂っているのだが、ただ、それだけではなく、この嗅ぎなれた感じは――
「――ねえ、水音がするのだけれど」
嗅覚の奥底をさらっていると、さあさあという細い水音が聞こえてきた。
「そうだ、シャワー出しっぱなしだったんだ。止めてくるね」
「?」
水を流したまま外出していたなんて、いったい何を考えていたのだろうか。彼女の行動を理解するのは本当に難しい。
まあ私も寝起きは自分でも理解不能な行動をとることがあるので、あまり他人のことを偉そうには語れない。
つい先日も寝ぼけて置時計を冷蔵庫の中にしまい込んだばかりだ。
思い返してみると、あの時は「時計は冷蔵庫の中にしまわなきゃ」「なんで私は外に出しっぱなしにしてしまったんだろう、駄目だなあ」みたいなことを考えていたような気がする。後ほど冷蔵庫を開けた時は珍しく声をあげて驚いたものだ。
と、スマホが着信音を発した。また柳からだ。
一瞬出ないで放置してやろうかとも考えたが、仕事の電話だったら困るのは私の方だ。特に今回の件に関しては早く解決してくれないと私が持ちそうにない。主に精神的に。
「はい、時坂神樂です」
『いま詩村理沙は近くにいるか?』
開口一番、柳はそんなことを言った。
「どうしたのよ、藪から棒に」
『いいから答えろよ。まだ移動中なのか』
ずいぶんと苛立った様子だ。なんなのだろう、突然。
確かに私は柳の同僚ではあるが、一方的に命令されるような上下関係はない。あくまで対等な立場だ。頭ごなしに命令してくるこの状況は、たぶん怒ってよいもののはずだ。
「……大丈夫よ。会話を聞かれる心配はないわ」
怒らないけどね。面倒くさいから。
その代わりにちょっと説明を省いてやった。正確には『会話を聞かれる心配はない。でも近くにはいる』状態だ。一応護衛役なのだし離れていいはずもない。私なりのささやかな反抗である。
『そうか、そのままの距離を取れ。よくない知らせだ。詩村千枝の友人という女と連絡が取れた』
シムラチエ……ああ、理沙の姉か。
「進展があったのなら、それはいい知らせだと思うのだけど」
『進んだ方向がよくない。姉が同居してないって話だが、あれは事実だった。ただ姉が出て行った理由はどうにも単純に男関連のトラブルだけってわけじゃなさそうだ。
【妹が怖くて家に戻れない。】
詩村千枝はそう友人に話していたらしい。
これはまだ裏が取れているわけじゃないんだが、一週間ほど前に姉が家に物を取りに戻った時に、詩村理沙が連れ込んだ男の手足に包丁を突き刺していたらしい』
「――――」
ざあざあ、という。
水の音が大きくなった気がした。
『それを見て怖くなったから逃げ出したそうだ。警察にはまだ届けられていない。肉親がそんなことをしているのが信じられなかった、という話だ。まあ信じられなかったというより信じたくなったんだろうが』
柳の声を聞きながら、私は一歩、二歩と廊下を進む。
水音がしている浴室は玄関から入ったすぐ脇にあるが、洗面所があるため角度的に玄関から浴室の中までは見ることが出来ない。その浴室を覗ける場所まで、なるべく音を立てないように。一歩ずつ。
『その姉が、三日前に妹の様子を見てくると言い残して自宅に戻ったまま音信不通だ。その友人も警察に届けようか迷っていたらしい。俺も最初は警察に間違われたくらいで……おい、さっきから気になってるんだが、この水音はなんだ』
「――シャワーの音」
『お前』
柳はそこで言葉を切った。
まるで私の言葉を信じたくないかのように。
『いま、どこにいる』
浴室には三人が存在していた。
水滴を噴き出すシャワーノズルの下には、両手足を縛られて胎児のように丸くなっている少年がいた。絶え間なく冷水を浴びているにも関わらず、震えるどころかぴくりとも動かない。
