4.
「帰りたい……」
手配した車の中で、私は久々に本気の愚痴をこぼしてしまった。
幸いなことに隣に座る理沙には聞こえていないようだが、もうこの際聞こえてしまってもいい気がしてきた。
あの後、帰宅を希望する理沙のために本社から車をまわして貰ったわけだが、運転手を頼もうと思っていた柳に「調べ物があるからパス」とすげなく断られ(薄情者め)、結局運転手込みで手配をしてもらうことになり――今現在、なぜか私の手の中には抹茶味のアイスクリームが握られていた。
「美味しいぃー! やっぱ食べるなら絶対にストロベリー&バニラよね!」
隣の理沙はコーンの上でバランスを崩しかけている二段に盛りのアイスクリーム――ねだられて私が買ったものだ――を勢いよく頬張りながら、満足そうに頬を緩めている。そんな彼女と、手中にある溶けかけのアイスクリームを眺めつつ、先刻のやりとりを思い出す。
「理沙、アイス食べたいな」
車に乗った直後、彼女が放った言葉に私は愕然とした。
「……アイスってアイスクリームのこと?」
「うん。今日なんだか暑いし食べたーい。何味にしよっかなぁ。やっぱストロベリーは外せないよね」
まるで買いに行くのが当然とばかりのその言葉に、数秒と置かず再度愕然とした。
さすがにそこまでしている時間はない。一旦家に戻った後、日が落ちる前には本社へ戻る必要があること、夕暮れまでにはあと二時間程度しかないこと、アイスは無事に呪いを解けばいつでも食べられること等を、なるべく丁寧に説明したのだが、
「イヤ! 理沙はいま食べたいの。ねぇ、調査に協力するから、お願いー」
聞く耳を持たないとは正にこのことだ。耳を持たない、などという比喩は大げさすぎる表現だ、などと思っていたが、認識を改める必要がありそうだ。
「時坂さん、早く食べないと溶けちゃうよ?」
はたと、理沙の言葉で取り留めのない思考から覚める。
見れば理沙の手中のアイスは早くもコーン部分を残すだけである。それに比べ私の方はまだ口すら付けていない。
「それ抹茶味だよね。抹茶好きなの?」
「私は別に。知り合いが好きなの」
「へぇ。理沙、抹茶味って食べたことないんだあ。美味しいのかなぁ」
甘えるような声音からは「食べてみたいなー」という声が聞こえてくるようだ(この鈍感な私にすら!)。ほんの少し言葉を交わしただけだが、普段の彼女がよく想像できる。
「よかったら食べて」
「えっ、いいの? ありがとう!」
差し出したコーンをにこやかに受け取ると、溶けかけたアイスに小さな舌を這わせる。ちなみに抹茶の評価は「うーん、可愛くない味?」といまいちだった。
「それで、そろそろ貴女のお姉さんのことを教えて貰えないかしら」
姉に恨まれている。
そう口火はきったものの、その後の説明は微妙にぼやかされてしまい、いったい何がどう恨まれているのか判然としていないままだ。
「ん? んー。なんか家族の話って良いことでも悪いことでも話しにくいよねー、えへへ」
「話しにくくても、話して貰わなければ困るのは貴女よ」
「そんな言い方しなくても……理沙は別に、話さないって言ってるわけじゃないのに……ひっく、うぅ」
「あああぁぁ、お願いだから泣かないで。別に責めているわけじゃないの。ごめんなさい」
ハンカチを手渡して落ち着くのを待つ。
はぁ。
人と話していて緊張することは多いが、こんなに疲れるのは久しぶりだ。まあ事件があった昨日の今日だ、彼女が情緒不安定なのは致し方がないだろう。家出した猫に比べれば言葉が通じるだけずっといい。
うん、そう思うことにしよう。
「落ち着いたかしら」
「……うん」
しばらくの後、ぐずぐずと鼻を鳴らしながらも頷いた。
「じゃあ話して。お姉さんのこと」