水を張った浴槽の中には女性物の服を纏った【ぶよぶよの肉の塊】が沈んでいた。殺されてすぐに沈められたのか、沈められることで溺死したのか。水面から突き出した両足だけが、生前の女性らしさを微かに残していた。
「もう、誠くんってばちゃんと反省した? 私の前で二度と他の女の名前なんて呼んじゃダメなんだからね」
理沙はコツンと少年の頭を叩くと、少年の手を縛り付けていたロープを包丁で切断した。
ばしゃりと湿った音を立てて掌が床へ落ちる。
その手首には包帯が巻かれ血が滲んでいた。
「う……」
少年が呻き声をあげた。
すでに死んでいるかと思ったが、どうやらこちらはまだ生きているようだ。かろうじて、といった様子だけれど。
「包帯取り換えなきゃね」
理沙は妙に慣れた手つきで動かぬ少年から包帯をはぎ取った。鋭い刺し傷は、位置的にも恐らく掌に繋がる健が切断されているのだろう。
柳から聞いた『理沙が手足を刺していた』という話も、これで事実だと証明されたわけだ。
「ねえ時坂さん。理沙、家の奥まで入っていいなんて一言もいってないんだよ」
ぐるり、と。
物凄い勢いで理沙が振り向いた。
その表情は普段通りの無邪気な笑顔だが、瞳が欠片も笑っていない。
「……念のために確認しておきたいのだけれど、これ、貴女がやったのよね」
コレとは即ち浴槽に沈んでいる水死体であり、目の前で糸の切れた操り人形のように崩れ伏すマコトクンである。
「ん、そうだよ? あ、時坂さんもすぐにお姉ちゃんと同じみたいにしてあげるね。私決めたんだぁ、誠クンが名前を呼んだ女は全部ぐちゃぐちゃの顔にしてやるって。そうすれば誠クンも気持ち悪がって近づかないでしょ? 理沙あったまいいー」
ねえ、褒めて褒めて、とマコトクンを抱きしめる理沙。
「名前を呼んだって……それだけで自分のお姉さんを殺したの?」
「それだけっていうかぁ、だってお姉ちゃんたら誠クンを誘惑しようとするんだもん。夕飯食べてから帰らない? とか、帰るとき気をつけてね、とか。そういうの止めてって言ってもヘラヘラ笑って全然聞いてくれないから」
それは単純に妹の彼氏に気を遣っていただけのような気もするのだが、まあ、物事の受け取り方など人それぞれということなのだろう。
「時……坂、逃げ、ろ」
不意に、呻くような声で名前を呼ばれた。
声の主は――探すまでもない、理沙に抱きすくめられているマコトクンだ。
いつから気づいていたのだろうか、その絶望に彩られながらも真っ直ぐな視線が私の眼球に突き刺さる。
「――ん」
いつかどこかで、こんな目を見たような気がした。
――夏。
校舎裏。
蝉の声。
湿った土と蒸発する水の香り。
樹のざわめき。木漏れ日。
断片的な記憶はピントが合っていない写真のようだ。
なんとなく、こう、喉元まで出かかっているのだけれど。
「他の女の名前を呼ぶなァ!」
一瞬の思考の空白は金切り声で吹き飛ばされた。
理沙は抱きかかえていた少年をタイル張りの床へ放り出して、その腹を執拗に蹴り飛ばし始めた。
「誠クンが呼んでいいのは私の名前だけ! 私の名前だけ呼んでイイの! 他は駄目! 私だけを見てればいいんだから! ねぇ聞いてる!? 聞いてるの誠クン!」
「あ、ぐ……げえっ」
少年は執拗な腹部への暴力にこらえきれなくなったのか嘔吐する。ここに監禁されている間は何も食べていなかったのだろうか。タイルにまき散らされる吐瀉物は黄色い胃液だけだ。
「あっ――誠クン、私ったらまた興奮しちゃって。大丈夫? お腹痛い? でも私が駄目って言ったことをやったら駄目なんだからね。誠クンは理沙の理想の彼氏なんだから、ちゃんと覚えてね? 理沙達のラブラブなところを時坂に見せつけるんだから。それにしても、時坂、誠クンをこんなに傷つけることになったのアンタのせいなんだからね!」
「え、私?」
そこで怒りの矛先がこちらに向くとは思わなかった。
理沙はゆらりと立ち上がると包丁の先を私へと向ける。
いやいや、先ほどからよく分からない方向に話が進んでいる。なんで私が悪いことになっているのか。
「ちょっと待って。私は別に、貴方たちの関係に立ち入ろうなんて考えていないわ」
「嘘! アンタもお姉ちゃんと同じで誠クンを誘惑する気なんでしょう! そうに決まってる!」
「なんでそんなことをしなければいけないのよ。私は彼になんの興味も無いし、貴女が誰を殺そうが監禁しようが知ったことではないわ。私には関係のない事柄ですもの。それよりも早くサテライト本社へ戻りましょう。もうじき日が暮れるわ。必要ならその男の子も一緒に連れて行くから。ね?」
「嘘! 嘘嘘嘘嘘嘘だ! アンタなんか信じない!」
ああもう、何度も面倒くさい。
「本当よ。私は貴女のプライベートに干渉するつもりは一切ないわ。今見ている光景についても誰にも喋らない。魔女の呪いが解けたら二度と貴女達の前には現れない。
【こんなどうでもいいこと】に拘泥して、魔女への手がかりである貴女を死なせるわけにはいかないの。彼が必要なら一緒に運ぶのを手伝うから」
「寄るな!!」
脱衣所から浴室へ一歩踏み入れた瞬間、包丁で斬りつけられた。
「危ないじゃない」
「近寄るな! そうやって油断させておいてまた誠クンを誘惑する気なんでしょう!? そんなことさせない! アンタは見てるだけ、見せつけられるだけ! 誠くんと話そうなんてするんじゃない!」
「だから、そうじゃなくてもう時間――」
「させないさせない! そんなことさせないんだから! それに時坂さんの顔はコンロで焼くことに決めてるんだからね。それからお姉ちゃんと同じようにお風呂に漬けてあげるね。火傷した後って水ぶくれになるし、お姉ちゃんの顔よりも大きく膨らむかな。まあやってみれば分かるよね」
喋り終わる前に包丁で再度斬りつけられた。
勿論私もただ刺されるのを待っていた訳ではない。大きく後ろに跳躍して廊下へと飛び出――そうとして、脱衣所のマットに足を取られた。
転倒はなんとか免れたが、理沙に一気に距離を詰められ、三度包丁が空間を切り裂く。
今度は髪の毛が一束持って行かれた。
後ろに下がる勢いを殺さず、廊下を後転して理沙との距離を取る。
私が立ち上がるのと、理沙が玄関に続く道を塞ぐのが同時だった。
――私の馬鹿。
避けるなら玄関の方へ転がれば良かったんだ。自分から家の奥に進んでどうするのだ。
「逃がさないんだから。絶対に焼いてやる」
理沙がじりじりと距離を詰めてくる。
私が逃げ込んだのは八畳ほどあるリビングダイニングだ。奥にはさらに部屋があるが、あそこに逃げ込んでも追い詰められるだけだろう。ここはマンションの最上階だし、ベランダも論外。
この部屋から出るには理沙をやり過ごして玄関から出て行くしかないのだ。
――身を守る手段が無いわけではない。
特に右脚に巻き付いているグロック19は信頼の置ける相棒だ。
だが拳銃を使うわけにはいかない。
彼女は大事な魔女への手がかり。それも勿論あるのだが、それ以上に理沙は魔女憑きに狙われていた【普通の人間】だからだ。
そう、普通の人間なのだ。
例えそれが姉を殺して恋人を監禁しているような変人だったとしても、私にとってそれは判断を変更する基準とはなり得ない。
聖人だろうと殺人鬼だろうと、大人だろうと子供だろうと、【私は人間に危害を加えない。】
これも大切な約束だ。
私は約束を守る。
だって約束を破る事はいけないことなのだから。