「本当はあまり話したくないんだけど……特別だよ? ええっと、お姉ちゃんは大学生で、私と一緒の部屋に住んでるんだけど」
「ちょっと待って。さっき家には自分と彼の二人で同棲しているといってなかった?」
「そうだっけ? うん、今はそうなんだけど、でもちょっと前はお姉ちゃんと暮らしてたの。お姉ちゃんに彼氏が出来て、それでなんか上手くいかなくなっちゃって」
過去を思い出したのか、理沙は窓の外を眺めて独白を続ける。
「お姉ちゃんの彼氏がね、ちょっと変わった人で、ちょっとエッチっていうか――ううん、お姉ちゃんと付き合ってるのに、その、理沙にキスしようとしてきたりして、その現場をお姉ちゃんが見ちゃって、それで帰って来なくなっちゃって。……私は嫌だったんだよ? 誠くんのことが好きだし、でもお姉ちゃんの彼氏だからあんなことするなんて思わなかったし……ねえ、理沙悪くないよね?」
「ええ、そうね」
私は適当に即答した。
なるほど。痴情の縺れから来る恨み――こういった男女間のトラブルを魔女が利用することは、実はそれなりに多い。帰宅しなくなった姉が魔女と契約して魔女付きとなり、その恨みを妹へぶつけている、と。
辻褄はあう。
となると姉のことを調べなければなるまい。私は動けないので柳に動いてもらうか。
「やっぱり? 理沙悪くないよね。よかった、時坂さんなら分かってくれると思ってたの。お姉ちゃんの彼氏って乱暴でね、私が嫌だって断っても何回も――」
理沙の言葉を聞き流しつつ、スマホで柳へとメールを送る。
『詩村理沙は同居していた姉と男女関係のトラブルを抱えていた。姉の男と関係を持っていたらしい? 姉は行方知れず』
送信するとすぐに通話着信が来た。柳からだ。
「はい、時坂神樂です」
『よう。お姫様とは仲良くやってるか』
「……………………車、停めてもらえるかしら」
私はそう運転手へ告げた。
短いやりとりだが、柳の一言で判明した事実が一つあったからだ。
「『お姫様』って、あなた、彼女の人格を知っていて私に押し付けたわね?」
車外に出て開口一番、文句をぶつける。
時間のロスになろうが、これだけはどうしても我慢できなかった。
『いい性格してるだろ。気をつけろよ、ああいうタイプは怒らせると怖いぞ』
「私も怒ると少しだけ怖いから。覚えておきなさい」
『気が向いたらな。でもまあ、近い世代と話をするってのもたまにはいいんじゃないか。お前には若さが足りないと常々思っていたんだ。その子から若さとは何かを学んでこいよ』
「私のためみたいな言い方は止めて。あなたが相手をするのが面倒くさかっただけでしょ」
『いいや、ただの適材適所さ』
「これのどこが」
『こっちが気楽で、そっちが気苦労が多いって辺りだ』
「…………」
『若いうちの苦労は買ってでもしろって言うだろ。これもお前を想っての選択だよ』
「お・気・遣・い・どうもありがとう。後でお礼にキスしてあげるわ。靴底で」
『そいつは楽しみだ。歯磨きを忘れないようにしないとな』
ああ、柳がこの場にいないのが口惜しい。
このモヤモヤどうしてくれようか。
『そうカリカリするなよ。そんなにあの子が苦手か?』
「いま現在のストレスは九割方あなたが原因なのだけれど……まあ彼女は正直、猫にでも話しかけている気分よ。会話になっているのか自信が持てない」
『対応が難しいと感じたら無理に喋らなけりゃいい。沈黙は金なり、だ。それに真正面からあのお姫様を相手にするには、お前は正直で真面目すぎる』
「……褒められているのか馬鹿にされているのか、判断しづらいのだけれど」
『客観的な事実を述べてるだけさ。固定観念や常識の枠組みに囚われすぎないように、って忠告だ。世の中で貧乏クジを引くのは大概が真面目で正直な奴だからな』
「やっぱり馬鹿にされてる気がする」