彼女が魔女憑きであるならば問題はない。蹴り潰して踏みつけて鉛弾をブチ込んでも構わない。
でも駄目だ。
普通の人間は、駄目なのだ。
「あはははは!」
理沙が包丁を大上段から振り下ろしてきた。
その双眸は満面の笑みで満たされている。もう楽しくて楽しくて仕方がない様子だった。
他人を痛振って悦に入るという感情があることは理解しているが、やはり彼女のそれは常軌を逸しているように見えた。
私も他人から襲われるという経験には事欠かないのだけれど、これだけ喜色満面で切りかかられるのは初めての体験だ。まるで待ちに待った誕生日プレゼントに手を伸ばす子供のようだ。
そんな無垢で無邪気な笑顔をされると、私としてはとてもやり辛いのだけれど、だからといって、大人しく傷を負ってあげる訳にもいかない。
故に。
私は切りかかってきた理沙の包丁を手刀で叩き落とし、
「――えっ?」
そのまま腕をとり足を払った。
走りながら包丁を振り回すなどというアクロバッティックな動きをしていた理沙は、簡単にバランスを崩して床へと倒れ伏した。
別段特別なものでもなんでもない。ただの護身術である。
柳に定期的に教えてもらっているが、悔しいことにこういった場面で何度か役に立っている。
ちなみにあの男を一時的とはいえ「先生」と呼ばなければならないのが、どれほど屈辱的かは、まあ、あえて語るまでもないだろう。
「ッ、う、ううううううううううううううううううううううううムカつくムカつくムカつくムカつくムカつ、ムカつくムカつくムカつくムカつくムカつく」
理沙は包丁を床に突き立てて呪詛のように呟いている。
さらに倒れた時に包丁で切ってしまったのだろう、その右手が血に濡れていた。理沙はそれを気にするでもなく、むしろ傷ついた手の爪でがりがりと床を引っかき、私を睨み付けてくる。
――仕方がない、方針変更だ。
あれほどの興奮状態では暫くまともな会話は出来ないだろう。
となれば力ずくでもサテライトに連れ帰り、鎮静剤でも打ち込んで大人しくさせるしかない。
とはいえ、私の身体能力は外見と同等、つまり普通の十五歳女子のものだ。魔法が使えるからといって、打たれ強かったり筋力が高かったりするわけではない。さっきは上手く投げ飛ばすことが出来たが、私一人で彼女を取り押さえ、かつ会社まで引きずっていくのは無理だろう。
人手がいる。
ともかく一旦引こう。
幸いにも先ほどの立ち回りで彼女と私の立ち居地は逆転している。
理沙が部屋の奥で倒れている以上、玄関まで駆け抜けてそこから待たせている車まで行けば、少なくとも落ち着いて応援を呼ぶことが出来るはずだ。
そうと決まれば長居は無用である。
「逃がさないんだから!!」
こちらが体を反転させて玄関へ向かおうとした瞬間、理沙が四つんばいの姿勢から飛び掛ってきた。まさに獣のような、という形容がしっくりとくる動きだった。
私の足首をがっしりと掴んだ彼女を、それでもなんとか振り払い、理沙へ背を向けて玄関へ駆け出し―――
―――カクンと膝が折れ、私は足をもつれさせて転倒した。
「?」
振り返ると四つんばいになっている理沙と目が合った。
その顔から胸にかけてが赤く濡れていた。
ぬらりとひかりを映す液体、大量の血に濡れていた。
血?
確かに手を少し切ってはいたようだが、それであそこまで大量に出血することはない。
つまりあの血は彼女の切った手から流れたものではないということだ。
すなわち、それは。
嫌な予感に総毛立つ。
背後には大きな出窓。
その一面が紅暗く染まっていた。
紅く、赤く。
そう、時刻はいつの間にか、夕刻――逢魔が時を迎えていた。
逢魔が時は魔力が高まる。
それはこの業界での常識だった。
つまり、『呪詛』が再発動したのだ。