そう返すと電話の向こうから含み笑いが聞こえた。
ああ、苛立たしい。
柳とはそこそこ付き合いが長いのだが、いまいち何を考えているのか分からない。それだけならまだしも、この男は私をからかうことを妙に楽しんでいる節がある。あのニヤけ口を何度ホッチキスでとめてやろうと思ったことか。
『――さて、さっきのメールの件に関しての情報だ。詩村理沙の姉、詩村千枝のことは、俺の方でも洗っていたところで、居場所も見当がついてる。姉のことはこっちで引き続き調べておくから、そっちはお姫様の話し相手に集中していれば問題ない。もし何か起きたらすぐに連絡してくれ』
じゃあな、と言い残して電話が切られた。喋るだけ喋って切るのも唐突である。
まあ、柳はのらりくらりとしている男だが、仕事だけは早くて正確だ。あいつが調べておくといった以上、姉の詩村千枝については遅からず情報が集まるだろう。千枝という女が魔女憑きであるならば想像していたよりも早く決着がつきそうだ。早ければ今晩中にでも。
時間を確認すると午後五時半を過ぎていた。
日没まであと一時間。まだ少し余裕はあるが、急がなければ。
「ねえ、時坂さん。ねえってば!」
車に戻ると、理沙が飛びつくようにして話しかけてきた。
「な、なに?」
「どうして理沙が悪くないって信じてくれたの?」
一瞬なんのことだか分からなかったが、そういえば姉の恋人に迫られてどうのこうのと言われた時に、そんな感じで答えたような気がする。
正直、情報を入手したかっただけで彼女の恋愛沙汰には一切の興味がないので、一番望んでいそうな言葉を口にしただけなのだが。
「えっと、そうね、貴女を信じているからよ」
「本当に!? 嬉しい、時坂さんっていい人だね」
理沙はその答えにいたく満足したらしい。表情を綻ばせる。
貴女を信じているから、貴女は悪くない。
頭の中の返答辞書からソレっぽい語句を選んで口にしただけだが、我ながら支離滅裂もいいところだ。
信頼と行動の善悪が結びつくはずがないのに。
「時坂さんに話したら何だか気が軽くなったよ。ありがとう」
「お礼なんて言わないで」
本当に。自分のことがもっと嫌いになりそうだ。
「でもお礼といえば、昨日の夜に理沙の傷を治してくれたのも時坂さんなんだよね。魔法で治したとか言ってたけど具体的にどんな魔法なの?」
「それは――」
あまり答えたくない質問だった。
沈黙は金なり――諺が頭を過ぎったが、じいっと見つめてくる彼女の大きな瞳が、その沈黙を許してくれそうになかった。
「ええと、失われた部位を魔法で再生させる感じ、かしら」
「再生? 腕とか取れても元通りになるの?」
「ええ」
「内臓とかでも?」
「まあ」
「すっごいね。治せる怪我って他人のだけ?」
「ええ……」
「自分のはダメなんだ、それ不便じゃない?」
「まあ……」
「じゃあ犬とか猫とかは?」
「まあ……」
根掘り葉掘りと質問攻めである。
物理的に押されているわけでもないのに、気がつくと車のドアにべったりとくっついていた。言葉の圧力とでもいうのだろうか、いやむしろ声量のプレッシャー? よく分からないが、とにかく今すぐにでもドアを開けて外に駆け出したくなるような窮屈さ加減だ。
それでも適当に返答していると、やがて質問するネタが尽きたのか、理沙は「ふぅーん」と一つ唸った。
「ねえ、私にも魔法とか使えるようになるかな。魔女との契約がどうこうって」
「――それは、絶対に望んでは駄目」
「え、でも」
「契約したら殺す。この私が」
視線を合わせて一方的に宣言する。
それは揺るぎようのない私の根幹である。
相手が顔見知りであろうと規律に例外は存在しない。
「なにそれ。突然キレないでよ。意味わかんない」
理沙は唇を尖らせて短く呟いた。
私は何も答えなかった。